明治维新与戊戌变法日文
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明治維新と戊戌の変法――近代化の成功と失敗
文科出身としての私は明治維新と戊戌の変法についての歴史を学んだことがある。私から見れば、日本の明治維新は成功で、中国の戊戌の変法は失敗だ。これらは単なる歴史と政治だけでなく、両国の近代化に大きく役を立ったと言っても言い過ぎない。
明治維新とは江戸幕府が崩壊して、天皇を中心とする新政府が成立する過程だ。つまり、日本に近代国家を創出したために、行政制度のみならず教育・産業・金融などを含めた総合的な改革だ。戊戌の変法とは光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって、近代化を目指して行われた政治改革運動を言う。改革の日数があまりに短いので、「百日維新」と呼ばれることもある。
両方の内容は似ているが、結果はまったく異なる。
日本では政治上、廃藩置県と大政奉還が実施されて、中央集権化が進み、憲法が制定された。経済面では、近代の資本主義経済を目指すことになった。殖産興業が実施されて、西洋式工業技術が導入された。社会制度面では、グレゴリオ暦の採用とか断髪令とか改服令などがある。軍事面では、徴兵令が実施され、近代的な常備軍が創設された。思想文化面では、文明開化政策が実施され、小学校から大学までの男女に等しく国民教育を施すことを目指して、自由主義や個人主義などの近代思想が流行してきた。それから、明治政府が成立し、中央集権化も強くなり、政府主導の産業育成が始まり、軍隊と文化と法律と宗教と思想なども発展してきた。短期間の内に西欧列強に比肩する国家を築き上げ、富国強兵を実現させた。その上で、明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。要するに、明治維新のおかげで、日本は成功裏に封建国家から資本主義の国家へ渡し、民族の危機をまぬがれ、当時のアジア唯一の近代国家になったのだった。
しかし、それに対して、戊戌の変法はどうなったか。中国は、政治上、立憲君主制をとって、総裁・議定・参与の三職からなる資本主義社会の機構確立させるという改革を行った。経済面では、資本主義的な工業と農業と商業を保護した。軍事面では、古い「绿营兵」を近代陸軍に移行させた。思想文化では、科挙制度を廃止して、学校と学会を創立して、留学生を派遣した。しかし、これらは変法派の夢にすぎなかった。中国を豊かにすることがてきなかったのだ。結局、光緒帝は幽閉されて、譚嗣同ら6人の官僚は菜市口で処刑された。改革の施策のほとんどが、戊戌の政変の後に廃止された。要するに、国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動は中国の封建制度を根本的に変化させることはなく、保守派の反撃に遭って打倒された。この運動からして、当時中国の近代化は失敗だった。
この二つの改革は両国の近代化に異なる効果をもたらしてしまった。なぜなら、その時の内部と外部の環境が異なっていたからだ。
明治維新は1860年代に行われたが、外部環境的には、世界はまだ資本主義の自由競争の時代だった。その時の欧米列強は中国を目指しており、日本は改革のための時間的余裕が与えられた。だから、日本は辛うじて植民地化の危機を免れた。一方、戊戌の変法は1890年代に行われたが、当時資本主義がもはや帝国主義の段階に向かっており、中国を分割しようという機運が列強の中に高まっていた。そのような状況下において、列強は絶対に中国が改革を通じて、アジアの新しい独立した国家になることを許さなかった。
内的要因としては、改革の条件と手段とか、維新勢力を形成する層の広がり具合の違い
とか、西洋文化への態度の違いとか、制度の実施などだ。
まずは改革の前提条件だと思う。日本では、明治維新以前から、資本主義の商品経済がすでに全国的に盛んだった。さまざまな商人たちは、農村からの独立性が高くて、封建勢力と外国資本への依存度が低く、改革精神が旺盛だった。それと比べて、戊戌の変法以前は、中国の資本主義はあまり発展していなかった。洋務運動があったが、経済の形式はあまり変わらなかった。新たに生まれた民族資本階級も、封建勢力や外国勢力と対峙するにあたり、改革性より妥協を選ぶ傾向の方が強かった。
二番目は改革の手段だと思う。明治維新では暴力をもちいて権力掌握が行われたが、戊戌の変法では暴力が使われず、実際の権力がなかった光緒帝に依頼するかたちで急激に行われた。
三番目は維新勢力を形成する層の広がり具合の違いだと思う。明治維新以前は、資本階級のほか、新興地主の利益も幕府に認められず、保守勢力からの反対にあっていた。そして、農民や武士たちなども幕府の統治に対する不満が高まっていた。西南地方の強い藩侯も倒幕運動を支持した。その結果、明治維新では中下級武士を中心としつつ、藩侯からの協力、天皇という大義名分の御旗、農民と市民からの支持もあって、強い倒幕勢力が生まれた。一方、戊戌の変法以前の中国では、地主の利益が封建的な土地制度と密接に繋がっていた。地主たちが封建制度の支持者だったのだ。金持ちと商人が自分の利益を求めるために土地に投資して、地主にもなった。実は変法はただ尐数の知識階級が支持しただけだった。それに対して、西太后のもと、地主や商人や官僚などが強大な保守勢力を形成し、また、外国侵略勢力も保守勢力を支持した。だから、保守勢力が反撃したら、維新勢力はすぐ瓦解した。
四番目は両国の西洋文化への態度の違いだと思う。当時の日本は外国の文化を喜んで全面的に吸収した。それに対して、中国は儒家思想からの影響が多すぎた。外国からの新しい思想や物事に対する拒否感が強かった。だから、中国で維新を推進することは簡単なことではなかったのだ。
最後は両方の制度の実施だと思う。明治維新では実際の権力のもとに、様々な改革措置がスムーズに実施されたが、戊戌の変法で提案された措置は保守勢力からの妨害で無効になった。
以上の様々な外的および内的要因のため、日本の明治維新は成功した。そして、日本を強国へと導いたのである。しかし、それを真似ようとした戊戌の変法は、ただ歴史の悲劇を演じる以外はなかった。
近代化は、その未来は明らかだが、そこまでの道のりは紆余曲折だと言われている。日本の明治維新は急激に行われたため矛盾も尐なくなく、士族や農民の不満を招いた。中国の戊戌維新は失敗したが、中国における根底からの改革という流れはもはや止めることができなくなった。その後、孫文・黄興らは漢民族による新政権が必要であるとの認識の下、革命運動に身を投じて、中国の近代化の実現を求めたである。