史上日本天皇称号の変迁
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中世
平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、 平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、 までは )、きんり 禁裏)、だいり(内裏)、 きんり( )、だいり )、きんちゅう 帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう 禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」 。「みかど (禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは 本来御所の御門のことであり 禁裏・禁中・ のことであり、 本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏 御所そのものを そのものを指 言葉である これらは天 である。 は御所そのものを指す言葉である。これらは天 直接名指すのをはばかった婉曲表現である すのをはばかった婉曲表現である。 皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。 陛下(階段の にいる取 ぎの方まで申 陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上 げます) 同様である である。 げます)も同様である。
称号の 称号の歴史
近年の研究では、「天皇」 近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武 では、「天皇 成立したのは天武 したのは 天皇の時代( 世紀後半)以降との との説 有力であ 天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力であ 伝統的に てんおう」 じられていた。 る。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治 連声により てんのう」 変化したとされる により「 したとされる。 期、連声により「てんのう」に変化したとされる。 字音仮名遣では てんわう」 表記する では「 する。 字音仮名遣では「てんわう」と表記する。 日本国内での天皇の称号の変遷について、 日本国内での天皇の称号の変遷について、以下 での天皇 について 説明する する。 に説明する。
古代
なお、奈良時代、天平宝字6 なお、奈良時代、天平宝字6年(762年) - 8年 762年 764年 神武天皇から持統天皇までの41代 から持統天皇までの41 (764年)に神武天皇から持統天皇までの41代、 元明天皇・元正天皇の漢風諡号である である天皇 及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号である天皇 淡海三船によって一括撰進された によって一括撰進された事 号が淡海三船によって一括撰進された事が『続 日本紀』 記述されているが これは諡号 されているが、 諡号( 日本紀』に記述されているが、これは諡号(一人 一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接 称号とは 一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接 関係ない ない。 関係ない。
中世
今上天皇は当今の 今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などと とうぎんのみかど) ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され した太上天皇 され、 も呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、 仙洞や などともいった。出家すると すると太上法皇 仙洞や院などともいった。出家すると太上法皇 (略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天 略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が 譲位して以後は事実上、明治以降は して以後 皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上 存在していない これは現旧 皇室典範が していない。 現旧の 存在していない。これは現旧の皇室典範が退位 する規定 規定を けず、天皇の崩御(死去) に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によ って皇嗣 即位すると めたためである。 皇嗣が すると定 って皇嗣が即位すると定めたためである。
古代
律令制での称号 律令制での称号 での 天皇という呼称は律令(「儀制令」) 規定があ という呼称 (「儀制令」)に 天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があ 養老令天子条において 祭祀においては において、 においては「பைடு நூலகம்り、養老令天子条において、祭祀においては「天 」、詔書においては「天皇」、華夷においては 詔書においては 」、華夷 子」、詔書においては「天皇」、華夷においては 対外的には)「皇帝」、上表 臣下が天皇に には)「皇帝」、上表( (対外的には)「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書 ること)においては「陛下」、譲位した 」、譲位した後 を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は 太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には )」、外出時 「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には 乗輿」、行幸時には 車駕」という7つの呼 」、行幸時には「 「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方 められているが、 が定められているが、
史上日本天皇称号の変遷 史上日本天皇称号の
邹晶 2007090517
「天皇」の由来 天皇」
「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。 天皇」という称号の由来には、複数の がある。 称号 には ①古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れ 古代中国で北極星を意味し道教にも取 にも られた「天皇大帝」(てんおうだいてい) 」(てんおうだいてい られた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは 扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ) 」(ふそうたいていとうこうふ 「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)か ったという説 ら採ったという説。 ②唐の高宗は皇帝ではなく道教由来の「天皇」と 高宗は皇帝ではなく道教由来の 天皇」 ではなく道教由来 したことがあり、これが日本 移入されたとい 日本に 称したことがあり、これが日本に移入されたとい う説。
現在
なお、一般的に各種報道等において、天皇の なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬 において 皇室典範に規定されている 陛下」 されている「 称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いら 、「天皇陛下 天皇陛下」 ばれる。 れ、「天皇陛下」と呼ばれる。 宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、 宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、 などの公文書では 天皇との混乱を ぐため「今上陛下」 との混乱 他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う 呼称も いる。 呼称も用いる。 会話における二人称では、前後関係から天皇で から天皇 会話における二人称では、前後関係から天皇で における二人称では あるか皇后であるかが明らかな場合 皇后であるかが 場合に あるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下 ぶことが多 と呼ぶことが多い。
明治以降
大日本帝国 憲法3頁目。 憲法3頁目。 明治天皇の 明治天皇の 睦仁の 諱、睦仁の 署名(御名) 署名(御名) 、「天 と共に、「天 皇御璽」 皇御璽」とい 御璽が う御璽が捺 印されている (御名御璽)。 御名御璽)。
明治以降
大日本帝国憲法(明治憲法)において、 大日本帝国憲法(明治憲法)において、初めて 天皇の呼称は 天皇」 統一された ただし、 された。 天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外 交文書などではその などではその後 日本国皇帝」 交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用 いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の けの公文書類でも同様 いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表 何点か確認されている 用例については されている( については別 記が何点か確認されている(用例については別 日本国皇帝」 参照)。 項「日本国皇帝」を参照)。
古代
これらはあくまで書記(表記) これらはあくまで書記(表記)に用いられるもの 書記 どう書いてあっても読みは風俗 当時の習慣) 風俗( で、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣) って「すめみまのみこと」 すめらみこと」 に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」 等と称するとある(特に祭祀における「天子」は するとある( 祭祀における「天子」 における すめみまのみこと」 んだ)。 「すめみまのみこと」と読んだ)。 死没は崩御といい、在位中の天皇は 死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇 といい きんじょうてんのう) ばれ、崩御の (きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号 められるまでの間 大行天皇( が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてん のう) ばれる。配偶者は 皇后」。一人称は 」。一人称 のう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は チン)」。臣下からは 至尊」とも称された。 )」。臣下からは「 「朕(チン)」。臣下からは「至尊」とも称された。
中世
また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言 また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も われた。天朝(てんちょう) 天皇王朝を 使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す 言葉だが だが、 じて朝廷 または日本国そのもの、 朝廷、 日本国そのもの 言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、 もしくはまれに天皇をいう場合にも使 天皇をいう場合にも もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめら みこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、 みこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これ らは雅語として残っていた。また「皇后」 雅語として 中宮」 らは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」 ともいうようになった。 ともいうようになった。
③5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天 世紀頃には対外的に 可畏天王」、「貴國天 には対外的 」、「 あるいは単 天王」 していたものが推 王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推 古朝または天武朝に 天皇」とされた等 または天武朝 古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。 *はじめて採用したのは推古天皇という説(戦前 はじめて採用したのは推古天皇という説 採用したのは推古天皇という 津田左右吉の 根強い しかし、 の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後 天武天皇の時代、すなわち前述 前述の 半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高 宗皇帝の用例の直後とするのが 平成10 とするのが、 10年 宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年 1998年 飛鳥池遺跡での天皇の文字を での天皇 (1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記し 木簡発見以後の有力説である である。 た木簡発見以後の有力説である。
おうみのみふね・奈良時代の漢学者。大学頭(だいがくのかみ) おうみのみふね・奈良時代の漢学者。大学頭(だいがくのかみ)・文章 奈良時代 博士(もんじょうはかせ) 刑部大輔(ぎょうぶのたいふ) 歴任。 博士(もんじょうはかせ)・刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)を歴任。鑑真 がんじん) 来朝を した「唐大和上東征伝( (がんじん)の来朝を記した「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせ いでん) 著者とされる とされる。 いでん)」の著者とされる。
明治以降
そのため、完全に 天皇」 統一されていたので そのため、完全に「天皇」で統一されていたので はないようである(庶民からはまだ天子様と からはまだ天子様 はないようである(庶民からはまだ天子様と呼ば れる事もあった)。 れる事もあった)。 陸海軍の統帥権を することから「大元帥陛下」 陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」 とも言われた。口語ではお ではお上 主上(おかみ、 とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、し ゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今( )、聖上 )、当今 ゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とう ぎん)、 )、畏 かしこきあたり)、上御一人( )、上御一人 ぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(か みごいちにん)、などの婉曲表現 )、などの婉曲表現も いられた。 みごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。
古代
天皇という称号が じる以前、倭国(わこく)(「日 天皇という称号が生じる以前、倭国(わこく)(「日 という称号 以前 まる以前 国名)では天皇 以前の 天皇に たる地位 本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位 国内では大王(治天下大王)あるいは天王 では大王 天王と を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と 対外的には 倭王」「倭国王」「大倭王」 には「 」「倭国王」「大倭王 呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等 された。 と称された。 古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良 くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ( )、すめらぎ )、すめろぎ 須賣漏岐)、すめらみこと( すめろぎ( )、すめらみこと 伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明 樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命) )、すめみまのみこと 樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと した。なお、「すめらみこと」 名称は古代シュ 、「すめらみこと 称した。なお、「すめらみこと」の名称は古代シュ メールからのものだという説もある。 メールからのものだという説もある。