国风文化(书道)

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書 道 は な ん で す か ?
書道の三蹟
書道では、唐様に対して優美な線をあ らわした和様が発達した。10世紀頃に 活躍 した小野道風(おののとうふう) ・藤原佐理(ふじわらのさり) ・藤 原行成(ふじわらのこうぜい)の3人 は傑出した書家として古くから尊崇さ れ、江戸時代には三蹟(さんせき)と いう呼び名が定着するようになりまし た。
小 野 道 風
羲之の再生
平安時代前期、10世紀に活動した能書家であり、それまで の中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と 評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせ、「三蹟」 と称されている。 道風は中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で 用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするの がその職務であった。能書としての道風の名声は生存当時か ら高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともて はやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で 美しく目にまばゆく見える」と言っている。没後、その評価 はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至ってい る。 一方で気性が激しく、「空海筆の額を批判した」など という不評も同時に伝わっており、晩年はたいへんБайду номын сангаас康を壊 し、随分苦しんだという
主な作品
屏 風 土 代
秋萩帖第1紙 三体白氏詩巻 (一巻)
道風神社(とうふうじんじゃ)
北区杉坂道風町
小野道風を祭神とする神社で,道風武大明神(とうふうたけの だいみょうじん)ともいい,社伝では延喜20(920)年の創建とされ ています。この地 は山城国愛宕郡(おたぎぐん)小野郷内にあたり, 古代では近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県滋賀郡志賀町)などと ともに,豪族小野氏の勢力範囲となってい ました。 この地と道風の直接的なつながりは不明ですが,寺宝には道風 の所用とされる袍(ほう,平安貴族 の衣服)・冠や硯・筆,道風画像一 幅などが伝えられています。また 境内には,禁中御修法用に献上さ れた和香水(わこうすい)と呼ばれる 名水があります。
三蹟と和様の創成
平安時代中期,9世紀頃まで中国を模範とした時代は,10世紀 頃になると次第に変化を見せるようになった。たとえば絵画での 唐絵(からえ)から大和絵(やまと え)への移り変わりや,文学に見 られる物語文学の起こりなどがそれで,いわゆる国風文化(こくふ うぶんか)の成立がそれにあたります。 書道でも,この頃には和様(わよう)と呼ばれる日本風の書法が 創成され,新たな規範として広く流行することになりました。こ の和様を創始し定着さ せたのが,小野道風・藤原佐理・藤原行成 の三蹟です。彼らの書は新しい日本独自の規範として長らく尊重 され,鎌倉時代の書道指南書『入木抄』(じゅぼくそ ゆ)にも,野 跡(やせき)・佐跡(させき)・権跡(ごんせき)(小野道風・藤原佐理・ 権大納言藤原行成の筆跡),この三賢を,末代の今に至るまで,こ の道の規模(模範)として好む事,面々彼の遺風を摸すなり。
主な作品
後 嵯 白 峨 本 楽 院 能 天 本 寺 詩 白 切 巻 氏 詩 巻
ご静聴どうもありがとうございました
国風文化の
100201 劉月穎
書 作 さベに一形文 も れトお種芸字道
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主な作品
詩 懐 紙
書状(離洛帖) 書状(恩命帖)
藤 原 行 成 「入木相承の大祖」



藤原行成(972~1027)は摂政太政大臣伊尹(これまさ)の孫で,実務に堪能な公卿 として藤原道長(966~1027)の信頼も高く,権大納言まで昇進しました。この頃の 名臣を称したいわゆる「寛弘の四納言」の一人にあたる人物です。 行成は本人だけでなく子孫も代々書道を相承して,この家流は「能書の家」と なっていきました。このことはそれまでと大きく異なる点といえます。そ うして 生まれたのが後世に多くの書流の源となった世尊寺流(せそんじりゅう)であり,行 成はその始祖として「本朝(ほんちょう,日本)入木(じゅぼく,書 道)相承の大祖」 (『尊卑分脈』<そんぴぶんみゃく>)と尊重されるようになったのです。 行成は道風の書を尊重し,自分の日記『権記』(ごんき)にも,夢で道風に会って 書法を伝授されたと記しました。道風への尊崇や,彼の創始した和様 を継承しよ うとする意識が読み取れます。行成は穏やかで優美な筆致を持ち,まさに完成さ れた和様の姿を窺うことができます。性格も冷静で温厚だったらし く,そうした 人柄も書風に反映したのかもしれません。 行成の代表的な筆跡としては,菅原道真(すがわらのみちざね)らの文章を書写し たもので本能寺に伝来したために「本能寺切」(ほんのうじぎれ,国 宝)と呼ばれ る書や,唐代の詩人白居易(はくきょい,772~846)の詩集『白氏文集』(はくしも んじゅう)を書写した「白氏詩巻」(はくししかん,国 宝)などがあります。
藤 原 佐 理
異端の能筆家


藤原佐理(944~998)は摂政(せっしょう)太政大臣(だじょうだいじん)実頼 (さねより)の孫で,「日本第一の御手」(『大鏡』)といわれ, 達筆で名を 馳せました。円融・花山・一条天皇ら三代の大嘗会(だいじょうえ)で屏風 の色紙形(しきしかた)を書く筆者に選ばれ,永観2(984)年には内 裏の額 を書いて従三位(じゅさんみ)に昇進するなど,その筆跡がもてはやされま した。 しかし筆跡への高い評価とはうらはらに,宮仕えの貴族としての佐理 は,非常識でだらしない人物と見られていたようです。関白(かんぱく)藤 原道隆 (ふじわらのみちたか,953~995)の依頼で障子の色紙形を書いた ときには,日が高くなり人々が参集した後でようやく現れたため,見事 な能筆ぶりを見せ たにもかかわらず,場が興醒めとなり,恥をかきまし た。『大鏡』はこのことから佐理を「如泥人(じょでいにん,だらしのな い人物)」と評しています。 佐理の真跡では,大宰府へ赴く途中に書い た手紙「離洛帖」(りらくじょう,国宝)や漢詩文の懐紙「詩懐紙」(しか いし,国宝)などが有名です。そ の筆運びは緩急の変化に富み,奔放に一 筆で書き流したもので,道風や行成の丁寧な筆致とは違って独特の癖が あるといわれます。こうして見ると,佐理の非常 識な行動も,むしろ個 性的で型破りな異才ぶりを際だたせているように思えます。
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