太宰治《鱼服记》 日语原版
太宰治《川端康成へ》 日语原版
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川端康成へ太宰治あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。
「前略。
――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった。
」おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。
私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。
これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。
これは、あなたの文章ではない。
きっと誰かに書かされた文章にちがいない。
しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。
「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。
「海」という題であった。
友人の今官一、伊馬鵜平(うへい)に読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。
物語だけをきちんとまとめあげたものであった。
そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。
友人の中村地平、久保隆一郎、それから御近所の井伏さんにも読んでもらって、評判がよい。
元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。
今年の正月ごろ友人の檀一雄がそれを読み、これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。
川端氏なら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。
そのうちに私は小説に行きづまり、謂(い)わば野ざらしを心に、旅に出た。
それが小さい騒ぎになった。
どんなに兄貴からののしられてもいいから、五百円だけ借りたい。
そうしてもういちど、やってみよう、私は東京へかえった。
太宰治生平

太宰治的生平太宰治(だざいおさむ、明治42年(1909年)6月19日- 昭和23年(1948年)6月13日)日本小说家、作家。
本名津岛修治,出生于青森县金木村,(现. 五所川原市金木町) 考入东大法文系,因故,中途退学。
日本战后无赖派文学代表作家,父亲津岛原右卫门曾任众议院议员、贵族院议员,同时经营银行与铁路。
母亲体弱多病,自小他由姑母及保母照顾下长大。
幼年时期少了母亲的影响,改由保母养育长大的过往,对太宰的生涯有不可小觑的意义。
中学时期成绩优异,对芥川龙之介、泉镜花的文学十分倾倒。
芥川的自杀对高校时期的他产生了相当大的冲击与影响,1930年,进入东大法文科,初会井伏鳟二,奉为终生之师。
人物履历中学时代的太宰治中学时代的太宰治[1]一九零九年(明治四十二年)六月十九日,出生于青森县北津郡的金木村(五所川原市),本名津岛修治。
津岛家是津轻地区首屈一指的地主富豪之家。
太宰治的父亲津岛原右卫门,曾任众议院议员,后当选贵族院议员,同时经营银行、铁路;而他的母亲则是体弱多病,无力照顾儿子,因此太宰治从小是受姑母和保姆的抚养而长大。
太宰治出生之后,是津岛家那一辈里面的第六个男孩,上有五哥四姐,其中两个哥哥不幸夭折,只剩下文治、英治、圭治三人。
太宰治出生三年之后,幼弟礼治出生。
一九一六年(大正五年)七岁至市立金木普通小学就读,成绩杰出。
一九二一年(大正十一年)十二岁以第一名的成绩从普通小学毕业,后至离家两公里远的明治高等小学就读。
一九二三年(大正十二年)十四岁三月,父亲去世,享年五十三岁。
四月,至青森县立青森中学就读,寄宿该市寺町的远亲丰田家檐下。
中学期间,开始创作小说、杂文、戏剧,对泉镜花、芥川龙之介的文学相当倾倒。
一九二五年(大正十四年)十六岁发表《最后的太阁》。
和阿部合成、中村贞次郎等友人合编同人杂志《星座》。
一九二七年(昭和二年)十八岁至远亲藤田豊三郎的家里寄宿,就读弘前高等学校文科甲组(英语)。
年间,传来芥川龙之介自杀的消息,甚受冲击;和青森市滨町“玉屋”的艺妓红子(小山初代)相识。
太宰治《富岳百景》 日语原版

富嶽百景太宰治富士の頂角、広重(ひろしげ)の富士は八十五度、文晁(ぶんてう)の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。
広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。
いただきが、細く、高く、華奢(きやしや)である。
北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。
けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
たとへば私が、印度(インド)かどこかの国から、突然、鷲(わし)にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。
ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧(あこが)れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。
低い。
裾のひろがつてゐる割に、低い。
あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一?五倍、高くなければいけない。
十国峠から見た富士だけは、高かつた。
あれは、よかつた。
はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた。
私が、あらかじめ印(しるし)をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた。
おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた。
やつてゐやがる、と思つた。
人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。
全身のネヂが、他愛なくゆるんで、之はをかしな言ひかたであるが、帯紐(おびひも)といて笑ふといつたやうな感じである。
[太宰治经典语录]太宰治语录
![[太宰治经典语录]太宰治语录](https://img.taocdn.com/s3/m/36bc4bc1d4bbfd0a79563c1ec5da50e2524dd12c.png)
[太宰治经典语录]太宰治语录太宰治语录一:人间失格小说读后感人间失格小说读后感一读完太宰治的书《人间失格》,这是儿子要求我给他买的书,看了说大吃一惊,为了避免儿子正因不恰当的阅读选取而影响了人生导向,我义不容辞的在拿到书的第一时刻自己先行阅读。
书里有一句十分经典的话"生而为人,我很抱歉"儿子说他第一次听到这句话的时候,感动的哭了,正因他似乎读懂了太宰治的无奈和痛苦,他很期望我能阅读这本书,并且期望阅读能够给我带来关于人生的思考,当然,所谓思考那是必然,但是我更关注对儿子思想轨迹的了解,因此,他读的书,或者是他推崇的书,都是我必须要读的。
人间失格,即丧失了做人的资格,这是太宰治的自传体书札,纤细的自传体中透露出极致的绝望,太宰治巧妙地将自己的人生与思想,隐藏于主角叶藏的人生遭遇,借由叶藏的独白,表达自己的内心世界。
整本书充满压抑和生活的混乱,正因无法理解自己生而为人的现实,使得叶藏一向生活在一种被迫和抽离的状态,也基于此,似乎他一向在生活的窘困之中无法自拔,金钱是永远没法解决的问题,辗转在一个又一个女生之间,藉此虚度生命,但并没有哪个女生能够令他找到生命的好处。
他内心善良,总觉得他的行为似乎在对他人造成伤害,于是一次次的离去,但又总是无法逃脱命运的咒语,生活中永远是女生,能做的就是不断的用酒精医学专用自己,不断的把所有的东西送到当铺去,拿到的钱再变成酒,如此周而复始,最后沦为一个丧失行动力,靠画低级的漫画挣钱,靠自己的脸面去赊账的男生。
为了生存,甚至于为了吗啡,总之,只要某个女生有什么他需要的东西能够给予,他都能够出卖自己的性和身体,在这本书里,不断的在看到这个苟活的男生内心世界的挣扎与一次次的崩塌,从书的最开始,我甚至于没有搞清楚为何,他会有那么强烈的人间失格的感受,这个世界真的不属于他吗?为何从幼年懵懂期的照片上,他就找不到内心真的归属?其实我们大多数人,都并不知道来到这个世界的好处何在,但有些人在发奋中奋斗中寻找生命的好处,有些人却从很早就开始正因迷茫而放下,我不知道是上天怎样的安排,令这个原本富有才华的男生,这个临死但是才38岁的男生的一生竟是如此悲怆?好在最后,他最后自己做了一回主,跳河自杀身亡,生而为人,他很抱歉,但是死去的太宰治并不知道,他选取自杀,会对更多的人抱歉,总是说自杀是最不负职责的选取,就算是在宗教里面,自杀的灵魂也是无法解脱的,而这些,不知道太宰治是否知道,他的灵魂又是否能够逃脱那纵身跃下的冰河,每一世的功课总要做完,没有做完的就算是想逃跑,大概也只是徒增留级的悲哀吧。
太宰治
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太宰治から君へ
番号:0805214075 名前:曹月柳
業に 大 本 派 に入学名旗 専っ 時 津 手 昭 念た 代 島 。 和 しがに 修青期 た転 一 治 森 の 。 向時。 県小 し 左東生説 、 翼大ま家 小 運中れ。 説 退る無 修動 。 。 頼
太 ー宰 昭治
和( ) ー ・ 明 治
42
1909 1948 23
「無頼派」の出典は、太宰治が小説「パ ンドラのゴウ」やエッセイで述べた「私は りベルタンです。無頼派です。束縛に反 対します。」などの発言によるものだとい われる。無頼か作家の多くは屈折した形 で現実の苦しみと歪みを凌ぎ、生活を再 開しよとうした人が多い。
• 生きている事。 ああ、それは、何という やりきれない息もたえだえの大事業であ ろうか。
• 学問とは、虚栄の別名である。人間が人 間でなくなろうとする努力である。
• 人間は嘘をつく時には、必ず、まじめな 顔をしているものである。 • 不良でない人間があるだろうか。
太宰治「斜陽」より
創作の三つ段階
前期(1932-1937):「晩年」、「虚構の彷徨」 「二十世紀旗手 」; 中期(1938-1945):「女生徒 」など;
後期(1946-1948):「パンラの匣」、 「斜陽」、「人間失格」など;
太宰治の代表作品
中篇小説(1947・昭 和22)。題の「斜陽」 に象徴される没落 貴族の家庭を背景 にして、「最後の貴 婦人」の母、姉、デ カダンな文学青年 で姉の日記と手紙 によって構成された 挽歌風の物語であ る。
太宰治-『井伏鱒二选集』後记
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『井伏鱒二選集』後記太宰治第一巻ことしの夏、私はすこしからだ具合いを悪くして寝たり起きたり、そのあいだ私の読書は、ほとんど井伏さんの著書に限られていた。
筑摩書房の古田氏から、井伏さんの選集を編むことを頼まれていたからでもあったのだが、しかし、また、このような機会を利用して、私がほとんど二十五年間かわらずに敬愛しつづけて来た井伏鱒二と言う作家の作品全部を、あらためて読み直してみる事も、太宰という愚かな弟子の身の上にとって、ただごとに非ざる良薬になるかも知れぬという、いささか利己的な期待も無いわけでは無かったのである。
二十五年間?活字のあやまりではないだろうか。
太宰は、まだ三十九歳の筈である。
三十九から二十五を引くと、十四だ。
しかし、それは、決して活字のあやまりではないのである。
私は十四のとしから、井伏さんの作品を愛読していたのである。
二十五年前、あれは大震災のとしではなかったかしら、井伏さんは或るささやかな同人雑誌に、はじめてその作品を発表なさって、当時、北の端の青森の中学一年生だった私は、それを読んで、坐っておられなかったくらいに興奮した。
それは、「山椒魚(さんしょううお)」という作品であった。
童話だと思って読んだのではない。
当時すでに私は、かなりの小説通を以(もっ)てひそかに自任していたのである。
そうして、「山椒魚」に接して、私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮したのである。
嘘ではないか?太宰は、よく法螺(ほら)を吹くぜ。
東京の文学者たちにさえ気づかなかった小品を、田舎の、それも本州北端の青森なんかの、中学一年生が見つけ出すなんて事は、まず無い、と井伏さんの創作集が五、六冊も出てからやっと、井伏鱒二という名前を発見したというような「人格者」たちは言うかもしれないが、私は少しも嘘をついてはいないのである。
私の長兄も次兄も三兄もたいへん小説が好きで、暑中休暇に東京のそれぞれの学校から田舎の生家に帰って来る時、さまざまの新刊本を持参し、そうして夏の夜、何やら文学論みたいなものをたたかわしていた。
太宰治《二十世纪旗手》 日语原版

二十世紀旗手――(生れて、すみません。
)太宰治序唱神の焔(ほのお)の苛烈(かれつ)を知れ苦悩たかきが故に尊からず。
これでもか、これでもか、生垣へだてたる立葵(たちあおい)の二株、おたがい、高い、高い、ときそって伸びて、伸びて、ひょろひょろ、いじけた花の二、三輪、あかき色の華美を誇りし昔わすれ顔、黒くしなびた花弁の皺(しわ)もかなしく、「九天たかき神の園生(そのう)、われは草鞋(わらじ)のままにてあがりこみ、たしかに神域犯したてまつりて、けれども恐れず、この手でただいま、御園の花を手折(たお)って来ました。
そればかりでは、ない。
神の昼寝の美事な寝顔までも、これ、この眼で、たしかに覗(のぞ)き見してまいりましたぞ。
」などと、旗取り競争第一着、駿足の少年にも似たる有頂天の姿には、いまだ愛くるしさも残りて在り、見物人も微笑、もしくは苦笑もて、ゆるしていたが、一夜、この子は、相手もあろに氷よりも冷い冷い三日月さまに惚(ほ)れられて、あやしく狂い、「神も私も五十歩百歩、大差ござらぬ。
あの日、三伏(さんぷく)の炎熱、神もまたオリンピック模様の浴衣(ゆかた)いちまい、腕まくりのお姿でござった。
」聞くもの大笑せぬはなく、意外、望外の拍手、大喝采。
ああ、かの壇上の青黒き皮膚、痩狗(そうく)そのままに、くちばし突出、身の丈ひょろひょろと六尺にちかき、かたち老いたる童子、実は、れいの高い高いの立葵の精は、この満場の拍手、叫喚の怒濤(どとう)を、目に見、耳に聞き、この奇現象、すべて彼が道化役者そのままの、おかしの風貌ゆえとも気づかず、ぶくぶくの鼻うごめかして、いまは、まさしく狂喜、眼のいろ、いよいよ奇怪に燃え立ちて、「今宵七夕(たなばた)まつりに敢えて宣言、私こそ神である。
九天たかく存(おわ)します神は、来る日も来る日も昼寝のみ、まったくの怠慢。
私いちど、しのび足、かれの寝所に滑り込んで神の冠、そっとこの大頭(おおあたま)へ載せてみたことさえございます。
太宰治生平
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太宰治的生平太宰治(だざいおさむ、明治42年(1909年)6月19日- 昭和23年(1948年)6月13日)日本小说家、作家。
本名津岛修治,出生于青森县金木村,(现. 五所川原市金木町) 考入东大法文系,因故,中途退学。
日本战后无赖派文学代表作家,父亲津岛原右卫门曾任众议院议员、贵族院议员,同时经营银行与铁路。
母亲体弱多病,自小他由姑母及保母照顾下长大。
幼年时期少了母亲的影响,改由保母养育长大的过往,对太宰的生涯有不可小觑的意义。
中学时期成绩优异,对芥川龙之介、泉镜花的文学十分倾倒。
芥川的自杀对高校时期的他产生了相当大的冲击与影响,1930年,进入东大法文科,初会井伏鳟二,奉为终生之师。
人物履历中学时代的太宰治中学时代的太宰治[1]一九零九年(明治四十二年)六月十九日,出生于青森县北津郡的金木村(五所川原市),本名津岛修治。
津岛家是津轻地区首屈一指的地主富豪之家。
太宰治的父亲津岛原右卫门,曾任众议院议员,后当选贵族院议员,同时经营银行、铁路;而他的母亲则是体弱多病,无力照顾儿子,因此太宰治从小是受姑母和保姆的抚养而长大。
太宰治出生之后,是津岛家那一辈里面的第六个男孩,上有五哥四姐,其中两个哥哥不幸夭折,只剩下文治、英治、圭治三人。
太宰治出生三年之后,幼弟礼治出生。
一九一六年(大正五年)七岁至市立金木普通小学就读,成绩杰出。
一九二一年(大正十一年)十二岁以第一名的成绩从普通小学毕业,后至离家两公里远的明治高等小学就读。
一九二三年(大正十二年)十四岁三月,父亲去世,享年五十三岁。
四月,至青森县立青森中学就读,寄宿该市寺町的远亲丰田家檐下。
中学期间,开始创作小说、杂文、戏剧,对泉镜花、芥川龙之介的文学相当倾倒。
一九二五年(大正十四年)十六岁发表《最后的太阁》。
和阿部合成、中村贞次郎等友人合编同人杂志《星座》。
一九二七年(昭和二年)十八岁至远亲藤田豊三郎的家里寄宿,就读弘前高等学校文科甲组(英语)。
年间,传来芥川龙之介自杀的消息,甚受冲击;和青森市滨町“玉屋”的艺妓红子(小山初代)相识。
文豪野犬太宰治语录日文

文豪野犬太宰治语录日文文豪野犬是一部知名的日本动漫作品,其中的人物形象和语言表达深受观众喜爱。
其中,太宰治作为著名的小说家和诗人,他的一些简洁而又有力的语录也深受人们喜爱。
下面将从七个案例入手,详细论述太宰治在文豪野犬中的语录。
1. 「人生だってどんな誰しも、泳ぎきれない場面がたくさんあると思います」(人生中,即使对任何人来说,也会有无法游到彼岸的时刻)这句话是太宰治在文豪野犬中常常提到的一句,这句话充满了深刻又明显的哲理,告诫人们要正视困难面对自己内心的弱点。
2. 「すいませんが、私は自分が救われたかったから、誰かを助けるわけではないのです。
毒牙を抜くのに指を壊せることだけ、それだけは好きです。
」(对不起,其实我并不是因为想要帮助别人才去帮助他们的。
只是因为我希望我自己得到拯救而已。
我只是喜欢为了除去有毒牙齿而自愿牺牲。
)这是太宰治在第二季中说的话,展现出自己的正义感和帮助他人的由来。
他并不是推卸责任,而是坦诚地面对自己的内心想法,他深知自己的追求。
3. 「诗歌比起小说更加容易吞下,然而它没有小说那样绝望。
」(诗歌比小说更加容易吞咽,但是它不会像小说那样绝望。
)太宰治以自己的诗人身份出现在剧中,这句话中表现出了他对于诗歌的深处理解和独特感悟,同时也体现出了对于小说、诗歌等文学形式的敬畏。
4. 「人生是没有办法抵挡那个瞬间到来的。
所以我们准备好,这样悲剧来了才不会有遗憾。
」(人生无法阻挡那一瞬间的到来,所以要准备好,这样在悲剧到来时才不会留下遗憾。
)这句话表明太宰治对于命运的认识和态度,他认为人生中总是充满了不确定性和随机性,所以我们要随时准备好,对于未来绝不气馁。
5. 「人们总是为了扭曲得到而扭曲茁壮地成长。
」(人们总是为了扭曲得到而扭曲茁壮地成长。
)这句话展示了太宰治对于人性的深度思考,他认为人们总是希望获得更多的成长和进步之路,所以会选择各种途径来推进。
6. 「如果你太寂寞了,我可以和你一起。
浅析太宰治翻案文学

开封文化艺术职业学院学报Journal of Kaifeng Vocational College of Culture & Art 2020年12月20日Dec.20 2020第40卷 第12期Vo1.40 No.12doi:10.3969/j.issn.2096-7853.2020.12.018浅析太宰治翻案文学刘 莹(山东外事职业大学,山东 威海 264504)摘 要:太宰治,“无赖派”作家。
人们对于太宰治在日本文学史上的地位及其文学的评价各不相同。
太宰治人生和作品中表现出来的颓废,既是太宰治痛苦人生的折射,又是那个特殊时代烙印在人们身上的产物。
太宰治的作品包罗万象,翻案文学作品也是重要的一部分。
探究太宰治文学中的翻案作品,对于进一步了解太宰治及其作品有重要意义。
关键词:太宰治;翻案文学;日本传统文学;西洋文学;中国文学中图分类号:I313.06 文献标识码:A 文章编号:2096-7853(2020)12-0041-03一、太宰治的一生太宰治于1909年6月19日出生于日本青森县,本名为津岛修治,是家中的第六子。
虽然津岛家在当地是地主富豪之家,但是从小太宰治就没有享受过父亲的疼爱和重视,在家庭里几乎没有什么地位和意义可言。
这种看似不受家长重视的成长环境使得太宰治的性格自小就变得忧郁和敏感。
太宰治从小喜欢作文,进入中学后就开始了文学写作。
太宰治崇拜和一生都在追随的是作家芥川龙之介。
芥川龙之介的作品一度是青年时代的太宰治模仿的对象;芥川龙之介的自杀使得太宰治受到了打击。
1929年受共产主义影响,并烦恼于自己的出身问题,太宰治第一次自杀。
1930年,进入东京帝国大学法文系,期间和咖啡馆女招待一起投河,这是第二次自杀,结果女店员死亡,太宰治却活了下来。
后与艺妓小山初代私奔到东京,和津岛家族断绝关系。
1935年,太宰治以短篇小说《逆行》角逐日本史上第一个文学奖芥川奖,最终惜败给石川达三的《苍氓》。
从《鱼服记》看太宰治的死亡观

从《鱼服记》看太宰治的死亡观作者:李守波来源:《青年文学家》2013年第01期摘要:太宰治脱离左翼运动后发表的以《鱼服记》为代表的一系列作品,确立了其早期消极颓废的文学风格。
本文通过对《鱼服记》一文的地位、苏瓦变身的意义以及文中所涉及死亡的分析,剖析太宰治在早期即已经形成的死亡观。
关键词:太宰治;鱼服记;死亡观[中图分类号]:I106 [文献标识码]:A[文章编号]:1002-2139(2013)-1-0-01一、《鱼服记》的诞生作为日本“无赖派”文学的代表人物,他的人生之路上充满了对死亡的尝试,可以说追寻死亡的道路就是他生存的道路。
1932年因对左翼运动绝望,太宰治向青森警署自首宣告脱离左翼运动。
之后他重回东京帝国大学,倾心于写作。
1933年2月在《东奥周末》第一次次以“太宰治”的笔名发表短篇小说《列车》。
3月在古谷纲武、今官一等人创立的同人杂志《海豹》创刊号上发表《鱼服记》一文。
随后在《海豹》上连载其自传体小说《回忆》。
这些以“太宰治”笔名发表的文章与之前发表作品的风格截然不同。
通过这些作品,太宰治真正以一个新进作家的姿态踏入文坛。
《鱼服记》中,作者用相当凝练的笔触把主人公苏瓦的虚幻人生和津轻的风景巧妙地融合在一起,细腻的文笔深受好评。
在太宰治的自传体小说《十五年间》中,对发表《鱼服记》时的情景,有这样的回忆:“昭和8年,发表《鱼服记》等18篇短篇小说,可以说是我作家生活的开始,这些作品获得意料之外的反响。
”《列车》、《鱼服记》、《回忆》等文章的发表标志着“太宰治文学”的正式诞生,确立了太宰治早期消极颓废的风格。
二、苏瓦转变的暗示苏瓦终年和父亲两人居住在马秃山中的烧炭小屋里,过着与外界隔绝的生活。
苏瓦13岁的时候,她的生活有了一丝转机。
父亲在瀑布深潭旁开了个小茶摊,苏瓦帮忙照看茶摊,能有机会接触到来山里游览的人们。
这使之前以为世界上只有自己和父亲两人的“野孩子”苏瓦心理产生了变化,内心开始“起了波澜”。
ー伊豆の踊り子

一、川端康成(かわばたやすなり)日本人初のノーベル文学賞の受賞者要旨:⒈川端康成は幼くして近親者を亡くす。
苦しい生活がした。
⒉中学2年から作家を志した。
ほかの人とたくさんの雑誌を創刊した。
⒊ノーベル文学賞とほかの賞を受賞した。
⒋72歳自殺した。
作家紹介小説家(1899 - 1972)。
大阪市生まれ。
幼くして両親や一人の姉と祖母を失い、16歳で祖父に死別して孤児となった。
この環境が彼の人格形成と、彼の文学資質の形成に決定に影響力を与えた。
彼は13歳ごろより文学書を乱読し、小説化を心するようになり、18歳の年には短編が新聞や雑誌などに掲載される。
1920年東京帝国大学英文学科に入学し、いよいよ文学先進しようと『新思潮』を創刊。
同誌二号に発表した『招魂祭一景』は彼の文壇出発ともなた。
1926年、孤児根性の歪みから脱出した『伊豆の踊り子』を新感覚派の拠点となった雑誌『文芸時代』に発表して、新進作家として衆目の認めを得た。
この期の彼は創作のみならず、理論活動でも新感覚の支柱となり、また掌小説のような詩的作品でも新分野を開拓している。
30歳から34歳までの創作は川端文学にとっては浅草もの時代である。
浅草の踊り子らと知り、『浅草紅団』など後に浅草ものと呼ばれる作品、踊り小物と呼ばれる系列の作品を書いた。
またこの期は新心理主義的作風の佳編『水晶幻想』を生み、後の『みづうみ』の手法につながっていく。
『禽獣』、エッセー『末期の目』あたりを境に「現実そのもののどう変えようもない形を始めて直視、日本の風土の奥深くのがれて作品世界の成就しよう」と変わり始める。
その変化の頂点として『雪国』(1937)を生む。
戦後の代表作には、『千羽鶴』、『山の音』、『名人』、『古都』などがあり、川端文学の美の世界を深めた。
1961年文化勲章、1968年には日本人初のノーベル文学賞を受賞し、日本美の精髄を表現したことと,東西精神の架橋が高く評価された。
从《鱼服记》看太宰治理想中的纯洁世界

从《鱼服记》看太宰治理想中的纯洁世界作者:孟雅来源:《北方文学》2017年第17期摘要:《鱼服记》发表于昭和八年三月号的同人杂志《海豹》,是太宰治前期典型的代表作品之一。
本论文以太宰治的前期作品《鱼服记》中的纯洁世界为中心,分析其中的景物、人描人物与太宰治的经历,了解太宰治的理想世界。
关键词:太宰治;鱼服记;纯洁理想世界每一部文学作品的诞生都是作者所处的那个时代的产物,当时特定的社会、历史背景和环境的产物,而太宰治的一系列作品也是对他所生活过那个时代的回应,他的作品中充斥着他对周围世界的失望。
他的名言“生而为人,实在很抱歉(生まれてすみません)”和“我是自由人,我是无赖派”则是他文学作品的经典标语,对那个时代作了强有力的回应。
太宰治是无赖派的代表作家,太宰治文学被称为“昭和文学不灭的金字塔”,在日本近代文学史上占有重要地位。
本文主要对前期代表作品《鱼服记》展开分析以探究其对纯洁世界的渴望。
一、《鱼服记》中的纯洁意象“文章文筆细腻,文风淡雅,对环境和人物的刻画亦实亦虚,整篇文章充斥着太宰治的孤独意识和对纯洁世界的深深向往之情。
”文章以自然景色为开端,描绘出一幅孤独静寂的的山间景象,如同与世隔绝的世外桃源。
主人公苏瓦就是在这样近乎与世隔绝、景色怡人的环境中,与她相依为伴的也只有他的父亲。
文章中“思娃赤着足跟在父亲身后,”啪哒啪哒”地走。
父亲随即又要赶回小屋烧炭,留下思娃一个人看店。
只要隐约看到游客的身影,思娃就会大声招呼:“请过来歇歇脚吧!”这是父亲交代的,可是,思娃如此甜美的声音却被巨大的瀑布声掩盖住了。
”“天气晴朗时,思娃会裸身在瀑潭中游泳,但她不会游得太远,一旦发现有客人,就会精神奕奕地撩起发红的短发,大叫:“请过来歇歇脚吧!”在天气晴朗时思娃会去捡香菇贴补家用,自然这也是父亲交代的。
父亲给她讲三郎和八郎的故事时“思娃听着故事,悲伤得将父亲沾满炭粉的手指塞入口中,不停地哭泣。
”思娃对于父亲的吩咐全都乖顺地完成,在听故事时,替主人公感到悲伤,太宰治笔下的思娃是一个顺从善良、纯洁的女孩子。
走れメロス-太宰治中文译文

跑吧美勒斯太宰治著/金运译美勒斯发怒了。
他决心要除掉那个残暴的君王。
美勒斯是一个村里的牧羊人,并不懂得政治。
他喜爱吹笛,放牧为生,天天和羊群生活在一起。
但对邪恶特别敏感。
这天天将黎明的时候,美勒斯就离开村庄,翻过山岭,走过平原,来到这距家七十多里的希拉库斯城。
美勒斯没有父母,也没有媳妇,和一个年方十六的良慧的妹妹一起生活。
妹妹最近要出闺,嫁给村里一个诚实的牧人。
婚礼快要举行了。
因此,美勒斯来到这遥远的城镇给妹妹买出嫁的衣裳和庆祝的宴席。
他买好东西,摇摇晃晃地走在市内大路上。
美勒斯有一个非常要好的朋友,名叫赛力奴德乌斯。
现在就在这个希拉库斯城里当石工。
他想顺便看看他。
他们已经很久没有见过面了。
走着走着,美勒斯觉得这个城里有点奇怪,大小街道都静静的。
太阳落山了,昏暗迷漫着整个城镇。
到了晚上,可是不知道怎么的,全城仍一片寂静。
悠闲自在的美勒斯渐渐地感到了不安。
他抓住路上遇到的青年的衣服问起来:“二年前我到这个镇里来,就是到了夜晚,到处还是一片莺歌燕舞,热闹非凡。
可现在到底是怎么了?”年轻人摇了摇头,没有回答。
又走了一会儿,碰上一位大爷,他加重了语气向他询问。
老大家也没有回答。
美勒斯摇着他的身子又问了一遍。
老大爷小心地看了看周围,轻轻地对他说:“君王要杀人啦。
”“为啥要杀人?”“据说是……可谁也没有那种心肠。
”“杀了许多人了吗?”“是的。
第一个是君王的妹夫。
接着杀自己继位者,再者是亲妹妹,随后是妹妹的孩子、皇后,还有贤臣阿来吉斯。
”“太可怕了。
君王糊涂了吗?”“不,他并没有糊涂。
不相信人。
怀疑臣下不忠,对那些生活得富裕的人家,就命你献出一个人来,如果拒绝不交,就被挂在十字架上。
今天杀了六个人了。
”美勒斯听罢发怒了。
“傻瓜君王,还让人活吗?”美勒斯是一个单纯的汉子。
他背着买来的东西,慢慢地走进了城里。
走着走着,便被巡逻的警吏逮着了。
他们从美勒斯身上收出了一把短剑。
这一下子可坏了事。
美勒斯被带到了君王面前。
太宰治《女生徒》 日语原版
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「お父さん」と小さい声で呼んでみる。へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと蒲団(ふとん)をたたむ。蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。どうして、こんな掛声を発したのだろう。私のからだの中に、どこかに、婆さんがひとつ居るようで、気持がわるい。これからは、気をつけよう。ひとの下品な歩き恰好(かっこう)を顰蹙(ひんしゅく)していながら、ふと、自分も、そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。
泣いてみたくなった。うんと息(いき)をつめて、目を充血させると、少し涙が出るかも知れないと思って、やってみたが、だめだった。もう、涙のない女になったのかも知れない。
あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。お掃除しながら、ふと「唐人お吉」を唄う。ちょっとあたりを見廻したような感じ。普段、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」を唄ったのが、面白い。蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら、唐人お吉を唄うようでは、自分も、もう、だめかと思う。こんなことでは、寝言などで、どんなに下品なこと言い出すか、不安でならない。でも、なんだか可笑しくなって、箒(ほうき)の手を休めて、ひとりで笑う。
結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなって、ポカンとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来るのではないのかしら。
食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。ことし、はじめて、キウリをたべる。キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。ひとりで食堂でごはんをたべていると、やたらむしょうに旅行に出たい。汽車に乗りたい。新聞を読む。近衛さんの写真が出ている。近衛さんて、いい男なのかしら。私は、こんな顔を好かない。額(ひたい)がいけない。新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。一字一句、最大の効果を収めようと、うんうん唸(うな)って、絞(しぼ)り出したような名文だ。こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少いであろう。なんだか、気味がよい。痛快だ。
太宰治《鱼服记》论

太宰治《鱼服记》论太宰治《鱼服记》论吉倚林阿莉塔摘要:本研究以父亲人物形象分析为中心,围绕着诗瓦的成长以及父女二人关系的变化来探讨父亲的应对措施,从父亲对待诗瓦提问的态度、日常生活的细节等方面明晰出父亲的人物性格及心理,寻找出父亲在一直以来研究中提到的“权威”“性侵”等以负面形象居多的另一面。
关键词:诗瓦;成长;父亲;变化一、研究背景《鱼服记》于1933年3月1日在杂志《海豹》上发表,发表后获得了日本文坛极高的评价,后收录于太宰治的第一部作品集《晚年》中。
《鱼服记》的作者太宰治(1909—1948)本名津岛修治,21岁时进入东京大学法文系学习,常参加共产党运动,而后退学,师从井伏鳟二。
因多部作品中含有颓废、自虐的色彩,故与坂口安吾、织田作之助共同被称之为无赖派作家,代表作有《人间失格》《女生徒》《斜阳》等。
太宰治从上田秋成的《雨月物语》中获得灵感,创作了《鱼服记》,讲述了少女诗瓦和父亲在山中生活的故事。
诗瓦从出生以来就一直和父亲生活在马秃山里,十五岁那一年她目睹了一个学生坠崖,此后她的思想开始发生变化,有一天她突然向父亲询问人生的意义,却没有得到满意的答案,从而对父亲产生了不满。
在一个下雪的夜里,酒后回家的父亲侵犯了诗瓦,她大喊一句“混蛋”后,纵身跳入瀑布中,变成了一条小鲫鱼。
至今为止关于《鱼服记》的研究已经有了许多成果,研究主要着眼于以下几个方面:将《鱼服记》与太宰治的人生经历结合起来分析探讨、太宰治的死亡观、诗瓦的变身分析、与中国古典《鱼服记》的比较、与柳田国男的《山中的人生》的比较、“水”在文中的含义等。
長原しのぶ认为,太宰治在和银座的侍女自杀未遂后,产生了强烈的悔恨和负罪意识,对水寄托了“自我净化”“自我救赎”的心情,这刚好符合《鱼服记》的其中一个主题——“水”,所以认为太宰治的自杀事件对《鱼服记》的创作产生了影响。
[1]九頭見和夫着眼于诗瓦的变身,认为诗瓦有两次变身,第一次是由“山里娃”变成“女人”,第二次是由“女人”变成“小鲫鱼”,在日本民俗文化中,有人死亡后会变成蛇的说法,而诗瓦最后没有变成蛇,故九頭見和夫认为诗瓦最后没有死。
鱼服记 [日]太宰治
![鱼服记 [日]太宰治](https://img.taocdn.com/s3/m/d08d95a1b0717fd5360cdc71.png)
当思娃听到这个故事时,悲伤得将父亲沾满炭粉的手指塞入口中,哭泣。
思娃从回忆中恢复过来,怀疑的不停眨眼睛。瀑布竟然在低声呢喃。八郎呀!三郎呀!八郎呀!
父亲用手拨开绝壁上的红色爬墙藤叶,走了出来。
“思娃,卖了什麽?”
思娃没有回答,她用力的擦拭被水花溅湿,闪闪发亮的鼻尖。父亲不发一语的收拾店里。
大蛇!
她心想:“我变成大蛇了!”她喃喃自语的说:“太好了!已经不用回小屋去了!”接着,用力的动了动鬍鬚。
只是一条小小的鲫鱼,牠只不过嘴巴一开一合,动了动鼻尖的疙瘩而已。
小鲫鱼在瀑潭附近的水域四处来回的游着。一会儿似乎要振起胸鳍浮出水面,却又忽然用力摇摆尾鳍,潜入深处。
一会儿追逐水中的小虾,一会儿又躲在岸边茂密的芦苇草里,一会儿又啄了一口岩角上的青苔,高兴的玩耍着。
接着,小鲫鱼突然保持不动,只是偶尔微微摆动胸鳍,彷彿在想些什麽,就这样持续了好一会儿。
不久,身体一弯,一直潮瀑潭游去。转瞬间,有如树叶般打转,被吸了进去。
父亲大大的耸耸肩膀,看了看思娃认真的脸庞,喃喃的说:“不知道!”
思娃一面咬着芒草的叶子,一面说:“去死好了!”
父亲举起手掌,想揍死她,但犹豫了一会儿,又放下手。对于思娃发脾气一事,老早就看破了,而且一想到思娃已经是一个大女孩了,因此当时才忍下来。
“这样啊!这样啊!”
思娃觉得父亲这种不着边际的回答,十分愚蠢,她一面呸呸的吐出芒草叶,一面怒骂:“笨蛋!笨蛋!”
到了黄昏,父亲从烧炭小屋,全身乌黑的来接思娃回家。
“卖了些什麽?”
“没有!”
“这样啊!这样啊!”
父亲若无其事的唸着,抬头仰望瀑布。接着,两人合力将店中的物品又放回提篮中,提回烧炭小屋。
人间失格仅一夜之间,我心判若两人日文原文

人间失格仅一夜之间,我心判若两人日文原文(最新版)目录1.人间失格的概述2.人间失格的主题3.人间失格的作者简介4.人间失格的日语原文5.人间失格的经典语录及日语原文6.人间失格的影响和评价正文《人间失格》是日本著名小说家太宰治创作的中篇小说,于 1948 年发表。
这部作品被誉为日本战后文学的代表作之一,受到了广泛的关注和讨论。
人间失格的主题是探讨人类存在的意义和价值。
作品通过主人公大庭叶藏的生活经历,揭示了人类内心的孤独、恐惧和无奈。
太宰治通过对主人公叶藏的描绘,表现了自己对人类生活的悲观和失望。
太宰治,日本著名小说家,生于 1909 年,逝于 1948 年。
他的作品风格独特,思想深刻,被誉为日本现代文学的重要作家之一。
太宰治的一生充满了痛苦和挣扎,他的许多作品都反映了他对人类生活的思考和探索。
人间失格的日语原文为《人間失格》,这部作品的日语原文语录有很多,例如:“同样的事日日反复,只需遵循与昨日相同的惯例。
倘若避免大喜大悲,彻骨的悲伤便不会到来。
”等等。
人间失格的经典语录及日语原文:1.同样的事日日反复,只需遵循与昨日相同的惯例。
倘若避免大喜大悲,彻骨的悲伤便不会到来。
日语原文:同じ事が日々繰り返している。
昨日と同じように行動すればいい。
大きな喜びや悲しみを避ければ、切ない悲しみは来ない。
2.胆小鬼连幸福都会害怕,碰到棉花都会受伤,有时还被幸福所伤。
日语原文:弱虫が幸福まで怖いで、棉に当たって傷つく。
時々幸福にも傷つく。
3.彻头彻尾的绝望,残酷的青春,疼痛的青春,纯粹的青春,永恒的青春文学凄美之作,失去作为人活在世间的资格。
日语原文:完全な絶望、残酷な青春、痛みの青春、純粋な青春、永遠の青春文学の凄美な作品、人間の資格を失いたまる。
人间失格的影响和评价:人间失格自问世以来,受到了广泛的关注和讨论。
这部作品被誉为日本战后文学的代表作之一,被认为是揭示了人类内心的孤独、恐惧和无奈的杰作。
从《鱼服记》看太宰治的“变身”意识
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从《鱼服记》看太宰治的“变身”意识作者:章莉人来源:《青年文学家》2017年第33期摘要:太宰治在先后经历了非合法运动的参加和脱离、被津岛家分家除籍、两次自杀未遂事件之后,以“遗书”的形式创作了包括《鱼服记》在内的十四部作品,并命名为《晚年》。
本文重点对《鱼服记》的诞生背景、文中三处死亡描述、主人公斯瓦的三处“变身”及其思想转变等进行分析,并结合太宰治的人生经历,探讨太宰治的“变身”意识。
关键词:太宰治;鱼服记;斯瓦;变身;再生作者简介:章莉人,1993年3月出生,女,汉族,安乡县人,西安外国语大学日本文化经济学院在读硕士研究生,主要研究方向:日本近现代文学。
[中图分类号]:I106 [文献标识码]:A[文章编号]:1002-2139(2017)-33--02一.《鱼服记》的创作背景及其梗概太宰治于明治四十二(1909)年出生于青森县北津轻郡金木村的大地主家,原名津岛修治。
三岁被送往叔母家抚养,八岁被接回津岛家。
父母爱的缺失和手足爱的疏远,使得太宰治在家中的存在感极低。
继昭和八(1933)年二月以“太宰治”作为笔名发表《列车》后,次月在《海豹》上发表短篇小说《鱼服记》。
鸟居邦朗在评价太宰治前期作品《鱼服记》时这样说道:内心隐藏着激烈的苦恼,并将其充分浓缩升华著成的一部作品[1]。
斯瓦从小在山里长大,山里的茶店、炭屋、瀑布和父亲构成了斯瓦的整个世界。
斯瓦天性纯真烂漫,父女俩相依为命,在山里平淡度日,日复一日,此时的父亲是斯瓦的“信仰”和“依靠”。
后来斯瓦目睹“城里学生”坠崖身亡后开始思考“人为什么活着”的问题,在询问父亲“你为什么活着”[2](66)无果后,第一次和父亲产生了冲突。
当目睹了斯瓦从“鬼子(调皮粗犷的孩子)”蜕变为“おんな(女人)”后,大醉酩酊的父亲在某个暴风雪交加的夜晚侵犯了她,不堪忍受的斯瓦两次选择自尽,这是斯瓦和父亲的第二次冲突。
二.斯瓦的三次“变身”(一)第一次“变身”——从“鬼子”到“おんな”斯瓦和父亲在山中经营一家茶店,父女俩相依为命,过着与世隔绝的生活,斯瓦“是正宗的山鬼子”(64)、天真无邪,对父亲很“顺从”、“乖巧”。
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魚服記太宰治一本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。
せいぜい三四百米(メートル)ほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。
むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経(よしつね)が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷(えぞ)の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。
そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。
突きあたった跡がいまでも残っている。
山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。
約一畝歩(せぶ)ぐらいの赤土の崖(がけ)がそれなのであった。
小山は馬禿山(まはげやま)と呼ばれている。
ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。
馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそう此の地方で名高いのである。
麓(ふもと)の村は戸数もわずか二三十でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。
夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこしにぎわうのであった。
滝の下には、ささやかな茶店さえ立つのである。
ことしの夏の終りごろ、此の滝で死んだ人がある。
故意に飛び込んだのではなくて、まったくの過失からであった。
植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。
このあたりには珍らしい羊歯(しだ)類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。
滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛(か)みつつ流れ出ていた。
絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。
羊歯類は此の絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶるとそよいでいるのであった。
学生はこの絶壁によじのぼった。
ひるすぎのことであったが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残っていた。
学生が、絶壁のなかばに到達したとき、足だまりにしていた頭ほどの石ころがもろくも崩れた。
崖から剥(は)ぎ取られたようにすっと落ちた。
途中で絶壁の老樹の枝にひっかかった。
枝が折れた。
すさまじい音をたてて淵(ふち)へたたきこまれた。
滝の附近に居合せた四五人がそれを目撃した。
しかし、淵のそばの茶店にいる十五になる女の子が一番はっきりとそれを見た。
いちど、滝壺ふかく沈められて、それから、すらっと上半身が水面から躍りあがった。
眼をつぶって口を小さくあけていた。
青色のシャツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかっていた。
それきりまたぐっと水底へ引きずりこまれたのである。
二春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿山から白い煙の幾筋も昇っているのが、ずいぶん遠くからでも眺められる。
この時分の山の木には精気が多くて炭をこさえるのに適しているから、炭を焼く人達も忙しいのである。
馬禿山には炭焼小屋が十いくつある。
滝の傍にもひとつあった。
此の小屋は他の小屋と余程はなれて建てられていた。
小屋の人がちがう土地のものであったからである。
茶店の女の子はその小屋の娘であって、スワという名前である。
父親とふたりで年中そこへ寝起しているのであった。
スワが十三の時、父親は滝壺のわきに丸太とよしずで小さい茶店をこしらえた。
ラムネと塩せんべいと水無飴(みずなしあめ)とそのほか二三種の駄菓子をそこへ並べた。
夏近くなって山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え初めるじぶんになると、父親は毎朝その品物を手籠(てかご)へ入れて茶店迄(まで)はこんだ。
スワは父親のあとからはだしでぱたぱたついて行った。
父親はすぐ炭小屋へ帰ってゆくが、スワは一人いのこって店番するのであった。
遊山の人影がちらとでも見えると、やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。
父親がそう言えと申しつけたからである。
しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に消されて、たいていは、客を振りかえさすことさえ出来なかった。
一日五十銭と売りあげることがなかったのである。
黄昏時(たそがれどき)になると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。
「なんぼ売れた」「なんも」「そだべ、そだべ」父親はなんでもなさそうに呟(つぶや)きながら滝を見上げるのだ。
それから二人して店の品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。
そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。
スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。
山に生れた鬼子であるから、岩根を踏みはずしたり滝壺へ吸いこまれたりする気づかいがないのであった。
天気が良いとスワは裸身になって滝壺のすぐ近くまで泳いで行った。
泳ぎながらも客らしい人を見つけると、あかちゃけた短い髪を元気よくかきあげてから、やすんで行きせえ、と叫んだ。
雨の日には、茶店の隅でむしろをかぶって昼寝をした。
茶店の上には樫(かし)の大木がしげった枝をさしのべていていい雨よけになった。
つまりそれまでのスワは、どうどうと落ちる滝を眺めては、こんなに沢山水が落ちてはいつかきっとなくなって了(しま)うにちがいない、と期待したり、滝の形はどうしてこういつも同じなのだろう、といぶかしがったりしていたものであった。
それがこのごろになって、すこし思案ぶかくなったのである。
滝の形はけっして同じでないということを見つけた。
しぶきのはねる模様でも、滝の幅でも、眼まぐるしく変っているのがわかった。
果ては、滝は水でない、雲なのだ、ということも知った。
滝口から落ちると白くもくもくふくれ上る案配からでもそれと察しられた。
だいいち水がこんなにまでしろくなる訳はない、と思ったのである。
スワはその日もぼんやり滝壺のかたわらに佇(たたず)んでいた。
曇った日で秋風が可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。
むかしのことを思い出していたのである。
いつか父親がスワを抱いて炭窯(すみがま)の番をしながら語ってくれたが、それは、三郎と八郎というきこりの兄弟があって、弟の八郎が或る日、谷川でやまべというさかなを取って家へ持って来たが、兄の三郎がまだ山からかえらぬうちに、其のさかなをまず一匹焼いてたべた。
食ってみるとおいしかった。
二匹三匹とたべてもやめられないで、とうとうみんな食ってしまった。
そうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなった。
井戸の水をすっかりのんで了って、村はずれの川端へ走って行って、又水をのんだ。
のんでるうちに、体中へぶつぶつと鱗(うろこ)が吹き出た。
三郎があとからかけつけた時には、八郎はおそろしい大蛇(だいじゃ)になって川を泳いでいた。
八郎やあ、と呼ぶと、川の中から大蛇が涙をこぼして、三郎やあ、とこたえた。
兄は堤の上から弟は川の中から、八郎やあ、三郎やあ、と泣き泣き呼び合ったけれど、どうする事も出来なかったのである。
スワがこの物語を聞いた時には、あわれであわれで父親の炭の粉だらけの指を小さな口におしこんで泣いた。
スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱちさせた。
滝がささやくのである。
八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。
父親が絶壁の紅い蔦の葉を掻(か)きわけながら出て来た。
「スワ、なんぼ売れた」スワは答えなかった。
しぶきにぬれてきらきら光っている鼻先を強くこすった。
父親はだまって店を片づけた。
炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。
「もう店しまうべえ」父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。
ラムネの瓶がからから鳴った。
「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ」日が暮れかけると山は風の音ばかりだった。
楢(なら)や樅(もみ)の枯葉が折々みぞれのように二人のからだへ降りかかった。
「お父(ど)」スワは父親のうしろから声をかけた。
「おめえ、なにしに生きでるば」父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。
スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。
「判らねじゃ」スワは手にしていたすすきの葉を噛みさきながら言った。
「くたばった方あ、いいんだに」父親は平手をあげた。
ぶちのめそうと思ったのである。
しかし、もじもじと手をおろした。
スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになったからだな、と考えてそのときは堪忍してやったのであった。
「そだべな、そだべな」スワは、そういう父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、「阿呆、阿呆」と呶鳴(どな)った三ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである。
父親はこのころから四五日置きに炭を脊負って村へ売りに出た。
人をたのめばいいのだけれど、そうすると十五銭も二十銭も取られてたいしたついえであるから、スワひとりを残してふもとの村へおりて行くのであった。
スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈(きのこ)をさがしに出かけるのである。
父親のこさえる炭は一俵で五六銭も儲(もう)けがあればいい方だったし、とてもそれだけではくらせないから、父親はスワに蕈を取らせて村へ持って行くことにしていた。
なめこというぬらぬらした豆きのこは大変ねだんがよかった。
それは羊歯類の密生している腐木へかたまってはえているのだ。
スワはそんな苔を眺めるごとに、たった一人のともだちのことを追想した。
蕈のいっぱいつまった籠の上へ青い苔をふりまいて、小屋へ持って帰るのが好きであった。
父親は炭でも蕈でもそれがいい値で売れると、きまって酒くさいいきをしてかえった。
たまにはスワへも鏡のついた紙の財布やなにかを買って来て呉れた。
凩(こがらし)のために朝から山があれて小屋のかけむしろがにぶくゆすられていた日であった。
父親は早暁から村へ下りて行ったのである。
スワは一日じゅう小屋へこもっていた。
めずらしくきょうは髪をゆってみたのである。
ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。
それから焚火(たきび)をうんと燃やして父親の帰るのを待った。
木々のさわぐ音にまじってけだものの叫び声が幾度もきこえた。
日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食った。
くろいめしに焼いた味噌をかてて食った。
夜になると風がやんでしんしんと寒くなった。
こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである。
天狗(てんぐ)の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かのあずきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山人(やまふと)の笑い声がはっきり響いて来たりするのであった。
父親を待ちわびたスワは、わらぶとん着て炉ばたへ寝てしまった。
うとうと眠っていると、ときどきそっと入口のむしろを覗(のぞ)き見するものがあるのだ。
山人が覗いているのだ、と思って、じっと眠ったふりをしていた。