第十一届CASIO杯翻译竞赛原文(日语组)
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第十一届CASIO杯翻译竞赛原文(日语组)
鳥と名と
唐木順三
去年の今ごろは、毎日必ず出てきて、朝から晩まで、水槽のへり、風蝶花の陰に、寂然不動、只管打坐していたかえるが、今年は出てこない。数日前、同形同色の小がえるが、つかの間、姿を現し、水の中から首だけ出していたのを見掛けたが、それなりで姿を消してしまった。今年は六月、七月と、冷害で飢饉をまで心配した気候であったせいか、風蝶花の育ちも悪く、尺余に伸びただけで、花の房もまだ一つで、その先に小さいつぼみの姿をようやく探し得るにすぎない。従って風蝶花が存分の葉陰をなすに至らず、かえるの育ちも悪く、どうも去年のような趣をなさない。そう思って、今日、水槽の辺りを眺めていると、今年植えたばかりの菖蒲の葉がかすかに落とす影に、小がえるが二匹、寄り添うようにうずくまって、折からの暑さに激しい呼吸をしていた。去年のとまさに同種だが、まだおどおどとした小がえるで、こちらとのなじみがわかない。
かえるの代わりに、今年は一羽の鳥となじみができた。水槽の近い所に築いた盛り土の土手に、今年の五月、十本ほどの白樺を一列に植えた。そのうちの一本、水槽にいちばん近いのの小枝に、毎日、四度、五度と一羽の小鳥がやって来て、しばらくさえずり続けてゆく。来る時刻には多少のずれはあるが、止まる小枝はほとんど決まっている。木の中程の斜めに伸びた、小指にも足りない太さの小枝である。
この小鳥の名はなんと言うのか。土地の人にも聞いてみたが分からない。すずめより少し大きく、尾も少し長いが、羽の色はよく似ている。頭は黒く、目を中に挟んで、白い線が二本延びている。つまり左右四本の、鮮やかな白い線が、黒い頭を走っている。首筋は灰色というより白に近い。その鳴き声を写そうと思っても、なかなか写すのが難しい。ピーチク、ピーチクピ、と聞こえるときもある。ツツピ、ツツピ、と聞こえる、いや鳴くときもある。ツツーピ、ツーピ、というときもある。小枝に止まって、空に向かってくちばしを真っすぐに立てて三声、四声と鳴き続けた後で、羽のかいつくろいをやっている。つと、隣の荒れた雑草の中へ飛び降りて、えさをあさって小枝に戻り、くちばしを小枝でこすって後味を楽しんでいるときもある。
この鳥は群れては来ない。いつも一羽きり。時に二、三羽のすずめが好奇心を持ってか、近くの枝にやって来ることはある。格別に親しみを示しはしないが、無愛想でもない。すずめたちは己のそれと違う鳴き声にやや感心のていである。しかし必ずまた一羽になる。この鳥はあまりびくびくとはしていない。人を恐れないというほどではないが、人の影がちらついても、鳴くことをやめない。この鳥がいるうちは、こちらもなるべく静かにしている。そういうことを、かれこれ二十日間も続けているうちに、いくらか気心が通うようになってきた。彼女が鳴くのをやめているとき、こちらが下手くそながら、ツツピ、ツツピ、と誘ってやると、それに応じて鳴くようになった。ツツピよりもっと複雑だが、その
調べを文字にしかねる。
あの一羽の鳥は、なぜここへ来て、あの白樺のあの枝に止まり、そして首を真っすぐに立てて鳴き尽くすのだろう。どういう縁でそうなり、それをこちらがまた聞くことになったのだろう。なぜあの鳥は、いつもああいう声で鳴くのだろう。いったいどう思って鳴いているのだろう。一羽の鳥と気脈が通じるようになって、私は様々な思いをし続けている。
これを書きだしたのは昨日の午後、今日は八月十五日、敗戦の記念日、ここではお盆の三日目である。朝四時半に起きてそこら辺りを散歩し、そろって出始めた稲の穂や、久しぶりの昨夜の驟雨に息づいている月見草を眺め、冷害を心配した今年の稲作も、昨今の好天と日照りで、持ち直したらしいことを喜び、家に上がって自ら入れる一杯のコーヒーを楽しんでいると、うぐいすがしきりに鳴いている。今ごろのうぐいすは実にうまく、長く、調べ豊かに鳴く。自らの声の良さを、自ら楽しんでいるように思われる。ここは鳥が多い。かっこうも、ほととぎすも鳴く。つばめが飛び交い、からすが飛び回り、まれにとびの悠々と旋回しているのを見る。隣のそば畑には、ひわらしいのが群れている。
もし白樺に来る黒頭に白線のある鳥がうぐいすであったなら、私はうぐいすが来て鳴く、とだけ書いて多言を費やさぬであろう。かくのごとき文をつづらぬであろう。その名を知らないために、いろいろと姿・形・色・声を書き連ねているのだが、十分にはそれを示し得ないで、もどかしい思いをしている。もどかしく思いながらも、名を知らないことからくる好奇の心があって、それを詳しく見、また聞いている。もしうぐいすであったなら、かくのごとく、見、聞くことをしなかったであろう。
名を知らないものに名を与え、それが世に通用するということの不思議さ。名を与えることは一種天才の英知と言えるかもしれない。深い愛情と、そこばくのはにかみがあって、初めて名を与え得るのだろう。ここには野草が多く、その花の色は標高千メートルの紫外線のためか、実に美しい。ききょう・はぎ・きすげ・つりふねそう・ふじばかま・おみなえし・なでしこ・つゆくさ・たで・たけにぐさ。うまごやしまで美しい。それぞれの草花に、それぞれの名を与えたのはだれだろう。その名を言った初めの人はどういう人だろう。ききょう・はぎ、その名は今や牢乎として動かし難い。
田の土手に咲く、まんじゅしゃげに似た赤い花、すっと茎だけ伸びてその上に、にぎやかだが多少毒々しい色の花を付けるあれを、子供のときの私たちはガンジと呼んでいた。ここへ来てそれを見付け、その名を土地の人に聞くと、この辺ではガンズラと言うが、と自信なさそうに言った。この花の名はまだ納まらない、不安定だな、と私は思った。人は、美しいと言えば美しくないことはないが、毒々しいと言えば毒々しいあの花に対する感情が不確かで、そのために、しっかりした名を与えかねているのかもしれない。
月見草に葉や茎はそっくりだが、花は小さく、そっけないのがある。土地の人はそれを星見草と言っている。月見草が大待宵草ならば、これは小待宵草かもしれぬが、星身草は理が勝っていてなじめない。
ここはまた山の美しい所。富士・鳳凰・甲斐駒・入笠・茅ヶ岳・権現・赤岳・編笠、すべて動かし難い。その名がその山容を示し、山容はその名に満足している。釜無の渓谷、