日语精读第七课

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第七課自己演技と表情
わたしが住む琵琶湖の南岸の新興住宅地のかたわらには昔からの集落がある。

そこにはこんもりとした森に囲まれた社や寺もあって、時々散歩に出かけるのだが、道で出あうと顔も知らない人からもよく会釈され、「こんにちは。

」とあいさつされる。

散歩に出るわたしの足をそちらに向けさせるのは、どうも古びた土塀の色やひなびた立ち木のおもむきとともに、道で会う人のそうした表情であるような気がする。

ところが、数百軒の家が整然と立ち並ぶこちら側の住宅地では、隣近所の人をのぞけば、顔は見知っていても道であいさつするのはほんのひとにぎりの人とだけだ。

住宅地の境界であいさつ(表情)地帯と無あいさつ(無表情)地帯が画然と分かれるのである。

こうした郊外もふくめて、日本の都市生活をなにかあじけないのにしているのは、そこに生きる人間のそんな表情のとぼしさではないだろうか。

もちろん,街でつぎつぎとすれちがう無数の顔にいちいち会釈などしてはいられない。

たまたま一時的に空間を共有する人すべてに笑顔をつくってあいさつするわずらわしさから免除されるのが都市という空間でもあるだろう。

アメリカ人の日常行動の社会秩序をあきらかにした社会学者のアーヴィング・ゴフマンは、その著書『集まりの構造』のなかで、複数の見知らぬ人間が居合わせる状況でのアメリカ社会の作法を「儀礼的無関心」と名づけた。

それは一般的に相手をちらっとみて存在を確認したことをあらわし、つぎの瞬間すぐに視線をそらし、相手に特別の好奇心や意図がないことをしめすという形式だ。

たとえば、道ですれちがうとき、およそ8フィートの距離になるまで相手をよくみて、道のどちら側を通るかを身ぶりでしめし、通りすぎるときには、あたかもライトを下向きにするかのように、たがいに視線を伏せる。

路上ではふつう会釈にまで発展するのは許されない。

これはおおよそのところ日本の都市社会でもあてはまる作法だろう。

日本の都会でもこんなときは無言で会釈するのもなれなれしすぎるだろう。

しかしながら、欧米でも知らない人間が出あうといつも儀礼的無関心をよそおうわけではない。

ほほえみやことばを交わしたり、あいさつしたりすることがエチケットとしてみとめられている場面もある。

パーティーなどでは当然そうだが、狭い道や列車の通路ですれちがったときなど、ちょっとほほえんでみせる社交的習慣がある。

ゴフマンによれば、一般にすぐに別れることがはっきりしている列車やバスなどの公共の乗り物のなかでは、見知らぬ人にあいさつしても失礼にはならない。

フランスの作法では、「(鉄道の)長旅なら、隣の人に挨拶をし、荷物を降ろしてあげたり、気をきかして煙草の火をつけてあげたりなどして適当につきあうのが当然である。

礼儀正しい男性なら、立っている女性に席を譲るのが当然だ。

ただし。

この場合譲られた方の女性も、ずっと坐っているのは、ずうずうしい。

(中略)せいぜい30分ぐらいで、また男性に譲ることである。

」(セール『ふらんすエチケット集』による)、というわけで、なごやかな会話が許さ
れている。

このような例をみると、欧米の社会では見知らぬ人間が居合わせる場でたがいに無関心をよそおう儀礼的無関心のルールは、あいさつや積極的関与のルールと表裏の、緊張をはらんだ関係にあることがわかるだろう。

それは無礼にならないでかわりあいを避けるためのぎりぎりの方法なのだ。

とくに、見知らぬ他人とプロクセミックスでいう密接距離に立つことになるエレベーターなどでは、無関心の相互演技によって緊張が高まり、視線のやり場に悩むことがあるが、ゴフマンが引用しているエッセイによれば、よく似た状況は、アメリカの列車の食堂車で。

二人用テーブルに知らない人と向かい合ってすわらされるときにも生じる。

(ランチをオーダーしたあと、)それが来るまでの厄介な待ち時間を、どうやって費やしたらよいのか。

ちょっとしたきっかけで他人と友だちのようにおしゃべりができるタイプでないならば、相手に話しかけられるのは迷惑で厄介なことなので、話しかけられなければよいが、話しかけられなければよいがと、まるで脱走犯のようにおびえて過ごさなければならない。

時には、相手も同じ気持ちでいることがわかる。

(中略)ふたりの他人が50センチそこそこの距離を隔てて面と向かって座り、おたがいの目をていねいに、かつきっぱりと避けようとしている時には、「みていませんよ。

」という実におもしろいゲームをすることになる。

メニューをもう一度読みなおしたり、ナイフやフォークをもてあそんだり、自分の指の爪をまるで初めてみるかのように眺めたりする。

視線がどうしても合ってしまう瞬間もあるが、一瞬にして離し、窓に映し、過ぎいく景色をじっとみつめるのである。

(『集まりの構造』による)
しかし、日本では緊張がこんなに高まることは少ないのではなかろうか。

もちろん、目をつむったり、新聞を読んだりして、無関心の表現に日本人がたけているということもあろうが、電車などで隣り合わせてもなんのあいさつも交わさないのが、すでに慣習化しつつあるせいでもあるだろう。

先日、筆者が東海道線の電車の四人掛けの席にすわっていると、西洋人の若い女性が乗ってきて、一瞬ニコッと笑顔をつくって向かいの席にすわった。

それで気になって、つぎつぎにに乗りこんでくる人びとの様子をじっとみていたのだか、わたしの視野の範囲ではみんなまったく無表情で、先客に目礼する人さえひとりもいなかった。

まして、そんなときことばをかけたりするのは非常にむずかしくなっているようにおもった。

昔(昭和30年代)、筆者が大学入試の受験勉強をしていたころ、旅行をすると相客に話しかけられてこまったことがあったのをおぼえているのだが、車中で知らない人と話さなくなったのは、東海道新幹線が開業したころからのようにおもわれる。

いまでは東京―大阪間を、隣席の人とひとことも口をきかないですごすというのも少しもめずらしい経験ではなくなった。

儀礼的無関心という作法は、文明史的には、近代都市とともに生まれた行動様式だが、超過密状態にある日本の都会では、わざわざ演ずるまでもなく、礼儀としての無関心は実質的無関心に変じたということだろうか。

人間の表情は周囲の他者との相互作用の直接的な反映だから、周囲の反応に配慮がいかなければ、生き生きとした表情がうかぶはずがない。

ドアの出入りやエレベーターの乗り降りに先を譲ったりしても、相手はせいぜい「すみません。

」とつぶやくぐらいで、無表情だから、コミュニケーションの手ごたえがなく、あじけないのだ。

しかし、こうした無表情は近来の都市生活が生んだものであって、日本人がもとから表情にとぼしいとはいえないだろう。

はじめにものべたように、農村の人の表情はおもいのほか豊かで、屈託がないことに気づかされることがある。

しかし、それにして、最近の日本人の多くにコミュニケーションの表情がとぼしいのはたしかだろう。

英国留学から帰国した女性は、ロンドンの高級陶器専門店でアルバイトをしていたとき、いつも気にかかることがあった、とつぎのように新聞に投書している。

日本人は店員に近寄られるのを好まないので、非常に声をかけにくい。

「いらっしゃいませ。

」と言っても、チラッとこちらを見てわずかに目礼をするか、あるいは特に聞くことがなければ私の方を見ずに黙っている人が多い。

私が英語で話しかける時は「May I help you?」(お手伝いしましょうか。

)で、返答は「Just looking,thank you.」(見てるだけです。

)など、いわゆる決まり文句がある。

しかし、日本語の「いらっしゃいませ。

」は、特に返答の必要がないので、お客様の態度によっては、とても暗い印象をうける。

明るく「ハロー。

」と入ってくるアメリカ人。

店員と目を合わせようとしない日本人。

せめて笑顔をつくって欲しい。

日本ではきづかなかったささいな事だが、海外では大変、気味の悪いものに映った。

(1989年4月16日)
ここでわたしたちにとっていま重要なのは、近代日本語の表現構造そのものが原因で、公共の場で日本人はどうしても無表情になりがちなのではないかと示唆されている点だ。

たしかに、「いらっしゃいませ。

」だけでなく、食事のとき発する「いただきます。

」「ごちそうさま。

」などの日本語独特のあいさつことばも応答を必要としない。

もっと一般的にいって、世界にはさまざまな言語があるとともに、さまざまな話し方もあることが知られているが、他者とメッセージを交互にやりとりする「会話的」コミュニケーションのテンポは、日本人のあいだではあまり活発でないのではないかとおもわれる。

それは言語による会話にかぎらない。

男性が女性にコートをひろげて着せかける。

と、女性は両腕を後ろに伸ばして袖に手を通す。

そんなやりとりによっても“無言の会話”は成立する。

こうしたしぐさの交換もふくめて、会話式やりとりが日本の社会では不活発ではないのかとおもうのだ。

「会話」への用意のない存在、それが投書者のいうように、イギリスなどでは「気味の悪いもの」に映るだろう。

日本人に他社への笑顔がとぼしいことについて、おなじようにおもいをめぐらしている人は少なくないようだ。

以前、新聞のコラムに興味深い投稿があった。

ある匿名氏は、最近どうも職場のなかで女性と衝突することが多くなったという。

といっても比喩的意味ではない。

オフィスで物理的にからだとからだがぶつかりそうになるのだ。

はじめは年齢のせいで動作が鈍くなったためかとかんがえていたが、注意していろいろな職場を観察してみると、すれちがうときに相手に先を譲ろうとする女性はきわめて少ないことに気づいたという。

もちろん、かれは女性は男性に道を譲るべきだなどと主張しているのではない。

アメリカで長く暮らしていた経験があり、ドアの出入りなどではむしろ女性に先を譲るというほうなのだそうだが、日本では社会生活の基本的マナーが女性にも欠けているのではないかといって、こう書いている。

日本の職場に戻ってくるたびに、何か暗さというか物足りなさを感じてしようがなかった。

近ごろになって、それは、廊下ですれちがったり、ふと視線を合わせたときの表情の遠いではないかとおもいはじめた。

歴史に培われた独自の文化、習性によるものではあろうが、ひとつわれわれの顔の表情を研究する「笑顔研究所」をつくってはとさえ思う。

たり、ふと視線を合わせた時の表情の遠いではないかと思い始めた。

歴史に培われた独自の文化、習性によるものではあろうが、ひとつわれわれの顔の表情を研究する「笑顔研究
所」を作ってはとさえ思う。

顔のことなどうんぬんすると、そんなこと他人には関係ないでしょう、いらぬお世話だと主張する人もいる。

しかし、よくよく考えてみれば、自分自身の顔、表情というのは、本人は見ることがないのである。

鏡や写真と言っても、あくまで間接的なものであって本物ではない。

それでいて、自分の笑顔や表情で、周囲の人々を楽しくさせたり、憂うつにさせたりもする。

つまり、顔というのは、自分のものであって実は自分のものではない。

むしろ周囲の人々のために或るとさえ言えるのである。

オフィスでの衝突をきっかけに始まった匿名氏の思索はほとんど哲学の域に達している。

たしかに、人は誰も自分の本当の顔を知らないから、人が一番びっくりするのは突然鏡に映った自分の顔だろう。

まるで他人の顔を覗き見するような表情をするものだ。

考えてみれば、人間はもっぱら他人に見てもらうためにおびただしい表情筋を顔に発達させているのだから、匿名氏のいい方にならえば、顔はまさに自分のものであって自分の物でないのである。

だとすれば、社会生活で互いに笑顔を期待して良い権利があるかもしれない。

それはあたかも私に向けられた問いであるかのようでした。

彼は思わず唇を固く結んで、あたかも自尊心を傷付けられた人のような目を、彼の周囲に向けた。

私がこの場所を好むのは、ここにいると、あたかも石に囲まれているように感じられるからだ.
脳を、あたかも、ノートかコンピュータのように考えて、いちど記録すれば、それがそのままそこに残る、という考えは大変な誤認です。

長いこと、激しく泣き続けられたので、私の頭は、あたかも、キリを差し込まれて揉まれているの如く、痛み出した。

明治維新に対するもとおり宣長の位置は、あたかも仏蘭西革命に対するルウソオの位置に似ている。

そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。

いつからこうなったのか、ベートーベン第九交響曲の「合唱」や紅白歌合戦は、歳末恒例の風物として、定着したばかりでなくて、あたかも国民的行事となっている。

各地の図書館にまで、ついに、背景音楽は登場している。

こんな田舎にまで、日本で作られた自動車や電気製品が溢れているのを見ると,いった
いどんな国になっちゃったのかと思うわ。

ビジネスの電話はもちろん常識的なビジネスアワーのうちに済ませるべきで、私宅にまでかけるのはできるだけは避けたほうがいいと思います。

そしてその匂いは、二階の彼の部屋にまで染み込んでいるのである。

天空からやってくるX線は、大気層に拒まれて、地表にまでは届かない。

朝日新聞が5年ごとに実施している世論調査によると、「老後の不安」がしだいに若い層にまで、広がっている。

間もなくNTTの株価は下がりだし、一時は200万円すれすれにまでなった。

最近の海外からの市場開放要求の中には、我が国の文化や国民性、価値観にまでかかわる問題が多くなった。

最近は行動半径、自宅からせいぜい1キロである。

口から入る水は一日に、せいぜい1.5リットルぐらいである。

酸性紙の寿命がせいぜい100年といわれるのに対し、中性紙はその数倍。

月探査はせいぜい1週間だったが、火星となると往復二三年の長旅を覚悟しなければならない。

戦前、同年齢で大学に進む率はせいぜい3%だった。

人類の歴史はせいぜい何百万年だが、魚は4億年の歴史がある。

欧米では接待と言っても、せいぜい昼ご飯ぐらいだから、金額も少ない。

せいぜい膝までの深さである。

日常生活では、予算などに使われる兆の単位がせいぜいだ。

人と話す時、面と向かってすわるとあまり話しやすくない。

松山と面と向かって口をきくのは3か月ぶりだ。

外国語というもんは、面と向かって顔を見て話をするより、電話で話をするほうがわかりにくいもんやと、その時、初めてわかったんよ。

今夜の講義で老師と面と向かって座ることに、私は、はなはだ私に似合わぬことではあるが、一種のだんせいてきな勇気ともいうべきものを自ら感じていた。

呼んだ男と、呼ばれた女は、面と向かって対座している。

面と向かって、夫としっくり融けあうことのできないとき、細君はやむを得ず彼に背中を向けた。

とうとう、彼はその墳墓の前に面と向かって立った。

面と向かって話していると、人がへんに思うから、外山は加藤と並んで歩きながら同じことをまた聞いた。

この人は年中、雑誌の記者を泣かせているが、面と向かうと猫のようにおとなしい人だった。

2.「相手に直接に何かをする」という意を表す。

電話というものはやや公式の感じがするものですから、電話での話は、面と向かうよりもやや丁寧になるのが一般であろうと思います。

ビジネスでは電話や、面と向かったときなど、相手側の団体名などには「さん」をつけて、呼ぶ習慣があります。

金井に対しては、陰ではカナチュウと呼び、面と向かっては、金井さんと言っている。

面と向かっては逆らわないくせに、陰では悪口の言いたい放題。

リポートとその返事という文書の形だと、面と向かって言いにくいことも言えるし、大切なことはじっくり考えて、アドバイスできます。

もちろん、誰もその理由を彼に面と向かって、尋ねたりするような不躾な真似はしない。

内心で何を思っているかは知らないが、面と向かって、非難さえされなければ、けっこうと、貞春は卑怯にも、考えていた。

面と向かって、どのくらい意地の悪いこと言われたかわからないですよ。

でも、それにしても、こう面と向かって、言われたんじゃ、気分が悪いですよ。

皆迷惑そうな顔をしながらも、面と向かって、声を出して、制止したり、叱ったりする人はいなかった。

4.きになる(気になる)
「その事がきがかりである」という意を表す。

「気にかかる」と同義である。

が格の形を取る名詞と共起するのが多い。

「気にする」が他動詞的な表現であるのに対して、「気になる」は自動詞的な表現である。

おばあさんのことがやはりいちばん気になる。

高校時代からずっと続いている親しい友達なので、そのへんの癖は、もう、全然気にならない。

声が大きかったらしく、あたりの人が見たが、気にならなかった。

実は、その人が向こうから来るのを見たときから気になっていた。

これでは、ちょっとしたことでも気になって仕方がない。

彼女は答案を出したあとの生徒のように、採点が妙に気になってたまらなかった。

やがて途切れた美しい声のぬしの安否が気になり続け、彼女は30年後に東京のNHKに手紙を書いた。

気になったのは、ドライバーのマナーの悪さだ。

だって僕、そんなことはちっとも気にならない性質なんだよ。

5.くちをきく(口を利く)
(1)「ものを言う。

しゃべる」という意を表す。

青二才のくせに、生意気な口をきくな。

佐伯さんも疲れた様子で、口をききません。

はじめて私は、一人のフランス人と口をきいた。

それきり私は、彼女と口を利きませんでした。

口を利いているものは誰もない。

洪作はまだ、小夜子とは一言も口をきいていなかった。

僕の胸がいっぱいに塞がり、なにから口を利いていいのか、わからなかった。

そして、彼等は私にほとんど口を利かなくなってしまった。

会社ではほとんど口をきいたことはありません。

相手が横柄な口をきいたので、洪作は腹を立てた。

「間を取り持つ。

紹介する。

周旋する」という意を表す。

「口をきいてくれる、やる、もらう」の形で用いられる。

大学二年で中退してアルバイト暮らしをしていた次郎の様子をみかねて、仕事上で、つきあいのある広告代理店に、口を利いてやったことがある。

校長の昔の友達に、H大の理事をしてるやつがいるから、口をきいてやろう、という話なんだ。

アルバイトも悪いとは思わないが、もしも、また、ちゃんとした職に就くつもりがあるんなら、おれにも、にさん口をきいてやれるところがないでもないかな。

小樽での事件が、無事に解決した事情を知っている後藤に、口をきいてもらえば、それだけ、スムーズに進展するにちがいない。

商売柄、、このほうめんに、顔の広い岡部さんに口をきいてもらい、鉄道局のほうでなんとかいい方法を考えてもらって、それによって、この問題を解決するほか、手はあるまいと思うんですが。

6.おもいのはか(思いの外、思いの他)
「予想と違って。

意外。

案外」という意を表す。

副詞的に用いられることが多い。

彼はたぶん、このおもしろい仕事を、きっと喜んで引き受けてくれるであろうと、思いのほか、この日の岩吉は、甚だ不機嫌であった。

ハワードハントとの約束を守って、外人記者クラブに行ってみると、ロビーは、思いのほか、がらんとしていた。

ランニングシャツにわずかに隠されたほかは、剥き出しの肩が、思いのほか、逞しい。

事務局に電話をし、柳の連絡先を訊ねると、思いのほか、簡単に自宅の電話を教えてくれた
健康の基礎になる、こどもたちの口の中の様子は、思いのほか危機的だ。

アトランタの街は、思いのほか、静かだった。

しかし、机には向うにしても、思いのほか、ペンは進まなかった。

祭日であった故か、電話は思いの外、早く繋がった。

7.くったくがない(屈託がない)
「少しぐらいの失敗や気まずいことがあっても、気にかけないでいられる」という意を表す。

彼女は屈託がないというのか、こだわらないというのか、底抜けに明るかった。

その時の私は屈託がないというよりむしろ無聊に苦しんでいた。

松山は、教室でみかけるときと同じように、明るく、表情にも屈託がなかった。

彼の声には屈託がなく、私は彼がこれから帰っていこうとする場所の雰囲気を知ったと
思った。

京子は母親譲りの気質なのか、屈託なくて、深刻な話になっても、明るく笑ってしまう特技を、持っている。

8.きにかかる(気に掛かる)
「ある物事が心から離れず、心配である」という意を表す。

否定の形で用いられることが少ない。

私はそれがいちばん気にかかります。

受話器を置いてからも、それが少し気にかかった。

平生なら教師のさき子と一緒に歩くにはいやだったが、この日はさしてきにかからなかった。

とにかくあたしは、貴方のことは、いつも気にかかっているのだから
洪作は、寺のことだけが気にかかっていた。

私はもちろん、隣の部屋が気にかかって容易に寝つかれませんでした。

でも僕、気にかかって仕方がないのです。

ふと、豊田の口にしたこんな言葉も気にかかってくる。

代助は、何事によらず一度気にかかりだすと、何処までも気にかかる男であった。

気にかかっていることは、早く済ましてしまわなければならないという感じである。

船では、24ノット以上は気味が悪い。

作家の部屋というものは、なんとなく凄味があって気味が悪い。

何だか暗くって、気味が悪いのね。

なんだか気味が悪いなあ、きみがそんなこというと
しかし考えてみると、蛇は気味が悪い、恐いというのは、一種の常識にすぎません。

高級住宅地とされている一画で、それだけに、夜の静かなことは、いささか気味が悪いほどだ。

僕は何だか気味が悪かった。

僕はあいつを見る度に、気味が悪くってたまりません。

私も、気味が悪くて、眠ることもできませんでしたが、それでも、その夜は何のこともなしに、明けました。

あんな奴を教えるのかと思ったら、なんだか気味が悪くなった。

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