戦国大名武将日文百科【真田幸昌】
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戦国武将覚書
真田幸昌(さなだゆきまさ)1602~1615
○大介信昌
◇父:真田信繁
14歳にて父信繁と共に、大坂夏の陣に参加。
大坂落城時、脱出の勧めを断って、当主豊臣秀頼に殉じた。
ウィキペディア
真田幸昌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2010/06/20 09:32 UTC 版) 凡例
真田幸昌
時代江戸時代前期
生誕慶長6年7月24日(1601年8月22日)?
死没慶長20年5月8日(1615年6月4日)
別名大助(通称)、信昌、幸綱、治幸
諡号真入全孝大居士
墓所善名称院(真田庵)
主君豊臣秀頼
氏族真田氏
父母父:真田信繁、母:竹林院(大谷吉継の娘)
兄弟阿菊(石合重定室)、於市、阿梅(片倉重長
後室)、
あくり(蒲生郷喜室)、真田幸昌、
なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉
定広室)、
おかね(石川貞清室)、片倉守信、三好幸
信、真田之親
真田大助(さなだゆきまさ)は、江戸時代前期の武将である。
真田信繁の嫡男、母は
竹林院(大谷吉継の娘)
慶長6年(1601年)、又は慶長7年(1602年)、父・信繁が関ヶ原の戦いで流されることとなった紀伊国九度山(和歌山県九度山町)で生まれる。
祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名された。
慶長20年(1615年)、父・信繁とともに九度山を脱出して大坂城へ入り、大坂夏の陣に出陣して敵の武将を討ち取るという大功を挙げたが、その後父に大坂城の落城を見届けるように命じられる。
この時、幸昌は父とともに最後まで付き従うつもりだったが、父
の命令には逆らえず、やむなく大坂城に引き返したとされる。
そして大坂城落城後、極
めて若年であり、又豊臣に特別な恩顧もないことから速水守久らから脱出を勧められ
たが拒絶し、主君の豊臣秀頼が切腹すると、幸昌は「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫んで介錯を加藤弥平太にして切腹(加藤と刺し違えたとも)。
享年13、あるいは16。
墓所は和歌山県九度山町の善名称院ほか。
また、父の信繁同様に各地に生存伝説が残る。
現在の大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(大助)の名前も記されている。