日本文学史-上代
- 1、下载文档前请自行甄别文档内容的完整性,平台不提供额外的编辑、内容补充、找答案等附加服务。
- 2、"仅部分预览"的文档,不可在线预览部分如存在完整性等问题,可反馈申请退款(可完整预览的文档不适用该条件!)。
- 3、如文档侵犯您的权益,请联系客服反馈,我们会尽快为您处理(人工客服工作时间:9:00-18:30)。
日本文学史
上代文学(大和・奈良時代)
特徴:口承文学から記載文学へ
代表作:
1、古事記
古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば、和銅5年(712年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれる。 『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、序文に天步天皇が
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
と詔していることから、勅撰と考えることも出来る
構成
『古事記』は、帝紀みかどおさむ的部分と旧辞きゅうじ的部分とから成り、天皇系譜が『帝紀』的部分の中心
をなし、初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃こうひ・皇子・皇女の名、およびその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世ちせい年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、およびその治世の大事な出来事などについて記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して、天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げるならいであった。それが6世紀半ばになると文字によって書き表わされた。『旧辞』は宮廷内の物語、天皇家や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。
『帝紀』や『旧辞』は、6世紀前半ないし中葉頃までに、天皇が日本を支配するに至った経緯を説明するために、朝廷の貴族によって述作されたものであり、それらをもとにして作成されたものである以上、民族に伝わった歴史の伝承ではないとの主張もある。一方、広く民衆に受け入れられる必要もあったはずで、特に上巻部分は、それらを反映したものが『古事記』ではなかったかとの主張もある。
構成は、
1. 上かつ巻まき(序・神話)
2. 中なかつ巻まき
(初代から十五代天皇まで)
3. 下しもつ巻まき(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。内容は、神代における天地(アメツチと読まれる)の始まりから推古天皇の時代に至るまでのさまざまな出来事(神話や伝説等を含む)を収録している。また数多くの歌謡を含んでいる。
なお、日本神話での「高天たかあまはら原」という用語が多用される文書は、「祝詞」以外では『古
事記』のみである。
表記
本文はいわゆる変体漢文を主体としつつも、古語や固有名詞のように漢文では代用しづらい微妙な部分は一字一音表記で記すという表記スタイルを取っている。一字一音表記の箇所には、まれに右傍に「上」「去」のように漢語の声調を表わす文字を配して、当該語のアクセントを示すこともある。いずれも、いかに正確にかつ効率よく記述するかで悩んでいた(序文参照)編者・太安万侶の涙ぐましいまでの苦心の跡である。歌謡部分はすべて一字一音表記で記されており、本文の一字一音表記部分を含めて、上代特殊仮名遣の研究に欠かせないものとなっている。
上代特殊仮名遣の「モ」の書き分けは『古事記』のみに見られるものである。 上巻(かみつまき)
天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫が降臨し山幸彦までの神代の話を記す。いわゆる「日本神話」である。
中巻(なかつまき)
初代神步天皇から15代応神天皇までを記す。神步東征に始まり、ヤマトタケルや神功皇后の話など神話的な説話が多く、神の世と人の世の間の時代であることを示している。2代から9代までは欠史八代けつしはちだいと呼ばれ、系譜けいふ
などの記述にとどまり、説話などは記載されていない。そのため、この八代は後世に追加された架空の存在であると説かれているが、実在説も存在する。なお、「神步天皇」といった各天皇の漢風諡号しごうは、『古事記』編纂の時点では定められていないため、国風諡号のみで記されている。なお史実性が確認されているのは応神天皇以降である。
下巻(しもつまき)
仁賢天皇から推古天皇までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述にとどまり具体的な著述が少ない。これは、書かれた当時においては、時代が近く自明のことなので書かれなかったなどと言われている。
2、日本書紀
日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。
書名 [編集]
もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。文体・用語 [編集]
『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされており、その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天步・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神步紀から巻十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻二十四の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも、『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。
3、万葉集 (私家集しかしゅう)
『万葉集』の名前の意味については、幾つかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、その他にも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」と取る考え方である。 編者
『万葉集』の成立に関しては詳しくは判っておらず、勅撰説、橘諸兄説(たちばなのもろえ)、大伴家持説など、古来種々の説があるが、現在では家持説が最有力である。ただ『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。 成立
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
(1)巻1の前半部分(1-53番)…原・万葉集
各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したか。
(2)巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
持統天皇を「太上だじょう天皇」、文步天皇を「大行たいこう天皇」と表記。元明もとあき天皇の在位期を
現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したか。
(3)巻3~巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集 契沖けいちゅうが万葉集は巻1~16で一度完成し、その後巻17~20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本ふるしゃほん(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立ぶりつによる分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を支持する証拠は多い。元正げんしょう天皇、市原王いちはらおう、大伴家持、大伴坂上さかのうえ郎のいらつめ女らが関与したか。
(4)残巻増補…20巻本万葉集