日本色彩の世界

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日本色彩の世界

——現代日本の流行色を中心に——

一、はじめに

色彩は人の目に見えている一番直接のヴィジョンシンボルである。あなたがいる部屋を見回してもらいたい。パソコンの色、カーテンの色、書籍の色、文房具の色、携帯電話の色、あなたの服の色など、あなたは色に包まれて生活している。よく話題にされる色では服の流行色がある。最近よく目にする色は何色だったろうか思い出してもらいたい。それが最も多く店に並び、多くの人が購入している現在の流行色である。

しかし、なぜ人は流行色を身に纏おうとするのだろうか。それは誰よりも先に新しいものを身につけたいからだろうか、それとも取り残されたくないのか。様々な色がほとんどコストの制約なく手に入れることのできる現代、なぜ流行色が必要とされるのか探っていきたい。

二、古代日本の流行色の変遷

日本語の「色」には「顔色・顔つき・趣・様子・調子・飾り・化粧・男女間の情事・色情・恋人」などの意味がある。しかし、外国語にはこのような多様な意味はなく、例えば「color」には「顔色・着色する・彩色する」といった程度である。日本の伝統色を象徴的に「しぶさ」、「わび」、「粋」などという。日本の伝統色にはグレーがかった色が最も多くある。それには訳があり、植物染料を主体にした昔の染色では、今日のような合成染色のような鮮やかな色は容易に得られなかったからである。また、目的の色を得るために何度も繰り返して染め出しているために色の層が重なって、独特のニュアンスが現れ、色調に灰みを感じさせるのである。一方で原色に近いような強い色彩も意外に多くあり、江戸時代の能装束や上流階級の着物には鮮やかな色調が残されている。

このことから、日本の伝統色の特長は「しぶさ」と「華麗さ」という対照的な二面性をもつといえるのである。この二面性をふまえて、日本における色の問題を時代を追って見てみると以下のようになる。

上代人の色彩に対する素朴な関心は、まず、生と死の謎へ向けられ、それを解く鍵と見

ることから始まる。赤は生命を与え、悪霊を払い、食糧をもたらすというように。彼らの色彩に対する関心は、そうした呪術的心性からのものだったが、やがて、狩猟・採集の生活から農耕の共同生活に移ると、言語の発達とともに色彩語が生まれ、始めに、明・顕・漢・暗をさす、「赤」、「白」、「青」、「黒」の名が表れ、それがいつしか、色合い・明暗をさす色として用いられるようになった。

飛鳥・奈良時代の諸制度は中国から学ぶことが多く、またその様式も取り入れている。位階色【1】も同様あった。古代中国思想の5色は青・赤・黄・白・黒で(後に緑・赤・黄・白・紫に変わった)、これを受け日本でも推古天皇の時代に律令制の冠位十二階【2】の制の中で位階色として、徳-紫・仁-青・礼-赤・信-黄・義-白・智-黒が採用された。天皇が変われば律令制における色も変わったが、一般的には染料が高価で時間がかかる紫(紫草)や赤(紅花)は上流階級の色とされた。それに対して低階級者や使用人は桃染(ピンク)・橡(グレイ)・縹(藍)・一斤染(ピンク)など、普及している染料の薄い色が用いられていた。

平安時代は政治権力も文化も貴族に集中した時代である。前代が唐風文か模倣の時代だったのに対し、この時代はそれから脱して日本古来の趣味・嗜好をもとに新様式の文化を生み出した、いわゆる国風文化の時代である。特に中期頃からの藤原氏全盛の時代には、各面にわたって絢爛たる文化の花を咲かせた。そうした文化の一面をして服飾に見る女房装束の「かさねの色」の美をあげることができる。その多彩で艶麗な色彩の配色を通して、平安貴族の高い美的感覚を知ることができる。

鎌倉時代は主権が貴族から武士に移ってきた時代で、当時では盛んだった禅宗の思想と結びついて文化に影響をあたえ、鎌倉特有の「張」的感性を強めていった。それとともに、平安貴族の「雅」的感覚の色彩は姿を消し、意思的・知性的・実質的な色が現れた。この時代の服装は、剛直を尊び軟弱を戒める風潮を反映して、前代の王朝風の軟らかい形や色彩のものは嫌われ硬直な感じのものが喜ばれて、いただく冠や烏帽子を漆で塗り固め、肩や腰をいかつく張り出す、いわゆる「強装束」が流行した。衣色は一般に、微妙な含みがあるものよりも明快なものが喜ばれる。この時代に武家が愛用した代表的な装束の色として緑系・青系・褐色系があげられる。これらは、総体に落ち着きがあり、堅実な感じのものが多い。

武家政治が根をおろし、庶民的文化が築かれつつあった鎌倉から、公家文化の地、京の室のが多い。町に幕府が開かれた。そのために、鎌倉武士の「張」の文化は室町幕府の足利将軍や、同朋衆、禅僧などの文化人によって新しく「寂」の文化に変えられた。この寂の精神は茶道を始め、当代のあらゆる文化層を通じて人々の心に浸透し、美術、文化の基盤となった。それを色感情から見れば、平安時代の雅精神が優艶を、鎌倉時代の張の精神が冷厳を志向したのに対して、室町時代の寂の精神は枯淡、幽粋を志向するものだった。その色調は、ひとくちに言えば、色の鮮やかさを抑えた破調色や水墨画に見られる無彩色である。すべて、色彩は明るさ鮮やかさを増すとその表情は若やいで生き生きしてくるが、反対にそれを減じるにつれて渋み、落ち着きを増して枯淡の相を呈するようになり、その相が深くなるにつれて色の匂いを薄めて、ついに無彩色となる。

室町幕府中期の応仁、文明の乱により京都は焦土と化し、同時に幕府の権威も失墜し、いわゆる下克上の戦国時代となった。その後織田信長、豊臣秀吉による安土桃山の時代を迎えた。この時代はこれらの統治者の性格を反映して、室町時代の内面的、精神的な「寂」の文化から外交的、感覚的な「絢」の時代に変貌した。

絢の文化の色彩的特徴は金碧の目も彩なきらめきにある。桃山の時代はポルトガル人の来航によって海外との通商が活発になり、国内では商工業が活況と呈し、鉱業も盛んになって金銀の産出が飛躍的に増大した。また、キリスト教や海外文物の伝来によって目を広く海外に向けるようになったのもこの時期である。これら内外の事情から判断すると、この時代は消費型の時代に属することは明らかであり、それはまた、統率者である豊臣秀吉のタイプでもあった。彼の性格は外交的・青年的・庶民的・派手好きで、金色を特に愛好した。こうした豊臣秀吉の黄金趣味を反映して、当代の服装も全般的に派手好みであったことは、武将はもちろん、下級武士、庶民の服飾からもうかがうことができる。

江戸時代が豊臣から徳川に移った当初は、まだ、「武」がはばを利かせていたため、武力と富力を手にした戦国時代以来の武将たちは金銀をふんだんに使って勢威を誇示した。彼らの多くは戦国の世を勝ちぬいた荒くれ武将で、性格は単純、趣味は低級だった。このような武将の常として力を得れば本能の満足を求めるほか、おのれの権威と富を保持するために豪壮な邸第を構え、金碧に輝く衣装をつけるのである。このように、江戸初期の上層武家階級の衣装美は権力・富力を誇る豪奢なものだったが、下層の庶民はこの時期はま

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