遣唐使の苦难と廃止

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遣唐使の苦難と廃止

遣唐使は、唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報入手と、先進的な唐文化の摂取が目的でしたが、日唐関係が安定した八世紀以降は後者の比重が大きくなりました。

唐の諸制度や文化に通じた留学生・留学僧は、建設間もない日本の律令国家を整備する上で不可欠であり、その意味で遣唐使は律令国家の繁栄を支えていたのです。

ま、今の東京大学のような官僚養成大学が無かったので、外国に情報収集もかねて留学させたということです。しかし当時は航海技術が未熟であったため、渡航はまさに命がけでした。

遣唐使の苦難

(739年)11月3日、平群朝臣広成が天皇に謁見した。

広成は733年に遣唐大使多治比真人広成の一行に加わって入唐した。翌年10月に任務を果たして帰国の途についた。帰国の四船は同時に蘇州から出発したが、たちまち暴風が発生して離ればなれになった。広成の乗っていた船と乗員115人はコンロン国に漂着したが、賊に襲われて捕まえられてしまった。船員の中には殺された者や逃亡した者もおり、90人余りは熱病にかかって死亡した。広成ら四人だけが死を免れ、コンロン王に会うことができた。そこで食料を与えられたが、悪所に安置された。735年に唐の欽州に住んでいるコンロン人がやってきて、彼の便宜を得て船に載せられてひそかに出国し、唐に帰った。留学生の阿倍仲麻呂のつてで、唐の朝廷に渤海経由で帰国したい旨を申請したところ、皇帝はこれを許可し、船と食料を与えて出発させた。738年3月に登州から船出し、5月に渤海の領域に到った。すると、ちょうど渤海王の大欽茂も日本に使者を派遣しようとしているところだったので、渤海の船とともに出発した。航海中に渤海の一船が浪によって転覆し、大使ら40人が溺死した。広成は残った人々を指揮して出羽国に到着した。

解説

当時の船は船底が平底で、まるで箱が海に浮いているようなものでした。ですから浪が受けるとあっけなく沈んでしまいました。八世紀の遣唐使のうち全て

の船が往復できたのは、なんとたった一回だけというから驚きです。遣唐使船が四隻なのは、どれか一つでも中国に着くためだったのです。遣唐大使に任命されても嫌がって拒否する人もいたそうです。まさに命がけの留学だったんですね。ちなみに出典は「続日本紀」です。

遣唐使の廃止

諸公卿に遣唐使の存廃を論議させることを願う書状

右の事柄について申し上げます。在唐中の僧中灌が昨年の三月に商人の王訥らに託して送ってきた記録を見ましたところ、唐の国力衰退の様子が詳しく書かれていました。・・・・・過去の記録を調べてみますと、度々の遣唐使の中には、渡航して任務を果たせなかった者や、賊に襲われて身を亡ぼす者はおりましたが、唐に到着してから旅行の困難や寒さにみまわれた者はおりませんでした。中灌の報告の通りとするならば、これから遣唐使にどのような危険が生じるかしれません。どうか中灌の記録をひろく公卿・博士に下布して、遣唐使の可否を事細かに審議するよう願います。国家の大事のために申しているのであって、(遣唐使に任命された)自分の身の安全のために申しているのではありません。私の誠心を披露して処置を求めます。以上謹んで申し上げます。

解説

ここでは渡航の危険と唐の衰退を挙げていますが、おそらくそれだけではなかったと思います。莫大な費用がかかる遣唐使を派遣するには、財政が窮乏していたこと、民間での交流が盛んになり、あえて政府がする必要もなくなってきたこと、などがありました。

ちょっと怪しいのはこの文書は、自分が遣唐大使に任命されてから提出したもので、なんでもっと早く提出しないんだ、ということです。やっぱり自分の身が可愛かったから・・・かも知れませんね(^^;でも遣唐使にはもう意味が無くなっていたので、いずれは廃止されたでしょう。出典は「菅家文草」。

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