日本歌舞伎の魅力
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日本歌舞伎の魅力
【序論】
歌舞伎は、江戸時代に大成した舞台演劇であり、他の伝統芸能に比べると歴史はそれほど長い方ではないのだが、既存の芸能の土台はあるにしろ、それまでにない新しい要素を生み出したことで独自のジャンルを築いている。教科書などにも掲載されている定説としては、出雲阿国(いずものおくに)が「かぶき踊り(阿国かぶき)」を生み出したのが原点であるという。「日本舞踊-歌舞伎舞踊」や「日本舞踊-新舞踊・歌謡舞踊」の項も参照していただければ幸いである。阿国が土台とした芸能は、室町時代から近世にかけて一般庶民の間に流行した風流(ふりゅう)であったが、更に民間神楽・念仏踊りなどを融合して生み出した「かぶき踊り」は当時斬新で、京都で大変な人気を博したという。阿国は出雲大社に仕える巫女と自称していたが、河原者であったともいわれ、明確には判っていない。当初「ややこ踊」「かか踊」「念仏踊」などと呼ばれる、当時の流行歌に合わせた踊りを披露していたが、やがてそれらを一変させて「かぶき踊り」を踊り始め、歌舞伎の始祖となった。かぶき踊りは、当時最先端の「かぶき者」の格好、簡単に言えば大きな刀を持つなど男装の派手な服装をし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる「茶屋あそびの踊り」を考案して、阿国自ら踊ったものである。それまでの踊り主体の芸能に、演劇的要素を加えた点が歌舞伎の始祖と言われる由縁である。(歌舞伎(かぶき)を全く知らない人はいないであろう。歌舞伎特有の化粧である「隇取(くまどり)」をし、派手な衣装に身を包んだ役者の姿や浮世絵などが思い浮かぶのではないだろうか。歌舞伎のシンボルにもなっている、黒・柿・萌葱(もえぎ)3色の「定式幕(じょうしきまく)」などもよく知られているし、海外公演などの成果もあって今では国際的知名度も高い、日本の代表的な伝統芸能となっている。国の重要無形文化財の指定を受け、2009年9月、第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財として保護・継承するため、UNESCO(ユネスコ)が登録する予定の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されているもので、リストに掲載された芸能は、「無形文化遺産保護条約」の枠の中に編入される仕組みのものである。我觉得这段可以省略,程老师您觉得呢?)
【本論】
一、歌舞伎の成立と歴史
1603年に北野天満宮興行を行って以来、京都を中心に評判となった阿国の踊りを真似た芝居風の舞踊が、遊女らにより盛んに演じられるようになり、「女歌舞伎(遊女歌舞伎とも)」が誕生する。女歌舞伎は江戸時代、1615年~
1630年頃が最盛期の、遊女や女芸人による歌舞伎のことで、京都の四条河原や江戸の吉原には常設舞台が設置され、30人余りの男装の遊女が、艶やかで贅を凝らした多様な群舞(総踊り)を披露した。阿国の歌舞伎との違いは、当時最新の楽器であった三味線が用いられたことであるが、阿国はあえて三味線を使わなかったのではなく、高級品で手が出せなかったというのが通説である。風俗営業を伴っていたため公序良俗に反するという理由により禁令が出されて以来、公認の舞台から女性の姿が消え、女歌舞伎も次第に消滅したという。女歌舞伎に次いで人気となったのは「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」で、これは女歌舞伎誕生前から存在し、前髪のある成人前の尐年が女装して演じるものだったが、これも男色を売り物としており風紀を乱すとして禁令が出され、若衆のシンボルである前髪を剃り落とし野郎頭になることと、舞台演目は物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件として興行が許可された。これ以後、現代の歌舞伎の原型である「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」が成立し、売色的要素を廃し、本格的に歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(技芸・物真似)を売り物とする芸能としての本道を歩み出した。女人禁制の芸能となったがために「女形(おんながた・おやま)」という役割が確立し、舞踊(所作事)は女方の担当となり、登場人物の心理描写として、仕草や情念などの内面的な「振(ふり)」が盛り込まれるようになった。演技や筋書きが重視され、劇芸術の体裁を整えた元禄歌舞伎において所作事は「狂言の花」といわれ(この狂言は歌舞伎の演目を指す「歌舞伎狂言」のこと)、数多くの名手が現れ、歌舞伎劇の中核を形成する華麗な舞踊劇に成長していった。
この「元禄歌舞伎(げんろくかぶき)」とは、歌舞伎が飛躍的な発展を遂げた隆盛期の江戸・元禄年間(1688~1704年)の歌舞伎のことで、歌舞伎役者として著名な2者、江戸の初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)によって「荒事」が、上方(京阪神)の初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始された。
「荒事(あらごと)」は、歴史的主題を中心とした荒唐無稽の活劇作品で演じられる、力強く大らかな立廻り(演技)のことで、主人公は隇取(くまどり)という化粧や誇張された衣裳を着け、強いヒーロー役で、見得や六方などの独特の演技を持つ。
「和事(わごと)」は、現実的主題、特に恋愛などを主題とした作品で演じられる、柔らかく優美な仕草や台詞回しのことで、高貴な人物が何らの事情で身をやつしているという「やつし芸」が特徴的で、傾城(遊女)と恋仲になり、勘当され苦労する物語が多い。主役の男性は若くてハンサムで上品な、やさ男が典型であり、荒事とは対照的な、写実的な芸風である。
また女方の名優として有名な、初代・芳沢あやめ(よしざわあやめ)が誕生し、女方の芸を確立させた。それまで俳優が歌舞伎狂言作者を兼ねていたが、この時代に近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)を代表とする独立専業職としての狂言作者が登場し、数多くの名作が誕生した。また江戸の荒事、上方の和事という芸風はこの後明治期まで続くことになるのだが、近松門左衛門が大坂・竹本座の座付作者として人形浄瑠璃界に戻ってから、享保~宝暦年間(1716~1764年)は上方を中心に人形浄瑠璃の全盛期に入り、逆に歌舞伎は低迷期に入った。当時、芸能においてその筋書きを担当する作者は、社会的地位と知名度を得始めたためであり、人気作者の作品というジャンルが出来上がりつつ