斜阳 太宰治
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アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
「右大臣実朝」/太宰治
太宰治の一生は、一人の気の弱い、孤独な人間が、自己の宿命と倫理とに真実であろうとした、悪戦苦闘の生涯と言えます。そして自己の弱さや、他人とは違っているのではないかという怖れを、決してごまかさずに持ち続け、かえってそれを深めようとしたものです。
ぼくたちは太宰の作品を読むとき、そこに極限状況に降り立った人間の真の姿が描かれていることに感動するのです。
「太宰治論」/奥野健男
太宰という人は、愛と死、信仰と虚無、道化と真実の葛藤を、真摯(しんし)にこつこつと刻み込んで行った天才と呼んでもよいくらいの、含羞(がんしゅう)の人であった。
「含羞の人?私の太宰治」/矢代静一
太宰治という作家は、「私」という存在を、語り物の呼吸で語ったのでした。しかも舞台で演じるように。
もう一歩踏み込んで言うならば、太宰は一人芝居の役者、それも作者を兼ねた名優だったのです。しかも、その一人芝居で扱われる主題は、イエス?キリストの受難劇でした。
「太宰治に聞く」/井上ひさし
風景にもすれ違う人にも目を奪われず、自分の姿を絶えず意識しながら歩く人だった。
「回想の太宰治」/津島美知子(太宰の妻)
革命と恋、この二つを、世間の大人たちは、愚かしく、いまわしいものとして、私達に教えたのだ。この二つのものこそ、最も悲しく、美しくおいしいものであるのに。人間は恋と革命のために生まれて来たのであるのに。
「斜陽日記」/太田静子
こいしい人の子を生み、育てることが、私の道徳革命の完成なのでございます。
あなたが私をお忘れになっても、また、あなたが、お酒でいのちをおなくしになっても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行けそうです。
「斜陽」/太宰治
1.「斜陽」の成立
大地主だった太宰の実家が、戦後の農地改革によって没落していったことと、当時彼と交渉のあった太田静子の日記(太宰の死後、「斜陽日記」として出版された)に触発され、没落貴族の母子が戦後を生きる姿を描いた「斜陽」は「人間失格」と並ぶ太宰治の晩年の代表作です。彼が心酔していたチェーホフの戯曲「桜の園」を日本の風土で再現しようという意図もあったのだろうと考えられます。
この小説の中心を成している主人公かず子の手記に描かれている彼女の母の死に至るまでのエピソードの多くは、太田静子が太宰に託した日記に負っています。また、”僕は貴族です。”と遺書を結んで死んでいったかず子の弟、直治は太宰の創作ですが、無頼派の作家上原とともに、彼自身を重ね合わせた人物像と考えられます。
太宰は死の前年の2月に「斜陽」を書き始め、7月から10月にかけて雑誌「新潮」に連載
されています。この年の3月に次女(作家:津島裕子)が生まれ、さらに11月には太田静子との間に娘(作家:太田治子)が生まれています。そして翌年の6月13日に、最後の愛人となった山崎富栄と、自宅近くを流れる玉川上水(当時は”人喰い川”と呼ばれていた)に入水し、19日に遺体が発見されました。奇しくも19日は太宰の39歳の誕生日でした。
2.あらすじ
かず子は結婚して生まれた子を亡くし、その後夫とも別れ、母と二人で暮していましたが、戦後、暮らしに窮して東京での暮しが困難となったため、家を売り払い伊豆の山荘で暮し始めます。行方不明となっていた弟の直治が復員しますが、彼は無頼の作家上原を慕い、家の金を持ち出し薬と酒に溺れ、自ら破滅へ向かって突き進んで行きます。
母の死後、かず子は憧れていた上原に会いに上京し、退廃した彼の姿に失望しますが、一夜の交渉で子どもを身ごもります。その明くる朝、直治は伊豆の山荘で自殺していました。
3.感想など
「斜陽」執筆当時、妻と愛人二人の間で切羽詰った状況下にあった太宰は、酒浸りの上、しばしば喀血し、健康面でも悪化していました。
これまでに4回の自殺未遂を繰り返していた”死にたがりや”の太宰も、自分の目前に迫った死を自覚していたことは間違いなく(日頃の不摂生も緩慢な自殺行為だったろう)、この作品を書かせた動機の一つとして、彼の死後残される二人の女性(妻と静子)への贖罪の意図があったのではないかと思います。
未婚の母となった静子に対しては、小説中に聖書の引用や言及を多用し、聖母子のイメージを与えることにより、古い道徳観念にとらわれている世間の冷たい視線に屈せず、強く生きていって欲しいとの願いが前面に表出されています。
かず子が上原に宛てた手紙の中での呼び名”M?C”が、マイ?チェホフ、マイ?チャイルド、マイ?コメデアンと転調していきますが、書かれなかったけれど太宰の念頭には、もう一つのM?Cとしてマイ?キリストがあったのだろうことは推察できます。
また、妻に対しては、犠牲を強いたことへの太宰の罪意識が、直治の上原の奥さんに対する至高の愛を設定させたのではないかと思います。しかしながら、小説の構成上、この設定は不自然な印象を受けました。
最後の貴婦人として描かれているかず子の母の人物像は、「斜陽日記」に沿ったものですが、太宰にとって美しく滅びゆくお母さまの姿は自身の理想像と一致し、彼の心を強く捉えたと思います。
終生、女性との関係の止まなかった太宰でしたが、津軽の大地主の六男に生まれた彼は、実母が病弱だったこともあり、乳母や叔母に育てられ、小さい頃は叔母を実母と思い込んでいたという生育環境からも、母性を希求してやまない性向が形作られていったのでしょう。
「斜陽」は、ずっと以前に読んだとき、彼の作品中で最も感銘を受けた小説でしたが、今回読み返してみて改めてその感を持ちました。
「斜陽」の後に書かれ、その中で自己をさらけ出し、ほとんど遺書の様相を呈している「人間失格」が太宰の最大の問題作であり、代表作であることは確かであると思いますが、太宰文学の特質である”下降指向”(「太宰治論」/奥野健男)の集大成として、滅びの物語の形式美を備えた「斜陽」の魅力に、僕は今も抗することができないでいます。