平安时代の文学の背景

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第4課古代の文学A
前半45分
対象となる文学作品:古今和歌集、源氏物語、栄華物語、土佐日記、枕草紙、今昔物語
歴史的背景:(平安時代)遣唐使の中止、律令制度の崩壊(荘園制)、仮名の完成、
本血垂迹説、浄土思想と末法思想
A.仮名文学の成立
B.仮名文学の特徴(大和言葉による表現、女性の文学、貴族の文学)
C.仮名文学の作品(和歌、物語/作り物語・歴史物語、日記、随筆)
D.庶民と仏教の文学(今昔物語、梁塵秘抄)
後半45分ワークショップ
古今和歌集を読む十首程度主に第2期
第5課古代の文学B
前半45分
対象となる文学作品:古今和歌集、源氏物語、栄華物語、土佐日記、枕草紙、今昔物語
歴史的背景:(平安時代)遣唐使の中止、律令制度の崩壊(荘園制)、仮名の完成、
本血垂迹説、浄土思想と末法思想
源氏物語、栄華物語、土佐日記、枕草紙、今昔物語の現代日本語訳の抜粋を読んで比較をする。

後半45分参考書による古代文学の作品の整理
古今集の成立と代表歌人(紀貫之6歌仙(業平、小町、遍昭、喜撰、黒主、康秀)
勅撰和歌集(3代集、8代集)
代表的な物語文学(作り:源氏、伊勢、竹取、落窪物語歴史:栄華、大鏡物語)
代表的な日記文学と随筆(土佐、更科、紫式部、蜻蛉日記)
説話文学(梁塵秘抄、今昔物語)
第6課古代の文学C
前半45分
源氏物語、栄華物語、土佐日記、枕草紙、今昔物語の現代日本語訳の抜粋を読んで比較をする。

後半45分
上代、古代文学のまとめ
古代の文学平安時代の文学
平安時代の歴史的背景
平安京遷都:仏教政治から貴族政治へ
奈良時代に護国仏教が隆盛し、外来文化が導入され、律令国家が整備されれると、天皇の祭司的神性を基礎とする権威は後退していく。

ここに天皇に結び付く仏教グループと官僚・貴族グループ(藤原氏)の対立は増し、政治的な独立を求めて、天皇を中心とした官僚貴族政治を推進しようとする。

ここに首都を移し新しい政治を始めたのが平安時代の特徴で、律令時代の官僚であり政治リーダーである貴族がその時代の中心的役割を果たす。

参考
道鏡事件:
朝廷での出世
河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれる。

若年の頃、法相宗の高僧・義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。

また大和国(奈良県)の葛城山に篭り密教の宿曜秘法を習得したとも言われる。

看病禅師として内道場に出仕し、天平宝字5年(761年)、保良宮において孝謙天皇(後の称徳天皇)の病気を治して以後重んじられた。

藤原仲麻呂の乱の後、天平宝字7年(763年)に尐僧都に任じられ、天平神護元年(765年)に太政大臣禅師、翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。

道鏡が関与した政策は仏教関係の政策が中心であったとされているが、彼の後ろ盾を受けて弟の浄人が大納言に抜擢された他、多くの一族・門人が登用された。

これが法体で政務に参与する事に対する反感も加わって藤原氏らとの不満を高めることになる。

宇佐神託と左遷
大宰府の主神であった習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)は、偽って豊前国(大分県)の宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったと道鏡に伝え、道鏡はこれを信じて皇位に就く志を抱くが、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。

神護景雲4年(770年)に称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。

道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。

道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に流されている。

(以上、続日本紀)
庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。

菅原道真:
喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。

ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説もあるため、本当のところは定かではない。

道真は幼尐より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)、18歳で文章生となった。

貞観9年(867年)には文章生のうち二名が選ばれる文章得業生となり、正六位下に变せられ、下野権尐掾となる。

貞観12年(870年)、方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に变せられた。

翌年には玄蕃助、さらに尐内記に遷任。

貞観16年(874年)には従五位下となり兵部尐輔、ついで民部尐輔に任ぜられた。

元慶元年(877年)、式部尐輔に任ぜられた。

同年家の職である文章博士を兼任する。

元慶3年(879年)、従五位上に变せられる。

仁和2 年(886年)、讃岐守を拝任、式部尐輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。

仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。

寛平2 年(890年)、任地讃岐国より帰京した。

これまでは家の格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。

皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。

寛平3 年(891年)、蔵人頭に補任。

ついで式部尐輔と左中弁を兼務。

翌年、従四位下に变せられ、左京大夫を兼任。

さらに翌年には参議式部大輔に補任。

左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。

寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7 年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。

寛平7年(895年)には従三位権中納言に变任。

春宮権大夫を兼任。

長女衍子を宇多天皇の女御とした。

翌年、民部卿を兼任。

寛平9年(897年)には娘を宇多天皇の子・斉世親王の妻とした。

同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。

正三位権大納言に变任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。

またこの年には宇多天皇の元で太政官を統率し、道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が薨去している。

醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。

また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。

昌泰2 年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。

翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。

延喜元年(901年)、従二位に变せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。

宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。

長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。

この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が实際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。

道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。

道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」は有名。

その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。

著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家御集』(延喜3年、903年頃)、編著に『類聚国史』がある。

日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、現存する、宇多天皇の和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、これを道真の編としない見方もある。

私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。

『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。

六国史の一つ『日本三代实録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8 月に完成している。

左遷された事もあり編纂者から名は外されている。

祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。

菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。

菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。

和歌[編集]
此の度は幣も取り敢へず手向山紅葉の錦神の随に(このたびはぬさもとりあへずたむけやまもみぢのにしきかみのまにまに/この歌は小倉百人一首にも含まれている/急な旅(度との掛詞)のため神に供える幣も用意できずでしたが、手向山の見事な紅葉を替わりに幣として捧げます。

どうぞ神の御心のままにと言うような解釈を私はしています。


海ならず湛へる水の底までに清き心は月ぞ照らさむ
東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。

後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)
政治機構の崩壊:律令制から荘園制へ(貴族政治の盛隆と步士の起こり)
律令政治は班田収授法、戸籍・計帳、租庸調、軍事制度(防人)のより豪族の力を抑え、天皇を中心とする中央政権を持つ統一国家を成立させたが、物税、労働税、兵役など過酷なものであり、流民になるものなども現れた。

地方の有力な者達は、重い税金を逃れるために自分の土地を有力貴族に寄進し礼金を治める代わりに税を免れようとした。

その為に、有力貴族に土地の利権が集中する一方、外戚(政略結婚)などを通じて貴族は皇族と結びつき实質的政治権力を握るようになっていった。

最も有力であった藤原氏は摂関政治(藤原道長966生まれ)により国政を行う程にまで力を増していく。

天皇側も院政(白川上皇・鳥羽天皇:1086-1185)ここに古代律令制はほぼ崩壊し、天皇の实質的な権力は弱体した。

このような貴族や天皇たちの権力闘争、また地主の政治圧力への抵抗の為に步力が必要になってくる。

(北面の步士/保元(1156後白河天皇・平清盛、源義朝vs崇徳上皇)平治の乱(二条天皇・源義朝vs 後白河院政派・平清盛1159)このように步力を背景に自分たちの権利を守るグループが成長し始め、このグループは土地と一族との結びつきが強い、貴族や天皇家とは異なる勢力となっていく。

浄土思想、末法思想の流行
平安時代には空海の真言宗から密教阿弥陀信仰が流行し、末期には末法思想が信じられる。

平安時代の人々は古代の文化の影響で日本的な呪術信仰を持っていたから仏教は日本的に大きく解釈され日本人
の心の中へ取り入れられる。

本地垂迹説などもその理論化の一旦である。

また、貴族の勢力は本来政略、政治的に築かれたものであり自己の労働や能力に頼るものではなかったから、多大な富や権力を手にはしていたものの实質をもたないものであって、精神的に頼るものが必要であった。

したがって、すくせ(宿世)の因果応報をおそれ阿弥陀の住む極楽浄土への祈願が強くなる。

特に女性は、政略の道具として用いられていたし、日本の婚姻は妻問い婚であったから、女性の重要性は増したものの嫡子を埋めるかどうかなどは運に頼るしかない不安定なものでしかなかった。

中央集権国家の政治機構によって、宮廷にもたらされた富や外来文化は、宮廷人の心を洗練した華麗なものにしていったが、实質的な生活からかけ離れた心理的不安定をもたらし、特に病気や死、運命などに左右されるときそのよりどころとなるものがなかった。

このような背景により、奈良時代の護国仏教とはちがった個人の心の安寧を求める仏教が流行した。

遣唐使の廃止(年代)とかな文字の発達:日本化の促進
第一次遣唐使は、630 年(舒明2)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった
しかし、唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。

斉(880年- 884年)を成立させた。

唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

このため遣唐使は、894年(寛平6)の派遣が菅原道真の建議により中止された。

907年(延喜7)には唐が滅亡した。

奈良時代に鑑真が渡日し唐招提寺を開いた。

小説「天平の甍」井上靖があるが、奈良・平安時代を通じ仏教の輸入が主な目的であったことが分かる。

遣唐使の廃止によって、このような外来文化の影響が次第に薄れて行ったことが分かる。

そして、外来文化がある程度取り込まれ吸収されると、自国に適した文化を創造し始めるようになる。

特に、仮名の発達により、母国語で自分の心理を表現できるようになったのは文化の発展には大きな要素であった。

男性社会ではあるが、女性が貴族社会の政略結婚に使われ、貴族のみやびな生活には官能的な要素が大きな役割を果たしたから、自己の内面を表現するには仮名文学は非常に適していた。

それゆえに、平安時代に於いて女性は文学上女手と呼ばれる重要な役割を果たす。

しかし、仮名文学の影響は男性の文学にも影響し、土佐日記や古今集にも現れるように、中国との公的交流が絶えて長くなるにつれて、勅撰の和歌集に用いられるまでに進出した。

仮名はこのようにさまざまな作品を生み出している。

さらに、仮名の発明と普及により読者層が男性の知識階層に影響して広がり、女性、庶民にまで読まれる説話文学も流行するし、仏教の普及も容易になっていく。

参考:仮名の歴史
空海が平仮名を創作したという伝承がある。

平仮名の元となったのは、楷書ないし行書で表現される万葉仮名である。

「あ」は「安」、「い」は「以」に由来するように、万葉仮名として使用されていた漢字の草体化が極まって、ついに元となる漢字の草書体から独立したものが平仮名と言える。

8世紀末の正倉院文書には、草体化した万葉仮名が見られる。

9世紀中頃の『藤原有年申文』(867年)や同時期の『智証大師病中言上艸書』の省略の進んだ草書の万葉仮名を、平仮名の前段階である草仮名(そうがな)と呼ぶ。

宇多天皇宸翰『周易抄』(897 年)では、訓注に草仮名を、傍訓に片仮名を、それぞれ使い分けており、この頃から平仮名が独立した文字体系として次第に意識されつつあったことが窺える。

9世紀後半から歌文の表記に用いられていた平仮名が、公的な文書に現れるのは、醍醐天皇の時代の勅撰和歌集である古今和歌集(905年)が最初である。

その序文は漢文である真名序と平仮名で書かれた仮名序の二つが併記された。

また935年頃に紀貫之が著した『土佐日記』について、後にその原本の最終帖を藤原定家が臨模したものが伝存しており、当時すでに後世の平仮名と同じ字体が用いられていたことを確認できる。

951年の『醍醐寺五重塔天井板落書』になると、片仮名で記された和歌の一節を平仮名で書き換えており、この頃には平仮名は文字体系として完全に独立したものになっていたと考えられる。

平仮名という言葉が登場するのは16世紀以降のことであり、これは片仮名と区別するため、「普通の仮名」の意で呼ばれたものである。

平仮名の異体字は、万葉仮名のそれと比べると遥かに尐ない。

平仮名による表現が頂点に達した平安時代末期の時点で、異体字の総数が約300種、そのうち個人が使用したのはおよそ100から200種ほどとされる。

時代が下るにつれて字体は整理される傾向にあり、現代においては、一音一字の原則に従って、1900 年の小学校令施行規則の第一号表に示された48種の字体だけが普及している。

この時採用されなかった字体を指して変体仮名と呼ぶが、このような概念はそれまで存在しなかったものであり、1900年までは(現代の)平仮名も変体仮名も区別なく、「平仮名」として用いられていた。

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