第20章 徒然草
合集下载
相关主题
- 1、下载文档前请自行甄别文档内容的完整性,平台不提供额外的编辑、内容补充、找答案等附加服务。
- 2、"仅部分预览"的文档,不可在线预览部分如存在完整性等问题,可反馈申请退款(可完整预览的文档不适用该条件!)。
- 3、如文档侵犯您的权益,请联系客服反馈,我们会尽快为您处理(人工客服工作时间:9:00-18:30)。
『徒然草』は現世の欲望、住居論、人生論、自然観、 恋愛観、政治批判、無常観などを思いつくままに 述べているが、示唆に富み、現代にも通用する。 無常観が流れているが、『平家物語』の“盛者必 衰”のような暗さ、果かなさがなく、明るく健康的で ある。 「つれづれ」という言葉は作品中にたびたび用いら れ、キーワードとなっている。中古では「つれづれ」 は“退屈、無為な時間”を示したが、吉田兼好の言 う「つれづれ」は、隠者として人生を静観し、考え、 味わうという意味である。
成立・評価
『徒然草』は鎌倉時代末期、兼好が40代後半に書いたもので、 序段と243段からなる。 成立時期は1330年頃。 序段では執筆動機と態度を述べ、243段では深い学識と豊か な感受性を土台にして、現世の欲望、住居論、人生論、自然 観、恋愛観、政治批判、無常観、芸能などについて洞察して いる。法然(ほうねん)の言葉や『平家物語』成立の経緯などに も触れ、歴史資料としての価値も高い。 文体・・・・・・和文と和漢混交文の二つの文体を随筆の内容に よって使い分けている。和文では四季の移り変わりや随想的、 尚古趣味(しょうこしゅみ)的なことを述べ、和漢混交文では宗 教観や人生論などの思想を述べている。
引用・・・第7段
解説:第7段では無常観を肯定し、次のように 語る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 引用:世はさだめなきこそ、いみじけれ。 訳:この世は無常であるということこそが素晴 らしいのである。
引用・・・第19段
引用:六月のころ、あやしき家に夕顔の白く見えて、 蚊遣火(かやりび)ふすぶるもあはれなり。<中略 >七夕まつるこそなまめかしけれ。<中略>言ひ つづくれば皆源氏物語・枕草子などにことふりにた れど同じ事また今さらに言はじとにもあらず。 訳:六月のころ、みすぼらしい家に夕顔が白く見えて、 蚊遣火がくすぶっているのも趣がある。<中略> 秋、七夕祭りをするのは優雅なものである。<中 略>こう言い続けてくると、みな『源氏物語』や『枕 草子』などで、すでに言い古されていることだが、 同じ事をまた新たに言ってもよかろう。)
第20章 徒然草
『日本文学史』高鹏飞 平山崇 著
吉田兼好年表
1283年頃 誕生 1301年 後二条天皇に出仕 1313年頃 出家 1331年頃 『徒然草』成立 1345年頃 『兼好法師自撰集』成立 1352年頃 没
作者
吉田兼好は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌 人である。二条派で、和Leabharlann Baidu四天王の一人であり、随筆家で もある。 作者は代々神祇官を出す家柄に生まれ、在俗時代宮廷に 仕える貴族であったが、26歳で辞し、30歳前後で出家した。 出家の原因は不明、失恋などの悩みや鎌倉時代末期とい う時代の閉塞感2などが原因として挙げられる。 俗名は卜部兼好(うらべかねよし)であるが、出家後は兼好 (けんこう)と音読し、これを僧名とした。兼好法師(けんこう ほうし)とも呼ばれる。また京都の吉田に住んだので、江戸 時代からは吉田兼好(よしだけんこう)と呼ばれるようにも なった。 吉田兼好は鴨長明と同じく優れた歌人であったが、出家後 は、鴨長明と違い、政治や文化、宗教など多方面の人と交 流を続けていた。
研究課題
1.『徒然草』の特徴について述べなさい。 2.吉田兼好の人柄について述べなさい。 3.無常観に対する吉田兼好の観点を述べな さい。 4.『枕草子』が『徒然草』に与えた影響につい て述べなさい。 5.同時代の『方丈記』と『徒然草』の共通点・ 相違点を挙げなさい。
1.『徒然草』の特徴について述べなさい。
その他
『徒然草』の109段では、有名な木のぼりの男 が弟子を高い木に登らせて枝を切らせた話があ る。弟子が高いところから降りてくる時、男は何 も言わず、低いところまで降りてきた時、男は注 意を促した。吉田兼好は不思議に思って訊ね ると、男は「油断が生じるときこそ危ないから」と 答えた。 男の身分は低いがその言葉は聖人の教えと同 じであると結論している。この点は、宮廷文化を 賛美し庶民を軽視した『枕草子』と大きな相違 が認められる。
内容
吉田兼好は随筆の定義を「思うままに書くこと」とする。冒 頭の「つれづれ」が『徒然草』の由来になっている。最後の 「ものぐるほしけれ」を直訳すれば「気違いじみている」とな る。兼好はここで謙遜を表わしたが、自身の思想や感性を 客観的に評価しているのである。 吉田兼好の生きた時代は仏教的無常観が漂っていた。平 安期まで続いた貴族の没落、武士である平氏の隆盛、そ の平氏を滅ぼした源氏による鎌倉時代の開始、世の中が 変動し、安定が儚(はかな)く崩れていくのである。この時代 に救いを与えたのが仏教であり、『方丈記』『平家物語』と 同様に『徒然草』もまた無常観を基調に書かれたのであっ た。
2.吉田兼好の人柄について 述べなさい。
吉田兼好はもともと貴族の身分だが、庶民 にも平等に接し、庶民から教えられることも 厭わない。威張らず、自然体である。 住居、自然、恋愛など主題が広範囲に渡り、 彼の好奇心を示すものである。 出家後も歌壇に身を置き、政治や文化、宗 教など多方面の人と交流を続けていて、社 交的な性格と言える。
引用・・・第189段
解説:世の無常に対する対処法が示される。この世では、しよ うと思っていたことが急用のためできなくなったり、人との 約束が駄目になったりして、事が予定通りに進まない。一 日、一年、一生がそうである。しかしだからと言って「予定 はすべて食い違うものだ」と思うのも間違いで、稀には予定 通り進むこともあるのである。兼好はここまで述べてから、 最後に下の言葉を告げる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 引用:不定(ふじょう)と心得ぬるのみ、まことにて違はず。 訳:物事は定めがないと心得ておけば、間違いもない。)
その他
『徒然草』には諧謔性に富む話もある。第45段では、 良覚という僧正(そうじょう)の小話(こばなし)を伝える。 良覚は身分の高い僧侶であるが、小さなことですぐに 怒る性格であった。寺のそばに榎(えのき)があるから、 人々は良覚を「えのきの僧正」と呼んだ。 良覚は怒ってその木を切ってしまった。しかしその木の 根が残っていたため、人々は「きりくいの良覚」と呼んだ。 良覚はますます怒って切り株を掘って根こそぎ捨てた。 すると人々は「堀池の良覚」と呼ぶようになった。
3.無常観に対する吉田兼好の 観点を述べなさい。
無常への対処法を提示し、無常観を肯定す るなど、世の無常を暗いものと捕らえず、明 るく肯定的に捉えている。
4.『枕草子』が『徒然草』に与えた 影響について述べなさい。
『枕草子』は約300の段に分かれ、様々なも のを理知的に観察し、和文で書いている。 『徒然草』も計243段というふうに段を分け て書き、かつ様々な物事を洞察している。和 文のほか、和漢混交文で書いている。
冒頭文
つれづれなるままに、日暮らし硯にむかひ て、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはか となく書きつくれば、あやしうこそものぐるほ しけれ。 (要旨:一人でいて、することもなく、心に浮 かぶたわいもないことを何となく書いていくと、 自分ながら妙なものに感じられる。)
引用・・・第25段
解説:冒頭で、川が流れていくようにこの世も変動することを伝えて いる。平安期に栄華を極めた藤原道長は京極殿(きょうごくど の)や法成寺(ほうじょうじ)を建てたが、すべて無残に焼失した。 それに対し兼好は次のように語る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーー 引用:御堂殿の作りみがかせ給ひて、荘園多く寄せられ、わが御 族のみ、御門の御後見、世のかためにて、行末までとおぼしおき し時、いかならん世にも、かばかりあせはてんとはおぼしてんや。 <中略>されば、よろづに見ざらん世までを思ひ掟てんこそ、は かなかるべけれ。 要旨:御堂関白藤原道長が法成寺を造営なさって、遠い未来ま で自分の子孫の発展が続くことを願ったが、まさかこのように荒 廃するとは夢にも思わなかっただろう。<中略>万事につけて、 死後の世までを考え定めておくことは無駄なことなのだ。
5.同時代の『方丈記』と『徒然草』 の共通点・相違点を挙げなさい。
『方丈記』と『徒然草』の共通点は仏教的無常観である。た だし、その性質は異なる。『方丈記』は世の無常に対して無 力であり、厭世的であり、逃避的な雰囲気もある。最後の 部分では自己否定に到る。 これとは対照的に、『徒然草』は無常と付き合っていこうと する意志と、そのための対処法を考える理性がある。また 庶民に敬意を示したり、物事を諧謔性のもとに書き記す点 にも特色がある。 『方丈記』の文体は漢語と仏語を交えた流麗な和漢混交文 体 だが、『徒然草』は簡潔、平淡に雅趣のある和文と和漢 混交文を使い分けている。
成立・評価
『徒然草』は鎌倉時代末期、兼好が40代後半に書いたもので、 序段と243段からなる。 成立時期は1330年頃。 序段では執筆動機と態度を述べ、243段では深い学識と豊か な感受性を土台にして、現世の欲望、住居論、人生論、自然 観、恋愛観、政治批判、無常観、芸能などについて洞察して いる。法然(ほうねん)の言葉や『平家物語』成立の経緯などに も触れ、歴史資料としての価値も高い。 文体・・・・・・和文と和漢混交文の二つの文体を随筆の内容に よって使い分けている。和文では四季の移り変わりや随想的、 尚古趣味(しょうこしゅみ)的なことを述べ、和漢混交文では宗 教観や人生論などの思想を述べている。
引用・・・第7段
解説:第7段では無常観を肯定し、次のように 語る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 引用:世はさだめなきこそ、いみじけれ。 訳:この世は無常であるということこそが素晴 らしいのである。
引用・・・第19段
引用:六月のころ、あやしき家に夕顔の白く見えて、 蚊遣火(かやりび)ふすぶるもあはれなり。<中略 >七夕まつるこそなまめかしけれ。<中略>言ひ つづくれば皆源氏物語・枕草子などにことふりにた れど同じ事また今さらに言はじとにもあらず。 訳:六月のころ、みすぼらしい家に夕顔が白く見えて、 蚊遣火がくすぶっているのも趣がある。<中略> 秋、七夕祭りをするのは優雅なものである。<中 略>こう言い続けてくると、みな『源氏物語』や『枕 草子』などで、すでに言い古されていることだが、 同じ事をまた新たに言ってもよかろう。)
第20章 徒然草
『日本文学史』高鹏飞 平山崇 著
吉田兼好年表
1283年頃 誕生 1301年 後二条天皇に出仕 1313年頃 出家 1331年頃 『徒然草』成立 1345年頃 『兼好法師自撰集』成立 1352年頃 没
作者
吉田兼好は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌 人である。二条派で、和Leabharlann Baidu四天王の一人であり、随筆家で もある。 作者は代々神祇官を出す家柄に生まれ、在俗時代宮廷に 仕える貴族であったが、26歳で辞し、30歳前後で出家した。 出家の原因は不明、失恋などの悩みや鎌倉時代末期とい う時代の閉塞感2などが原因として挙げられる。 俗名は卜部兼好(うらべかねよし)であるが、出家後は兼好 (けんこう)と音読し、これを僧名とした。兼好法師(けんこう ほうし)とも呼ばれる。また京都の吉田に住んだので、江戸 時代からは吉田兼好(よしだけんこう)と呼ばれるようにも なった。 吉田兼好は鴨長明と同じく優れた歌人であったが、出家後 は、鴨長明と違い、政治や文化、宗教など多方面の人と交 流を続けていた。
研究課題
1.『徒然草』の特徴について述べなさい。 2.吉田兼好の人柄について述べなさい。 3.無常観に対する吉田兼好の観点を述べな さい。 4.『枕草子』が『徒然草』に与えた影響につい て述べなさい。 5.同時代の『方丈記』と『徒然草』の共通点・ 相違点を挙げなさい。
1.『徒然草』の特徴について述べなさい。
その他
『徒然草』の109段では、有名な木のぼりの男 が弟子を高い木に登らせて枝を切らせた話があ る。弟子が高いところから降りてくる時、男は何 も言わず、低いところまで降りてきた時、男は注 意を促した。吉田兼好は不思議に思って訊ね ると、男は「油断が生じるときこそ危ないから」と 答えた。 男の身分は低いがその言葉は聖人の教えと同 じであると結論している。この点は、宮廷文化を 賛美し庶民を軽視した『枕草子』と大きな相違 が認められる。
内容
吉田兼好は随筆の定義を「思うままに書くこと」とする。冒 頭の「つれづれ」が『徒然草』の由来になっている。最後の 「ものぐるほしけれ」を直訳すれば「気違いじみている」とな る。兼好はここで謙遜を表わしたが、自身の思想や感性を 客観的に評価しているのである。 吉田兼好の生きた時代は仏教的無常観が漂っていた。平 安期まで続いた貴族の没落、武士である平氏の隆盛、そ の平氏を滅ぼした源氏による鎌倉時代の開始、世の中が 変動し、安定が儚(はかな)く崩れていくのである。この時代 に救いを与えたのが仏教であり、『方丈記』『平家物語』と 同様に『徒然草』もまた無常観を基調に書かれたのであっ た。
2.吉田兼好の人柄について 述べなさい。
吉田兼好はもともと貴族の身分だが、庶民 にも平等に接し、庶民から教えられることも 厭わない。威張らず、自然体である。 住居、自然、恋愛など主題が広範囲に渡り、 彼の好奇心を示すものである。 出家後も歌壇に身を置き、政治や文化、宗 教など多方面の人と交流を続けていて、社 交的な性格と言える。
引用・・・第189段
解説:世の無常に対する対処法が示される。この世では、しよ うと思っていたことが急用のためできなくなったり、人との 約束が駄目になったりして、事が予定通りに進まない。一 日、一年、一生がそうである。しかしだからと言って「予定 はすべて食い違うものだ」と思うのも間違いで、稀には予定 通り進むこともあるのである。兼好はここまで述べてから、 最後に下の言葉を告げる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 引用:不定(ふじょう)と心得ぬるのみ、まことにて違はず。 訳:物事は定めがないと心得ておけば、間違いもない。)
その他
『徒然草』には諧謔性に富む話もある。第45段では、 良覚という僧正(そうじょう)の小話(こばなし)を伝える。 良覚は身分の高い僧侶であるが、小さなことですぐに 怒る性格であった。寺のそばに榎(えのき)があるから、 人々は良覚を「えのきの僧正」と呼んだ。 良覚は怒ってその木を切ってしまった。しかしその木の 根が残っていたため、人々は「きりくいの良覚」と呼んだ。 良覚はますます怒って切り株を掘って根こそぎ捨てた。 すると人々は「堀池の良覚」と呼ぶようになった。
3.無常観に対する吉田兼好の 観点を述べなさい。
無常への対処法を提示し、無常観を肯定す るなど、世の無常を暗いものと捕らえず、明 るく肯定的に捉えている。
4.『枕草子』が『徒然草』に与えた 影響について述べなさい。
『枕草子』は約300の段に分かれ、様々なも のを理知的に観察し、和文で書いている。 『徒然草』も計243段というふうに段を分け て書き、かつ様々な物事を洞察している。和 文のほか、和漢混交文で書いている。
冒頭文
つれづれなるままに、日暮らし硯にむかひ て、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはか となく書きつくれば、あやしうこそものぐるほ しけれ。 (要旨:一人でいて、することもなく、心に浮 かぶたわいもないことを何となく書いていくと、 自分ながら妙なものに感じられる。)
引用・・・第25段
解説:冒頭で、川が流れていくようにこの世も変動することを伝えて いる。平安期に栄華を極めた藤原道長は京極殿(きょうごくど の)や法成寺(ほうじょうじ)を建てたが、すべて無残に焼失した。 それに対し兼好は次のように語る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーー 引用:御堂殿の作りみがかせ給ひて、荘園多く寄せられ、わが御 族のみ、御門の御後見、世のかためにて、行末までとおぼしおき し時、いかならん世にも、かばかりあせはてんとはおぼしてんや。 <中略>されば、よろづに見ざらん世までを思ひ掟てんこそ、は かなかるべけれ。 要旨:御堂関白藤原道長が法成寺を造営なさって、遠い未来ま で自分の子孫の発展が続くことを願ったが、まさかこのように荒 廃するとは夢にも思わなかっただろう。<中略>万事につけて、 死後の世までを考え定めておくことは無駄なことなのだ。
5.同時代の『方丈記』と『徒然草』 の共通点・相違点を挙げなさい。
『方丈記』と『徒然草』の共通点は仏教的無常観である。た だし、その性質は異なる。『方丈記』は世の無常に対して無 力であり、厭世的であり、逃避的な雰囲気もある。最後の 部分では自己否定に到る。 これとは対照的に、『徒然草』は無常と付き合っていこうと する意志と、そのための対処法を考える理性がある。また 庶民に敬意を示したり、物事を諧謔性のもとに書き記す点 にも特色がある。 『方丈記』の文体は漢語と仏語を交えた流麗な和漢混交文 体 だが、『徒然草』は簡潔、平淡に雅趣のある和文と和漢 混交文を使い分けている。