自考日本社会文化2011年试题及答案

  1. 1、下载文档前请自行甄别文档内容的完整性,平台不提供额外的编辑、内容补充、找答案等附加服务。
  2. 2、"仅部分预览"的文档,不可在线预览部分如存在完整性等问题,可反馈申请退款(可完整预览的文档不适用该条件!)。
  3. 3、如文档侵犯您的权益,请联系客服反馈,我们会尽快为您处理(人工客服工作时间:9:00-18:30)。

以下答案都是自己收集整理的,不一定完全正确,而且一个题有很多种答法,所有都放上去了(空一行后的为另一种答法),供参考。

2011年10月日本社会文化试题

1.土偶 P25

土偶は大きさ20cm内外の土人形で女性像が多く、縄文中期から後期につくられ、東日本に分布されている。多くは壊され、完全形での出土は尐ない。顔面や髪形の特徴からハート形土偶、山形土偶、遮光方土偶と呼ばれるものもある。用法、製作目的などに諸説あるが、主に生殖・収穫を祈る呪術的、宗教的意味をもたせて作られたと考えられている

が、ほかに玩具として用いたという玩具説、悪魔と扱われた悪魔説あくませつ、祭礼儀式さいれいぎしき

の後に他の物と一緒に埋葬されたという埋葬説等がある。

2.古事記 P97

1)太安万侶が、稗田阿礼が暗記していた神代から推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承

をまとめたもの。漢字の音訓を用いて、口頭の日本語を文章表現した。

2)712年に元明天皇に献上された。

ついでに「日本書記」を紹介:

1)720年に完成した、神代から持統天皇に至る天皇中心の国家成立史。

2)舎人親王・太安万侶らが中心になって編さんした。

3.古義学派(古学派) P171

答え一:

江戸時代、伊藤仁斎によって唱えられた儒学の一派。朱子学や陽明学の注釈に飽き足らず、直接「論語」や「孟子」の原典に当たって古義を明らかにし、仁を理想とする実践道義を説いた。

答え二:

17世紀の後半、伊藤仁斎によって開かれた学派である。「論語」、「孟子もうし

」等の儒学の原典

批判を通じて直接聖人せいじん

の道を正しく理解しょうとした。

答え三:

江戸時代、伊藤仁斎が首唱した古学の一派。朱子らの説を排し、論語・孟子を中心に聖賢の古義解明の基礎を定め、経書の批判的研究と道徳の実践とを重んじた。仁斎の子の東涯・蘭嵎をはじめ、多くの門人によって継承された。

4.南蛮文化 P157

16~17世紀ごろ,キリスト教の伝来とともにヨーロッパからつたえられた文化。 〔ヨーロッパ伝来の文化〕

室町時代の末から江戸時代の初めにかけてさかえた文化で,キリシタン文化ともよばれる。カトリックのイエズス会によるキリスト教の色彩が強く、それまでの日本の文化とは

まったく異質のため、宗教・学問・技術・美術・風俗などあらゆるものが関心をもたれ、受け入れられた。しかし、キリスト教の禁教以後は、あとを絶たれ、異国趣味としてのこるにすぎない。

〔文化の内容〕

多くの宣教師が来日して宗教文学や宗教画をつたえ、各地に教会や宣教師養成の学校、養老院、病院などをたてた。天文学・医学・地理学などがつたわり、地球儀・世界地図・太陽暦・望遠鏡・時計、航海術や造船技術ももたらされた。活字印刷がつたわって、ローマ字で『伊曽保(イソップ)物語』や『平家物語』が印刷され、キリシタン版とよばれた。◇当時つたえられたポルトガル語やスペイン語の中には日本語化したものも多い。

5.日本的稻栽培 P32,33

日本の水稲農耕のはじまりは、縄文晩期後半から終末期に朝鮮半島南部西岸地域から伝来したと考えられる。北部九州の弥生時代前期後半以降、水稲農耕は西日本一帯に急速に広がった。水稲耕作は、当時の列島において、世界的・画期的な生産技術でした。狩猟や遊牧に比べて、同じ面積の土地で数倍の人口が養えるほどすごい生産技術だからである。この技術は、弥生人が特に勧めなくても先住民の間に広まった。そして、金属器を使い、稲作が関東地方にも伝播していった。弥生人の数が北方系縄文人よりはるかに尐なくても稲作が短期間に列島の中で広まったのは、稲作という生産技術それ自体に大きな力があったからのである。水稲耕作と金属器の使用は弥生文化の特徴である。

6.骑马民族的征服说 P57

東洋考古学者の江上波夫が1948(昭和23年)以来唱えている日本国家形成に関する学説。日本国家の起源が東北アジアの騎馬民族の日本征服にあるとしている。3世紀末から4世紀初に辰王=崇神が朝鮮半島から渡来し、九州を征服。4世紀末から5世紀初にその子孫東遷し、畿内勢力を征服して、大和王権を樹立したとする。批判も多い。

7.奈良佛教的特点 P86

奈良時代の仏教は、南都とよばれるようになったもとの平城京の仏教の意味で、南都の仏教、あるいは南都六宗とようばれる。法相宗·律宗·華厳宗なとが、これらは、後年の仏教の宗派とは異なり、むしろ学派というの方かい。

奈良時代には東大寺をはじめとして、各国に国分寺が建立され、南都六宗として知られる諸宗が勢力を誇った。南都六宗とは三論宗、法相宗、成実宗、倶舎宗、華厳宗、律宗である。

日本文化は常に中国大陸および朝鮮半島を主とする外来文化の影響を受け、仏教が文化全般に多大な影響を与えていた。仏教文化は日本文化に重要な構成部分の一つであり、日本の文学・音楽・美術・日常生活などにたいして、重要な影響を持っていた。奈良時代に国家が仏教を厚く保護するため、寺院の造営、仏像の造立、経典の書写などは国家の事業として実施され、仏教文化、特に仏教の美術が仏像、絵画、書道、寺院建築など、造形芸術の各方面で繁栄し始めた。

鎮護国家は、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策、または、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。

8.近世的日本洋学 P180(补充一下:幕末の開国以後は世界各国と外交関係を築き、オランダ一国に留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になった)

西洋の学問。江戸末期以降,蘭学を含めた西洋の学問全般をさしていった。

江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術を研究しようとした学問。日本人が漢文書から西方の天文、暦学の知識を受け入れ、オランダ書籍から西方の植物学、動物学などを接触した、それ以後、西方の外科学、軍科学、物理学、化学、農学などを絶え間なく日本に転入する。これはすべて蘭学という。

近世日本の蘭学はオランダ(荷蘭)書物の翻訳から始まるが、その過程でオランダ語を勉

強するためにオランダ語の教科書、文法書や辞書なども多く編纂へんさん

された。オランダ語書物の翻訳、オランダ語辞書の編集と文法の研究などを通じて、日本語に対する語学的関心も次第に高まり、近代における日本語の研究の基礎を作ったことになる。

蘭学はオランダ語による西洋文物の研究の総称である。西洋の学問や知識は、鎖国の間幕府が貿易を許したオランダから伝えられたので蘭学として発達した。特に八代将軍徳川吉家とくがわよしいえ

の蘭書輸入の解禁により、医学、天文学、歴学などの分野から発展し、さらに

地理、博物はくぶつ

、科学など、自然科学全般にわたって、オランダ語による紹介が行われ、合

理的な思考形成の基礎きそ

となった。

9.室町时代的对明贸易 P147

❀勘合貿易は日本に大きな経済利益を齎した。貿易船の正副史を担当するのは僧侶そうりょ

であった。禅宗 の僧侶は漢文ができ、中国の事情が分かるからである。また貿易船とともに

来た従僧じゅうそうもある。日本の有名な画家雪舟ゆきふね

もその一人である。彼の絵に中国の影響が大きいと言う。貿易舟によってたくさんの中国書籍やお経や名僧の文書等も日本に持って帰

った。帰国した僧侶は朱子学しゅしがくの提唱ていしょう

もした。

❀中国側の勘合貿易による経済利益は日本より尐ないが、漆うるし、屏風びょうぶ、扇子等の工芸品も貿易船とともに中国に入った。明の時代の名僧も正使として日本へ文化交流に貢献した。

室町時代、幕府と中国の明朝との間で、勘合符を用いて行なわれた貿易。

目的:1,明の文化・技術の導入

2,明との貿易による収入

3,東アジア世界での公認称号「日本国王」の獲得

相关文档
最新文档