2017年青岛大学考研试题807日语综合
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青岛大学2017年硕士研究生入学考试试题
科目代码807科目名称:日语综合(共8页)请考生写明题号,将答案全部答在答题纸上,答在试卷上无效
一、文化概論問題:(32点)
1.日本人の「美意識」について論述しなさい。(16点)
2.「象徴天皇制」について簡単に述べてください。(16点)
二、文学問題:(20点)
1.上代歌謡とは何か。その特徴について簡単に述べなさい。(8点)
2.現代文学の流れとその代表的な作家及び作品ついて述べてみなさい。(12点)
三、言語学問題(4×5=20点)
1.「社会言語学」について、詳しく論述してください。
2.「モーラ」とは何か。日本語の「モーラ」について、具体例を挙げながら説明してください。
3.「機能語」と「実質語」とは何か、例を挙げて簡単に述べなさい。
4、「継続動詞」について、具体例を挙げながら説明してください。
四、社会学問題(20点)
問:80年代以降、日本のタテ社会のあり方の変動とタテ社会の論理が薄れていく原因について論述してください。
五、次の中国語を日本語に訳しなさい。(5×2=10点)
1.我作为一个在海外的作家,唯有在文学和艺术的创作中才得以自救。这并不是说,我就主张所谓纯文学,那种全然脱离社会的象牙塔。恰恰相反,我把文学创作作为个人的生存对社会的一种挑战,哪怕这种挑战其实微不足道,毕竟是一个姿态。
2.“小人书”顾名思义其主要读者是孩子。而在如今的书店里,在“小人书”专柜前徘徊的却都是成年人。随着怀旧情绪的升温,小人书的收藏热的到来,对市场反应敏捷的美术出版社纷纷闻风而动,掀起了再版老连环画的热潮。连环画的主要读者群已从儿童转化为怀旧的老年人和收藏者。
六、次の文のにはどんな言葉を入れたらよいか。A・B・C・Dから最も適当なものを一つ選びなさい。(20×1=20点)
1.学生時代、休みになるとよく食べ寝、寝食べるという生活をしていたものだ。
Aたり…たりBては…てはCたら…たらDでは…では
2.町は清潔で、ちり一つ落ちていない。
AもB×(助詞必要なし)CでもDだって
3.日本へ行けば本当の富士山が。
A見えるB見るC見られるD見かける
4.この若い母親は子供のいたずら手を焼いている。
AでBからCにDなので
5.ぼんやり歩いていて自動車にぶつかるところだった。
AほとんどBむりにCあやしくDあやうく
6.ここまで来てしまったからにはもうようがない。
A戻るB戻りC戻ってD戻ら
7.あいつは、何かあるとすぐ尻ごみばかりして、ほんとうにのないやつだ。
A意固地B意気地C締りDきまり
8.一日中買い物をしてまわってに疲れて、口をきくのもおっくうだ。AつくづくBあべこべCよぼよぼDくたくた
9.家は焼けたが、金庫は残っていた。
AあっさりBこっそりCそっくりDさっぱり
10.おもしろいこと、私がいま教えている学生は、私が昔お世話になった先生の子供さんだ。
AがBはCにDで
11.幼稚園の先生は子どもに進んで本を読むように。
A仕出かすB仕向けるC仕上げるD仕掛ける
12.彼を怒らせたら、それたいへんだ。
AこそBでもCさえDだけ
13.田中さんは、夏休みの旅行備えて、お金をためている。
AにBをCがDで
14.金などというものは、なければ困るが、あればやっかいなものだ。AあったでBあるでCあったほどDあるも
15.こんな質問をするようでは、。
Aよく勉強しなさいB自分で考えた方がいい
Cまだまだ勉強がたりないDよく勉強したね
16.有名な観光地の近くまで行ったのに、忙しくてどこへも()だった。
A寄るまいB寄るまえC寄らずじまいD寄らないまで
17.医者()、いつも人の生命を自分の名声より大切にしなければならない。
Aたる者Bに限る者Cになった者Dの者
18.ふるさとを歌ったこの歌は、子供のころの思い出と()、私の心に深く響く。
A.あればBいったらCするならDあいまって
19.どんな相手でも、試合が終わるまでは一瞬()油断はできない。
AばかりかBたりともCならではDどころか
20.お客様、申し訳ございませんが、機内持ち込みのお荷物はご自分でお持ちください。
AになってBしてCいたしてDいただいて
七、次の文を読んで、あとの問いに答えなさい。答えはA・B・C・Dから最も適当なものをそれぞれ一つずつ選びなさい。(7×2=14点)
思いをつめるとは、どういうことなのだろう。思いつめた顔には、確かに一種の美しさがある。ただ一つのことに、自分の全存在を注ぎこんでいる者の、一生懸命な美しさ、夢中な美しさなのだが、その美しさは、例えば仕事やスポーツや勉強に打ち込んでいる時の美しさとは違って、明るくない。いわば追い詰められた獣の美しさなのであって、もう進むべき方向は見つからないというところに、ある悲劇的なものが感ぜられ、当人はそんなことに気づいていないからこそ、それが他人には美しく思えるのである。
しかし同時に、思いつめた顔には一種の醜くさもある。それはおそらく思
いつめた人間の、そのいわば手詰まりの状態、静止してしまって動いてゆけない状態からくるものだろうと思う。つまり思いつめた人間は、ある意味では①固定観念にとらわれていて、自由を失っているのだともいえよう。当人はそういう状態に苦しみぬき、時には自分の生命さえかけているのだが、それにもかかわらず、そこには時に愚かしさすら感ぜられ、他人は冷酷にもむしろ可笑しみを覚えることもあるのだ。
そういうつまった状態には、人間はできるだけ入り込まぬほうが望ましいし、そんなに②切羽詰まってしまうことは、一生のうちそう何度もないことだろうが、それでも人間にとって、何かを思いつめることは大切だし、必要だと思う。なぜなら本当は、そういう形でしか人間は生きた思想をつかんでゆくことはできぬはずだからである。
思うという行為は、考えるという行為に比べて、より感情的であり、より不正確である。物思いという言葉にも表れているように、それは時にはあまりにも漠然としていて、まるで自分を甘やかしているようにも取れることがある。けれど、また③それゆえにこそ、思うことは考えるということに比べて、よりいっそう未分化であり、人間のより多くの部分をその中に巻き込む。
考えるのが主として理性の働きであるとすれば、思うのはおそらくまず感ずるということにその基礎を置いている。考えることは時に現実を離れて抽象的な理性の遊びに堕するが、思うことの堕落はもっと肉体的な自己陶酔向かう。
が、こういうふうに、思うと考えると分けてみても、実際にはこの二つの心の働きは、常にお互いに補い合って一つなのである。思ったことを考えることでより精密化し、考えたことをもう一度思ってみることで、より全体的にすることを、無意識のうちに私たちは繰り返している。思いが誤っていることもあるし、考えが間違っていることもあるのだが、この微妙なチェンジ・オブ・ペースが、私たちの頭を柔軟にしていることは確かである。
そうしてみると、思いつめるという状態も、それがどんなに切実なものであれ、④絶対的な終点ではありえない。思いつめたその先に、まだ何かがあるはずで、思いつめた状態はともすればヒステリックになりがちだから、それを打ち破ることは容易ではないし、その思いつめた方の先にはもう、ぎりぎりの決断とそれに伴う行為しかないという場合もあろう。けれどもそれでもなお、人間は考えることはできるのであり、それは決して行動からの逃避