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日本的物哀观

日本的物哀观


本居宣长在他所著的《源氏物语》注释书 《源氏物语玉の小栉》中,对“物哀”这 个理念,及其在源氏物语中的体现,都有 详尽的阐述。用现代的话说,「物,mono」 就是认识感知的对象,「哀れ,aware」, 是认识感知的主体,感情的主体。「物の 哀れ,mononoaware」,就是二者互相吻合 一致的时候产生的和谐的美感,优美、细 腻、沉静、直观。(《広辞源》)
日本 “物哀”

这个概念简单地说,是“真情流露”,人 心接触外部世界时,触景生情,感物生情, 心为之所动,有所感触,这时候自然涌出 的情感,或喜悦,或愤怒,或恐惧,或悲 伤,或低徊婉转,或思恋憧憬。有这样情 感的人,便是懂得“物哀”的人。有点类 似中国话里的“真性情”。懂得“物哀” 的人,就类似中国话里的“性情中人”了。
ቤተ መጻሕፍቲ ባይዱ



「物の哀れ」也一样。不论是什么事情,不论遇到了什么 触动人心的事情,知道为什么感动而实有所感,便是「懂 得物之哀」。否则,遇到该感动的事物而心无所动,没有 感触,叫做「不懂得物之哀」,是没有情趣的人。悟性好 的人,遇到令人感触的事情,便会情动于中而不得不发。 这时候若无所感触,此人一定生性愚钝,欠缺感物生情的 情趣。《後撰和歌集》纪贯之的一首和歌,其序中说「大 家聚在某处帘子前(给垂帘后边的高贵夫人)讲故事,我 听到帘子后边有女人的声音说:“这个老头的这张脸看起 来太懂得物之哀了”。于是做歌, 歌曰:「あはれてふ言に験はなけれども言はではえこそあ らぬものなれ」。 歌意是说:“虽说「ああ」「はれ」呜呼哀哉地叹息并没什 么实用,可是碰到触动人心的事儿,总会情不自禁地叹息 啊。”懂得物之哀的人,无论遇到什么事情都是这样。

换言之,物哀就是情感主观接触外界事物 时,自然而然或情不自禁地产生的幽深玄 静的情感。「あはれ、aware」本来是个感 叹词,可以用在所有的情感上,如同汉语 中的「呜呼」、「啊~」。到了平安时代, 这个词不再表达激烈的情感,多用来指称 和谐沉静的美感。

神道教

神道教

靖国神社
靖国神社建于1869年 靖国神社建于1869年8月6日(明治2年6月29日),原称“东京 1869 明治2 29日),原称“ 原称 招魂社” 招魂社”,以纪念在明治维新时期日本内战戊辰战争中为恢复明治 天皇权力而牺牲的军人。 1879年 明治12 ),东京招魂社改名 12年 天皇权力而牺牲的军人。在1879年(明治12年),东京招魂社改名 为靖国神社; 靖国”来自左传僖公二十三年“吾以靖国也” 为靖国神社;“靖国”来自左传僖公二十三年“吾以靖国也”,意 为使国家安定。靖国神社在明治维新后是供奉为日本战死的军人, 为使国家安定。靖国神社在明治维新后是供奉为日本战死的军人, 包括甲午战争(1894),日俄战争 1904日俄战争( ),和 包括甲午战争(1894-5年),日俄战争(1904-5年),和第二次世 界大战。 日本全国神社都由内务省 界大战。,日本全国神社都由内务省管 因此, 内务省管 因此 理,唯独是靖国神社由军方管理。现时 唯独是靖国神社由军方管理。 存放着接近250万名为日本战死者的灵位, 250万名为日本战死者的灵位 存放着接近250万名为日本战死者的灵位, 其中有210万死于二战,包括14 210万死于二战 14名二战甲 其中有210万死于二战,包括14名二战甲 级战犯和约2000名乙、丙级战犯的牌位。 2000名乙 级战犯和约2000名乙、丙级战犯的牌位。 日本在1945 1945年 15日战败后 日战败后, 日本在1945年8月15日战败后,因为日本 的战后和平宪法第9条说明要分开政府和 的战后和平宪法第9 宗教, 宗教,靖国神社选择了变成一个非政府 旗下的宗教机构。 旗下的宗教机构。
神社与神宫
神社与神宫是神道教徒祭祀之 处。最初的神社形式是在树木茂 盛之地建一小屋,中央种一常绿树,信徒们相信神灵居在其中, 盛之地建一小屋,中央种一常绿树,信徒们相信神灵居在其中,遂 开始敬拜,称为「神篱」,以后就渐渐发展成今日的各种神社了。 开始敬拜,称为「神篱」,以后就渐渐发展成今日的各种神社了。 」,以后就渐渐发展成今日的各种神社了 依所祭拜的亡灵种类,神社被区分成六大类:(1)祭祀古代诸 依所祭拜的亡灵种类,神社被区分成六大类:(1)祭祀古代诸 的神社。(2)祭祀历代诸天皇亡灵的神社 又称神宫, 祭祀历代诸天皇亡灵的神社, 神祇的神社。(2)祭祀历代诸天皇亡灵的神社,又称神宫,如祭拜 明治天皇的明治神宫。(3)祭祀有功勋皇亲的神社 (4)祭祀国家功 祭祀有功勋皇亲的神社。 明治天皇的明治神宫。(3)祭祀有功勋皇亲的神社。(4)祭祀国家功 臣的神社。(5)祭祀诸氏族祖先的神社 祭祀诸氏族祖先的神社。 臣的神社。(5)祭祀诸氏族祖先的神社。 (6)祭祀国郡乡土功劳者的神社, (6)祭祀国郡乡土功劳者的神社, 祭祀国郡乡土功劳者的神社 如祭拜明治维新一百多年来阵亡 将士之灵的靖国神社。 将士之灵的靖国神社。总计日本 现有神社已超过八万座, 现有神社已超过八万座,其中每 年参拜人数最多的有: 年参拜人数最多的有:镰仓八幡 六百万人) 伊势皇天大宫( 宫(六百万人);伊势皇天大宫(四 百八十二万人) 百八十二万人);东京明治神宫 六百二十五万人)与靖国神社( (六百二十五万人)与靖国神社(三 百万人) 百万人)。

日本文学中的歌、神歌、和歌、连歌关联考

日本文学中的歌、神歌、和歌、连歌关联考

日本文学中的歌、神歌、和歌、连歌关联考作者:徐凤来源:《外国问题研究》2015年第03期[内容摘要] 日本文学中最早的歌是神歌,神歌是和歌的前身,和歌是连歌的母体,连歌被称为最具日本特色的文艺形式。

本文在语源考据和史料分析的基础上,从文学视野出发,考察了日本的歌、神歌、和歌、连歌在概念所指、基本起源两方面的关联性,分析了日本的歌、神歌、和歌、连歌这几个文学术语的广义概念和狭义概念,提出了歌、神歌、和歌、连歌之起源说的不同看法。

[关键词] 日本的歌;神歌;和歌;连歌;关联性[中图分类号] I313.072 [文献标识码] A [文章编号] 1674-6201(2015)03-0061-06自1980年代以来,中国有关日本古典诗歌的研究从来没有间断过,但一直是波澜不惊,且大多数的研究成果都是有关日本和歌的歌风意境、文化内涵和汉译形式方面的。

代表性的成果有《日本中世和歌理论与我国儒、道、佛》(赵乐甡,《外国文学评论》1991年第3期)、《日本和歌的修辞技巧——以双关和缘语为中心》(高文汉,《解放军外国语学院学报》2009年第1期)、《日本和歌格律探源》(王勇,《日语学习与研究》1990年第3期)、《日本古典短歌诗型中的汉文学形态》(严绍璗,《北京大学学报》1982年第5期)。

《说连歌》(缪伟群,《外国问题研究》1986年第2期)和叶渭渠的《日本文化史》、《日本文学史古代卷》以及王向远的《日本古典文学选译》等著作中出现有关日本文学的歌、神歌、和歌与连歌的论述。

以上成果都笼统地出现了歌、歌谣、和歌、连歌等概念,但都没有具体论述三者之间的关联。

日本文学中所说的歌、和歌、连歌都有宏观和微观、广义和狭义两种解释,考据这些术语概念有利于我们具体把握日本民族文学中最基本的范畴概念,同时对日本学者的相关说法进行商榷。

一、歌、神歌、和歌、连歌的概念所指何谓“歌”?藤原滨成在《歌经标式》里说“夫歌者,感鬼神之幽情,慰天人之恋心者也”[1]17。

日本文学(1)

日本文学(1)
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《枕草子》片段
"秋天是傍晚最好。夕阳辉煌地照着,到了很接近了山 边的时候,乌鸦都要归巢去了,三四只一起,两三只一 起急匆匆地飞去,这也是很有意思的。而且更有大雁排 成行列飞去,随后越看去变得越小了,也真是有趣。到 了日没以后,风的声响以及虫类的鸣声,不消说也都是 特别有意思的。冬天是早晨最好。在下了雪的时候可以 不必说了,有时只是雪白地下了霜,或者就是没有霜雪 但也觉得很冷的天气,赶快生起火来,拿了炭到处分送 ,很有点冬天的模样。但是到了中午暖了起来,寒气减 退了,所有地炉以及火盆里的火,都因为没有人管了, 以至容易变成白色的灰,这是不大好看的。"
日本文学
一、日本文学的发展
(一)日本古代文学 1.上代文学:奈良时期:《古事记》、《万叶集》 2.中古文学:平安时期:《古今和歌集》、紫式部 《源氏物语》 3.中世文学:镰仓、室町时期:《平家物语》、“能” 剧、“狂言” 4.近世文学:江户时期:俳句、净琉璃、歌舞伎 (二)日本近代文学 1.明治时期:二叶亭四迷《浮云》、夏目漱石《我是 猫》 2.大正时期:芥川龙之介《罗生门》、《竹林中》
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《日本书纪》
全30卷,前两卷为神代记,余28卷是从神武天皇 至持统天皇的纪事,按照编年体编著。 整体上,《日本书纪》不以神话、传说为主,而 已记载史实为重,尽量保持正史的特质。参考了我 国的《史记》、《汉书》、《后汉书》等大量史籍, 采用我国编史的干支纪年法,重视史料,文采华丽、 注重修辞。 书中记载了128首原初歌谣,首次出现童谣。
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《平家物语》
“战记物语”:描写武士的战斗生活 和侠义行为。《平家物语》被称为“民 族的英雄叙事诗”、“描绘时代本质的 伟大民族画卷”、“日本叙事诗文学最 高峰” 。 时代背景:镰仓、室町内战频繁、群 雄割据,武士文化繁盛。 内容:新兴的平氏与宫廷的对立、宫 廷的阴谋与源氏的卷土重来,平氏、源 氏两大武士集团大会战、平氏失败与灭 亡的全过程,反映了镰仓时代风云变幻 的武士社会变迁,以及地方武士崛起的 风貌。

本居宣长

本居宣长
だが、真淵の門人であった村田春海らのように契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派もあり、その内情は複雑であった。実証主義的な国学は明治期の小中村清矩らの手によって近代以降の日本文学研究や国語学、民俗学の基礎となった。
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契沖
o今井似閑
o安藤為章
o海北若沖
賀茂真淵
本居宣長
国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを否定し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。
江戸時代に形骸化した中世歌学を批判するかたちで現れた。木下勝俊・戸田茂睡らに始まるこうした批判は、下河辺長流・契沖の『万葉集』研究に引き継がれた。特に後者の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷の神官であった荷田春満が神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。一部において矛盾すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。
平田篤胤
o矢野玄道
o平田鐵胤
o常世長胤
塙保己一
富士谷御杖
本居大平
五十嵐篤好
拝郷蓮茵
古道(こどう)
かつて使用されていたが現在はあまり利用されておらず、当時のままの状態で残されているような道路のこと。熊野古道、山の辺の道など。
古代にあった、あるいはあったと考えられる方法・文化・考え方などのこと。日本の神道・国学では古神道(復古神道)のことを指す。儒教では原始儒教を指す。

日本古代文学简史笔记

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日本古代文学简史复习笔记摘要目录序章日本历史与日本文学史 (1)一、日本历史分期 (1)1.早期历史 (1)2.封建社会 (1)3.近代社会 (1)4.战后社会 (1)二、日本文学史分期 (1)1.上古文学 (1)2.中古文学 (2)3.中世纪文学 (2)4.近世文学 (2)5.近代文学 (2)第一章上古文学 (3)一、散文 (3)1. 神话等 (3)2.祭祀文学 (3)二、韵文 (3)1.记纪歌谣 (3)2.《万叶集》 (3)3.汉诗文 (3)第二章中古文学 (4)一、散文 (4)1.物语文学 (4)3.日记文学 (4)4.随笔 (4)二、韵文 (5)1.汉诗 (5)2.和歌 (5)3.歌谣 (5)三、艺能 (5)1.雅乐 (5)2.田乐 (5)3.猿乐 (5)第三章中世纪文学 (6)一、散文 (6)1.物语文学 (6)2.说话 (6)3.随笔 (6)4.日记.纪行(游记) (6)二、韵文 (7)1.和歌 (7)2.连歌 (7)3.歌谣 (7)4.汉诗文 (7)第四章近世文学 (8)一、诗歌 (8)1.俳谐 (8)2.狂歌 (8)3.川柳 (8)5.国学 (8)二、戏曲 (8)1.净琉璃 (8)2.歌舞伎 (8)三、小说 (8)1.假名草子 (8)2.浮世草子 (8)3.读本 (9)4.洒落本 (9)5.人情本 (9)6.滑稽本 (9)序章日本历史与日本文学史一、日本历史分期1.早期历史旧石器时代(——约1万2千年前)绳文时代(约1万2千年前——公元前3世纪)弥生时代(前3世纪——3世纪)古坟时代(300——600)2.封建社会飞鸟时代(600——710)奈良时代(710——794)平安时代(794——1190)镰仓时代(1190——1334)南北朝时代(1334——1392)室町时代(1392——1573)安土·桃山时代(1573——1603)1江户时代(1603——1868)3.近代社会明治时代(1868——1912)大正时代(1912——1926)昭和时代前期(1926——1945)4.战后社会昭和时代后期(1945——1988)平成时代(1988——今)二、日本文学史分期1.上古文学以奈良时代为主,时间跨度主要在8世纪(<日>上代文学)。

“物哀”与“知物哀”论

“物哀”与“知物哀”论
我 国 的《 记 》 :乐 者 , 于 心 , 于 物 而 动 。 乐 云 “ 本 感 ”
来表 示 , 意为 “ 一切 喜怒哀 乐 有感 于心 而发之 声” 并 ,
赋予 它 以一种 特定 的感 情 内容 。例 如 ,万 叶集 》 《 卷
三第 四一 五首 诗歌 日 : “ c c 家 二扔 妹 手 圭加 草 圭< 旅
展 到万 叶集 中 以个 人 意识 为基点 的悲 哀 、 动 、 怜 感 爱 等 混合 情感 的“ ” 哀 意识 , 到 《 氏物 语 》 再 源 中表 达 更
为 复 杂 情 感 的 审 美 意 识 “ 哀 ( : n n a r) , 物 音 mo o o wae ”
词 , 由“ ( ) 哟” wae 这 两个感 叹词 组合 而 是 啊” a 和“ ( r) 成 的 。其 最初 表现 的是人 因感动 而发 出 的声 音 。在
次, “ ” 使 哀 的文学 思 想 更 具 深 度 和力 度 。为 了完 整 地表 达 日本文 学 中这种 动人 的情 趣和 真实 的审 美理 念, 紫式 部在 使用 “ ” 同时 , 哀 的 也使用 “ 物哀 ” 个文 这
学概 念 。她所 使用 的 “ 衷 ” 实 际 上是 “ ” 物 , 哀 的一 种
“ ” 哀 。古 代 神话 、 歌谣 中对 太 阳神 、 自然神 的共 同感 动 而发生 的“ ” 是带共 同体性质 的 , 哀 , 是一种 集 团性 的“ 真实 ” 的感 动 , 有 原 始 性 和 率直 性 。 万 叶 具 u 到《 集》 中后 期 , 叶诗 歌从 客观 叙述 发展 到主 观抒情 的 万 阶段 , 物伤 怀 , 始 抒 发 个 人 情感 , 感 开 开辟 了 日本 固 有 的“ ” 哀 的美 学范 畴 。

本居宣长『玉胜间』

本居宣长『玉胜间』

『玉勝間』抄◇『玉勝間』抄宣長の代表作の一つ『玉勝間』から、代表的な章段を抜粋した。

底本には『本居宣長全集』を使用した。

抜粋の基準は、『全訳玉勝間詳解』前嶋成著、大修館書店(昭和33年1月刊)に採録されたものとし、若干の追加をした。

前嶋氏の著作は、学習参考書で、その選択基準には、資料編として相応しくないものがある。

例えば、「54, 為兼卿の歌の事」など。

今回はそれも敢えて採用した。

また、私たちが最も必要とする章段の一つ「伊勢国」は採用されていない。

これは「11,松坂と宣長」の「宣長さんの松坂評」を御覧頂きたい。

>>『玉勝間』>>「『玉勝間』って面白い本?」【目次】玉賀都萬一の巻巻頭歌初若菜1 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事2 わたくしに記せる史3 儒者の皇國の事をばしらずとてある事4 古書どものこと5 また6 また7 又8 また9 また10 もろこしぶみをもよむべき事11 學問して道をしる事12 がくもん13 からごゝろ14 おかしとをかしと二つある事15 東宮をたがひにゆづりて16 漢意17 又18 言をもじといふ事19 あらたなる説を出す事20 音便の事21 からうたのよみざま22 大神宮の茅葺なる説23 清水寺の敬月ほうしが歌の事玉かつま二の巻櫻の落葉24 兩部唯一といふ事25 道にかなはぬ世中のしわざ26 道をおこなふさだ27 から國聖人の世の祥瑞といふもの28 姓氏の事29 又30 神典のときざま31 ふみよむことのたとへ32 あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事33 又34 儒者名をみだる事35 松嶋の日記といふ物36 ふみども今はえやすくなれる事37 おのが物まなびの有しやう38 あがたゐのうしの御さとし言39 おのれあがたゐの大人の敎をうけしやう40 師の説になづまざる事41 わがをしへ子にいましめおくやう42 五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事玉かつま三の巻たちばな43 から國にて孔丘が名をいむ事44 から人のおやのおもひに身をやつす事45 富貴をねがはざるをよき事にする諭ひ46 神の御ふみをとける世々のさま玉勝間四の巻わすれ草47 故郷48 うき世49 世の人かざりにはからるゝたとひ50 ひとむきにかたよることの論ひ51 前後と説のかはる事52 人のうせたる後のわざ53 櫻を花といふ事54 為兼卿の歌の事55 もろこしの經書といふものの説とりどりなる事56 もろこし人の説こちたくくだくだしき事57 初學の詩つくるべきやうを敎ヘたる説58 歌は詞をえらぶべき事59 兼好法師が詞のあげつらひ60 うはべをつくる世のならひ61 學者のまづかたきふしをとふ事たまかつま五の巻枯野のすゝき62 あやしき事の説63 歌の道さくら花64 いせ物語眞名本の事65 いせ物がたりをよみていはまほしき事ども一つ二つ66 業平ノ朝臣のいまはの言の葉玉かつま六の巻からあゐ67 書うつし物かく事68 手かく事69 業平ノ朝臣の月やあらぬてふ歌のこゝろ70 縣居大人の傳71 花のさだめ72 玉あられ73 かなづかひ74 古き名どころを尋ぬる事75 天の下の政神事をさきとせられし事たまかつま七の巻ふぢなみ76 神社の祭る神をしらまほしくする事77 おのが仕奉る神を尊き神になさまほしくする事78 皇孫天孫と申す御号79 神わざのおとろへのなげかはしき事80 よの人の神社は物さびたるをたふとしとする事81 唐の國人あだし國あることをしらざりし事82 おらんだといふ國のまなび83 もろこしになきこと84 ある人の言85 土佐國に火葬なし86 はまなのはし87 おのれとり分て人につたふべきふしなき事88 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事89 道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるにもかゝはるまじき事90 香をきくといふは俗言なる事91 もろこしに名高き物しり人の佛法を信じたりし事92 世の人佛の道に心のよりやすき事93 ゐなかにいにしへの雅言ののこれる事玉かつま八の巻萩の下葉94 ゐなかに古ヘのわざののこれる事95 ふるき物またそのかたをいつはり作る事96 言の然いふ本の意をしらまほしくする事97 今の人の歌文ひがことおほき事98 歌もふみもよくとゝのふはかたき事99 こうさくくわいどく聞書100 枕詞101 もろこしの國に丙吉といひし人の事102 周公旦がくひたる飯を吐出して賢人に逢たりといへる事103 藤谷ノ成章といひし人の事104 ある人のいへること105 らくがきらくしゅ玉勝間九の巻花の雪106 道のひめこと107 契沖が歌をとけるやう108 つねに異なる字音のことば109 八百萬ノ神といふを書紀に八十萬ノ神と記されたる事110 人ノ名を文字音にいふ事111 神をなほざりに思ひ奉る世のならひをかなしむ事たまかつま十の巻山菅112 物まなびのこゝろばへ113 いにしへよりつたはれる事の絶るをかなしむ事114 もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事115 譬ヘといふものの事116 物をときさとす事117 源氏物語をよむことのたとへ118 さらしなのにきに見えたること119 おのが帰雁のうた120 師をとるといふ事玉勝間十一の巻さねかづら121 人のうまるゝはじめ死て後の事122 うひ学びの輩の歌よむさま123 後の世ははづかしきものなる事124 うたを思ふほどにあること125 假字のさだ126 皇國の学者のあやしき癖127 万葉集をよむこゝろばへ128 足ことをしるといふ事玉かつま十二の巻やまぶき129 又妹背山130 俊成卿定家卿などの歌をあしくいひなす事131 物しり人もののことわりを論ずるやう132 歌に六義といふ事133 物まなびはその道をよくえらびて入そむべき事134 八景といふ事135 よはひの賀に歌を多く集むる事なき跡にいしぶみをたつる事136 金銀ほしからぬかほする事137 雪蛍をあつめて書よみけるもろこしのふること玉勝間十三の巻おもひ草138 しづかなる山林をすみよしといふ事139 おのが京のやどりの事140 しちすつの濁音の事玉かつま十四の巻つらつら椿141 一言一行によりてひとのよしあしきをさだむる事142 今の世の名の事143 絵の事144 又145 又146 又147 また148 漢ふみにしるせる事みだりに信ずまじき事149 世の中の萬の事は皆神の御しわざなる事150 聖人を尊む事151 ト筮152 から人の語かしこくいひとれること153 論語154 又155 又156 はやる157 人のうまれつきさまざまある事158 紙の用159 古より後世のまされる事160 名所161 教誡162 孟子163 如是我聞164 佛道165 世の人まことのみちにこゝろつかざる事166 宋の代明の代167 天168 國を治むるかたの学問169 漢籍の説と皇の古伝説とのたとへ170 米粒を佛法ぼさつなどいひならへる事171 世の人のこざかしきこといふをよしとする事172 假字173 から國の詞つかひ174 佛經の文175 神のめぐみ176 道【本文】玉賀都萬一の巻言草のすゞろにたまる玉がつまつみてこゝろを野べのすさびに初若菜一此言草よ、なにくれと数おほくつもりぬるを、いとくだくだしけれど、やりすてむもさすがにて、かきあつめむとするを、けふはむ月十八日、子ノ日なれば、よし有ておぼゆるまゝに、まづこの巻の名、かく物しつ、次々のも、又そのをりをり思ひよらんまゝに、何ともかともつけてむとす、かたみとはのこれ野澤の水ぐきの淺くみじかきわかななりとも1 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事[四]からごゝろを清くはなれて、もはら古ヘのこゝろ詞をたづぬるがくもむは、わが縣居ノ大人よりぞはじまりける、此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、歌もたゞ古今集よりこなたにのみとゞまりて、萬葉などは、たゞいと物どほく、心も及ばぬ物として、さらに其歌のよきあしきを思ひ、ふるきちかきをわきまへ、又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりしことなるを、今はその古ヘ言をおのがものとして、萬葉ぶりの歌をもよみいで、古ヘぶりの文などをさへ、かきうることとなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有ける、今の人は、ただおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御陰(ミカゲ)によらずといふことなし、又古事記書紀などの、古典(イニシヘノフミ)をうかゞふにも、漢意(カラゴコロ)にまどはされず、まづもはら古ヘ言を明らめ、古ヘ意によるべきことを、人みなしれるも、このうしの、萬葉のをしへのみたまにぞありける、そもそもかかるたふとき道を、ひらきそめたるいそしみは、よにいみしきものなりかし、2 わたくしに記せる史[七]よにおほやけの史にはあらで、私に御代御代の事を記せる書、これかれとおほかるを、むかしの皇國人は、佛をたふとばぬは一人もなかりしかば、かゝる書にさへ、ともすればえうなきほとけざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたはらいたきことおほし、又さかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬをいとひて、おほくは神武天皇より始めてしるして、神代のほどをばはぶけるは、から國のむねむねしき書に、さるたぐひのあるを、よきことと思ひて、ならへる物也、そもそも外(トツ)國々は、その王のすぢ、定まれる事なくして、よゝにかはれば、心にまかせて、いづれのよより記さむも難(ナム)なきを、御國の皇統は、さらに外(トツ)國の王のたぐひにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にましまして、天地とともに、とこしへに傳はらせ給ふを、その本のはじめをはぶきすてて、なからより記してやからめや、よろづをから國にならふも、事によりては、心すべきわざぞかし、3 儒者の皇國の事をばしらずとてある事[九]儒者に皇國の事をとふには、しらずといひて、恥とせず、から國の事をとふに、しらずといふをば、いたく恥と思ひて、しらぬことをもしりがほにいひまぎらはす、こはよろづをからめかさむとするあまりに、其身をも漢人めかして、皇國をばよその國のごともてなさむとするなるべし、されどなほから人にはあらず、御國人なるに、儒者とあらむものの、おのが國の事しらであるべきわざかは、但し皇國の人に對ひては、さあらむも、から人めきてよかンめれど、もし漢國人のとひたらむには、我は、そなたの國の事はよくしれれども、わが國のことはしらずとは、さすがにえいひたらじをや、もしさもいひたらむには、己が國の事をだにえしらぬ儒者の、いかでか人の國の事をはしるべきとて、手をうちて、いたくわらひつべし、4 古書どものこと[一〇]ふるきふみどもの、世にたえてつたはらぬは、萬ヅよりもくちをしく歎かわしきわざ也、釋日本紀仙覺が萬葉の抄などを見るに、そのほどまでは、國々の風土記も、大かたそなはりて、傳はれりと見えたり、釋に引たる上宮記といふ物は、いさゝかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きはふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有けむ、又風土記は、いとたふとき物なるに、今はたゞ出雲一國ののみ、またくてはのこりて、ほかはみな絶えぬるは、かへすかへすもくちをし、さるは應仁よりこなた、うちつゞきたるみやこのみだれに、ふるき書どもも、みなやけうせ、あるはちりぼひうせぬるなるべし、そも今の世のごと、國々にも學問するともがら多く、書どもえうじもたるものおほからましかば、むげにたえはつることはあらじを、そのかみはいまだゐなかには、學問するともがらもいといとまれにして、京ならでは、をさをさ書どももなかりしが故なめり、されどから國のふるきふみどもはしも、これかれとゐなかにも殘れるがあるは、むねとからを好むよのならひなるが故也、かくて風土記も、今の世にもかれこれとあるは、はじめの奈良の御代のにはあらず、やゝ後の物にて、そのさま古きとはいたくかはりて、大かたおかしからぬもの也、其中に、豐後ノ國のは、奈良のなれど、たゞいさゝかのこりて、全からず、そもそもかくはじめのよきはたえて、後のわろきがのこれるは、いかなるゆゑにかと思ふに、これはた世人の心、おしなべてからざまにのみなれるから、ふるくてからめかぬをば好まず、後のいさゝかもからざまに近きをよろこべる故なるべし、神代ノ巻も、日本紀のをのみたふとみて、古事記のをば、えうぜぬをもてなずらへしるべし、さてしかもとの風土記はみな絶ぬる中に、國はしも多かるに、出雲ののこれることは、まがことの中のいみしきさきはひ也、又日本紀はもとよりたゆまじきことわりなるを、古事記萬葉集のたまたまにたえでのこれるは、ことにいみしき後の世のさきはひなり、大かた今の世にして、古ヘのすがたをしることは、もはら此二ふみのみたまになむ有ける、5 また[一一]書紀の今の本は、もじの誤リもところどころあり、又訓も、古言ながら多くは今の京になりてのいひざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいとふるくめづらかにたふときこともまじれるを、その訓おほくは全からず、あるはなかばかけ、或はもじあやまりなど、すべてうるはしからず、しどけなきは、いといとくちをしきわざ也、板本一つならでは世になく、古き寫し本はたいとまれなれば、これかれをくらべ見て、直すべきたよりもなく、すべて今これをきよらにうるはしく、改め直さむことは、いといとかたきわざ也、今の世の物しり人、おのれ古ヘのこころ詞をうまらに明らめえたりと思ひがほなるも、なほひがことのみおほかれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこなひぞ多かるべき、されば今これをゑり改めむとならば、文字の誤リをのみたゞして、訓をば、しばらくもとのまゝにてあらむかたぞ、まさりぬべき、6 また[一二]續紀よりつぎつぎの史典も、今の本は、いづれもよろしからず、文字の誤リことにおほく、脱(オチ)たることなどもあり、そもそも書紀は、訓大事なれば、たやすく手つけがたきを、續紀よりこなたの史は、宣命のところをおきてほかすべては、訓にことなることなく、たゞよのつねのから書(ブミ)の訓のごとくにてよろしければ、今いかで三代實録までを、皆古きよき本を、これかれよみ合わせて、よきをえらびて、うるはしきゑり板を成しおかまほしきわざなり、7 又[一三]萬のふみども、すり本(マキ)と寫し本(マキ)との、よさあしさをいはむに、まづすり本(マキ)の、えやすくたよりよきことは、いふもさら也、しかれども又、はじめ板にゑる時に、ふみあき人の手にて、本のよきあしきをもえらばずてゑりたるは、さらにもいはず、物しり人の手をへて、えらびたるも、なほひがことのおほかるを、一たび板にゑりて、すり本出ぬれば、もろもろの寫シ本は、おのづからにすたれて、たえだえになりて、たゞ一つにさだまる故に、誤リのあるを、他本(アダシマキ)もてたゞさむとすれども、たやすくえがたき、こはすり本(マキ)あるがあしき也、皇朝の書どもは、大かた元和寛永のころより、やうやうに板にはゑれるを、いづれも本あしく、あやまり多くして、別によき本を得てたゞさざれば、物の用にもたちがたきさへおほかるは、いとくちをしきわざなりかし、然るにすり本ならぬ書どもは、寫し本はさまざまあれば、誤リは有ながらに、これかれを見あはすれば、よきことを得る、こは寫本にて傳はる一つのよさ也、然はあれども、寫本はまづはえがたき物なれば、廣からずして絶やすく、又寫すたびごとに、誤リもおほくなり、又心なき商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、こゝかしこひそかにはぶきなどもして、物するほどに、全くよき本はいとまれにのみなりゆくめり、さればたとひあしくはありとも、なほもろもろの書は、板にゑりおかまほしきわざなり、殊に貞觀儀式西宮記北山抄などのたぐひ、そのほかも、いにしへのめでたき書どもの、なほ寫本のみねてあるが多きは、いかでいかでみないたにゑりて、世にひろくなさまほしきわざ也、家々の記録ぶみなども、つぎつぎにゑらまほし、今の世大名たちなどにも、ずゐぶんに古書をえうじ給ふあれど、たゞ其家のくらにをさめて、あつめおかるゝのみにて、見る人もなく、ひろまらざれば、世のためには何のやくなく、あるかひもなし、もしまことに古書をめで給ふ心ざしあらば、かゝるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、其道の人に仰せて、あだし本どもをもよみ合せ、よきをえらばせて、板にゑらせて、世にひろめ給はむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功(イサオ)なるべし、いきほひ富(トメ)る人のうへにては、かばかりの費(ツヒエ)は、何ばかりの事にもあらで、そのいさをは、天の下の人のいみしきめぐみをかうぶりて、末の世までのこるわざぞかし、かへすがえすこゝろざしあらむ人もがな、8 また[一四]めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いといと心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき國などへかしやりたるに、あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人の命は、ひなかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、おきておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、久しくどゞめおくは、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、何も何も同じことなるうちに、いかなればにか、書はことに、用なくなりてのちも、なほざりにうちすておきて、久しくかへさぬ人の、よに多き物ぞかし、9 また[一五]人にかりたる本に、すでによみたるさかひに、をりめつくるは、いと心なきしわざなり、本におりめつけたるは、なほるよなきものぞかし、10 もろこしぶみをもよむべき事[二二]から國の書をも、いとまのひまには、ずゐぶんに見るぞよき、漢籍も見ざれば、其外ツ國のふりのあしき事もしられず、又古書はみな漢文もて書たれば、かの國ぶりの文もしらでは、學問もことゆきがたければ也、かの國ぶりの、よろづにあしきことをよくさとりて、皇國(ミクニ)だましひだにつよくして、うごかざれば、よるひるからぶみを見ても、心はまよふことなし、然れども、かの國ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理をつくしたるやうに、こまかに諭ひ、よさまに説(トキ)なせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつりやすく、まどひやすきならひなれば、から書見むには、つねに此ことをわするまじきなり、11 學問して道をしる事[二三]がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意(カラゴコロ)をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古ヘの意はしりがたく、古ヘのこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける、そもそも道は、もと學問をして知ることにはあらず、生れながらの眞心(マゴコロ)なるぞ、道には有ける、眞心(マゴコロ)とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、眞心をばうしなひはてたれば、今は學問せざれば、道をえしらざるにこそあれ、12 がくもん[二四]世ノ中に學問といふは、からぶみまなびの事にて、皇國の古ヘをまなぶをば、分て神學倭學國學などいふなるは、例のから國をむねとして、御國をかたはらになせるいひざまにて、いといとあるまじきことなれ共、いにしへはたゞから書學びのみこそ有けれ、御國の學びとては、もはらとする者はなかりしかば、おのづから然いひならふべき勢ひ也、しかはあれども、近き世となりては、皇國のをもはらとするともがらもおほかれば、からぶみ學びをば、分て漢學儒學といひて、此皇國のをこそ、うけばりてたゞに學問とはいふべきなれ、佛學なども、他(ホカ)よりは分て佛學といへども、法師のともは、それをなむたゞに學問とはいひて、佛學とはいはざる、これ然るべきことわり也、國學といへば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も事にこそよれ、なほうけばらぬいひざまなり、世の人の物いひざま、すべてかゝる詞に、内外(ウチト)のわきまへをしらず、外ツ國を内になしたる言のみ常に多かるは、からぶみをのみよみなれたるからの、ひがことなりかし、13 からごゝろ[二五]漢意(カラゴコロ)とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非(ヨサアシサ)を論ひ、物の理リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(カラブミ)の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬれば、おのづからその意(ココロ)世ノ中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、當然理(シカアルベキコトワリ)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そもそも人の心は、皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなければ、別(コト)に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの國もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの國人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、眞(マ)心にあらず、かれが是(ヨシ)とする事、實の是(ヨキ)にはあらず、非(アシ)とすること、まことの非(アシキ)にあらざるたぐひもおほかれば、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなしともいふべからず、又當然之理(シカアルベキコトワリ)とおもひとりたるすぢも、漢意の當然之理にこそあれ、實の當然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬれば、おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし、14 おかしとをかしと二つある事[二六]田中ノ道麻呂が考へけるは、物をほめていふおかしは、おむかしのつゞまりたるにて、おの假字也、又笑ふべき事をいふをかしは、をこといふ言のはたらきたるにて、をの假字也、さればこは本より二つにて、異言(コトコトバ)なるを、假字づかひみだれて、一つに書(カク)から、同言のごと心得たるは、誤也といへる、まことにさることにて、いとよきかむかへなり、ほむるとわらふとは、其意大かたうらうへなるを、いかでか同じ言を通はし用ふることのあらむ、おむかしは古ヘ言にて、書紀に徳ノ字また欣感などを、おむかしみすとよみ、續紀の宣命には、うむかし共見え、萬葉の歌には、おをはぶきて、むかし共よめり、此道まろといひしは、美濃ノ國多藝ノ郡榛木(ハリノキ)村の人にて、後は尾張の名兒屋に住て、またなくふることを好み、人にも敎へて、ことに萬葉集を深く考へ得たる人になむ有ける、年はやゝこのかみなりしかども、宣長が弟子(ヲシヘノコ)になりて、二たび三たびはこゝにも來(キ)、つねはしばしばふみかよはしてなむ有けるを、今はむかしの人になむなりぬる、大かたかの名兒屋に、いにしへ學びする人々の出來しは、此おきながみちびきよりぞはじまりける、15 東宮をたがひにゆづりて[二七]此里に、これも宣長がをしへ子に、須賀直見といひしは、いときなかりしほどより、からやまとの書をこのみよみて、いとよく學びて、歌をもよくよみ、物のさとりもいとかしこかりけるを、まだ四十にもならで、はやくみまかりぬるは、いとあたらしきをのこになむ有ける、それがいへりしは、古今集の序の細註に、東宮をたがひにゆづりてとあるは、たれもいと心得ぬいひざまなる、こは東宮とにぞ有けむを、ともじとをもじとよく似たれば、見誤りて書キつたへたる物なるべし、宇治ノ稚郎子をさして、東宮とは申せる也とぞいへりし、此考へにてよくきこえたり、16 漢意[三五]漢國には、おほよそ人の禍福(サキハヒワザハヒ)、國の治亂(ミダレヲサマル)など、すべて世ノ中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理などいひて、これをうへなく尊(タフト)く畏(オソ)るべきものぞすなる、さるはすべて漢國には、まことの道傳はらずして、萬の事はみな、神の御心御しわざなることをえしらざるが故に、みだりに造りまうけていへるものなり、そもそも天は、たゞ天つ神たちのまします御國のみにこそあれ、心ある物にあらざれば、天命などいふことあるべくもあらず、神を尊(タフト)み畏れずして、天をたふとみ畏るゝは、たとへば、いたづらに宮殿(ミヤトノ)をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るゝことをしらざるがごとし、然れ共、外ツ國には、萬ヅは神の御しわざなることをえしらざれば、此天道天理の説を信じ居(ヲ)らむも、さることなるを、皇國には、まことの道の正しき傳への有リながら、それをば尋ね思はずして、たゞ外ツ國のみだりなる説をのみ信じて、天といふことを、いみしき事に心得居て、萬ヅの事に、その理リをのみいふは、いかにぞや、又太極無極陰陽乾坤八卦五行など、ことごとしくこちたくいふなる事共も、たゞ漢國人のわたくしの造説(ツクリコト)にて、まことには其理とてはあることなし、然るに神の御典(ミフミ)をとくともがら、もはらこれらの理リをもて説(トク)なるは、いかなるしれわざぞや、近きころにいたりて、儒意をのぞきてとくと思ふ人も、なほ此天理陰陽などの説のひがことなるをば、えさとらず、其垣(カキ)ツ内を出デはなるゝことあたはざるは、なほ漢意の清くさらで、かれにまどへる夢の、いまだたしかにさめざる也、又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小(チヒサ)き理リにかゝはり泥(ナヅ)みて、まことの道の、微妙(タヘ)なる深きことわりあることを思はざるもの也、此大御神天津日にましまして、その御孫(ミマノ)命天より降り坐て、御國しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其理リは測(ハカ)りしらるべききはにあらず、おのが智(サトリ)もてはかりしることあたはざるをもて、其理なしとおもふは、例の小(チヒサ)きからごゝろなるをや、17 又[三六]漢國にも、神あることを、むげにしらざるにもあらず、尊みもし祀(マツ)りもすめるは、まことの傳への、かたはしは有しならむ、然れ共此天地をはじめ給ひ、國土(クニツチ)萬ノ物を造りなし給ひ、人の道をも萬の事をも始め給ひ、世ノ中のよろづの事をしり行ひ給ふ神たちのましますことをば、すべてえしらずして、これらの重(オモ)く大きなる事には、たゞ天をのみいひて、ただかたはらなる小(チイサ)き事にのみ、神をばいひて、此世を照し給ふ日ノ大御神をすら、かろがろしく、ことなることもなき物のごとくして、此神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだにしらざるは、いとあさましきわざなりかし、18 言をもじといふ事[三八]歌のみそぢひともじを、近きころ古學するともがらは、字といふことをきらひて、卅一言といひ、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみいふなれ共、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有て、いにしへよりかくいへり、すべてもじといふは、文字の字の音にて、御國言にはあらざれども、もんじといはずして、もじといへば、字の音共聞えず、御國言めきてきこゆる、此外にも、ほうし(ママ)ぜにふみなどのたぐひ、字の音をなほして、やがて御國言に用ひたる例多かり、されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばといひてわろき所をば、もじといへることおほし、のもじをもじなどいふ類也、これらをも、近く古學の輩の、のの語をの語などいふなるは、中々にからめきてぞ聞ゆる、源氏物語などには、別(ワカレ)といふことをすら、わかれといふもじといひ、葵ノ巻には、今はさるもじいませ給へなどあるも、さる詞といふこと也、かく詞といひてもよきをだに、もじといへることあれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐひは、さら也、19 あらたなる説を出す事[三九]ちかき世、學問の道ひらけて、大かた萬ヅのとりまかなひ、さとくかしこくなりぬるから、とりどりにあらたなる説を出す人おほく、其説よろしければ、世にもてはやさるゝによりて、なべての學者、いまだよくもとゝのはぬほどより、われおとらじと、よにことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今のよのならひ也、其中には、ずゐぶむによろしきことも、まれにはいでくめれど、大かたいまだしき學者の、心はやりていひ出ることは、たゞ人にまさらむ勝(カタ)むの心にて、かろがろしく、まへしりへをもよくも考へ合さず、思ひよれるまゝにうち出る故に、多くはなかなかなるいみしきひがことのみ也、すべて新なる説を出すは、いと大事也、いくたびもかへさひおもひて、よくたしかなるよりどころをとらへ、いづくまでもゆきとほりて、たがふ所なく、うごくまじきにあらずは、たやすくは出すまじきわざ也、その時には、うけばりてよしと思ふも、ほどへて後に、いま一たびよく思へば、なほわろかりけりと、我ながらだに思ひならるゝ事の多きぞかし、20 音便の事[四一]古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり、後ノ世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつみえそめて、よゝをふるまゝに、やうやうにおほくなれり、そは漢字三音考の末にいへるごとく、おのづから定まり有て、もろもろの音便五くさをいでず、抑此音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などをよむには、一つもまじふべきにあらざるを、後ノ世の物しり人、その本ノ語をわきまへずして、よのつねにいひなれたる音便のまゝによむは、なほざりなること也、すべて後ノ世には、音便の言いといと多くして、まどひやすし、本ノ語をよく考へて、正しくよむべき也、中にもんといふ音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便也とこゝろうべし、さてその音便のんの下は、本ノ語は清ム音なるをも、濁(ニゴ)らるゝ音なれば、皆かならず濁る例也、たとへばねもころといふ言を、後にはねんごろといふがごとし、んの下のこもじ、本ノ語は清ム音なるを、上のもをんといふにひかれて濁る、みな此格なり、然るを世の人、その音便のときの濁リに口なれて、正しくよむときも、ねもごろと、こをにごるはひがこと也、此例多し、心得おくべし、21 からうたのよみざま[四五]童蒙抄に、ある人北野にまうでて、東行南行雲眇々、二月三月日遲々、といふ詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきかうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよひ日うらうら、とこそ詠ずれと仰られけり云々とあり、むかしは詩をも、うるはしくはかくさまにこそよみあげけめ、詠(ナガ)むるはさらなり、いにしへはすべてからぶみをよむにも、よまるゝかぎりは、皇國言(ミクニコトバ)によめるは、字音(モジゴエ)は聞にくかりしが故也、然るを今はかへさまになりて、なべての詞も、皇國言よりは、字音なるをうるはしきことにし、書よむにも、よまるゝかぎりは、字音によむをよきこととすなるは、からぶみまなびのためには、字音によむかたよろしき故もあればぞかし、22 大神宮の茅葺(カヤブキ)なる説[四七]伊勢の大御神の宮殿(ミアラカ)の茅葺なるを、後世に質素を示す戒メなりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也、質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし、御殿(ミアラカ)のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ、みあらか又獻り物などを、質素にするは、禮(ヰヤ)なく心ざし淺きしわざ也、そもそも伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重(オモ)みし守りて、變(カヘ)給はざる物なり、然して茅葺ながらに、その荘麗(イカメシ)きことの世にたぐひなきは、皇御孫(スメミマノ)命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故也、さるを御(ミ)みづからの宮殿(ミアラカ)をば、美麗(ウルハシ)く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは、すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古ヘの意にそむけりと知べし、23 清水寺の敬月ほうしが歌の事[五七]承久のみだれに、清水寺の敬月法師といひけるほうし、京の御方にて、官軍にくはゝり、宇治におもむきけるを、かたきにとらはれて、殺さるべかりけるに、歌をよみて、敵泰時に見せける、「勅なれば身をばすててきものゝふの八十宇治川の瀬にはたゝねど、かたき此歌にめでて、命ゆるして、遠流にぞしたりける、此事も同じ書に見ゆ、玉かつま二の巻櫻の落葉二なが月の十日ごろ、せんざいの櫻の葉の、色こくなりたるが、物がなしきゆふべの風に、ほろほろとおつるを見て、よめる、花ちりし同じ梢をもみぢにも又ものおもふ庭ざくらかなこれをもひろひいれて、やがて巻の名としつ、24 兩部唯一といふ事[七二]天下の神社のうち、神人のみつかふる社を、俗(ヨ)に唯一といひ、法師のつかふる社を、兩部といふ、又兩部神道とて敎ふる一ながれもあり、兩部とは、佛の道の密敎の、胎藏界金剛界の兩部といふことを、神の道に合せたるを、兩部習合の神道といへり、かの兩部を以て、神道に合せたるよし也、部ノ字にて心得べし、神と佛とをさしていふ兩にはあらず、さて又唯一といふは、兩部神道といふもののあるにつきて、その兩部をまじへざるよし也、されば神の道の唯一なるは、もとよりの事ながら、その名は、兩部神道有ての後也、然るに此名を、兩部に對へたるにはあらず、天人唯一の義也といひなせるは、いみしきひがこと也、天と人とひとつ也とは、いかなることわりぞや、そはたゞ天をうへもなくいみしき物にすなる、漢意よりいひなしたることにて、いたく古ヘの意にそむけり、抑天は、天つ神たちのまします御國にこそあれ、人はいかでかそれと一つなることわりあらむ、世の物しり人みな、古ヘのこゝろをえさとらず、ひたぶるに漢意にまどへるから、何につけても、ことわり深げなることを説むとて、しひてかゝることをもいふにぞ有ける、25 道にかなはぬ世中のしわざ[七三]道にかなはずとて、世に久しく有リならひつる事を、にはかにやめむとするはわろし、たゞそのそこなひのすぢをはぶきさりて、ある物はあるにてさしおきて、まことの道を尋ぬべき也、よろづの事を、しひて道のまゝに直しおこなはむとするは、中々にまことの道のこゝろにかなはざることあり、萬の事は、おこるもほろぶるも、さかりなるもおとろふるも、みな神の御心にしあれば、さらに人の力もて、えうごかすべきわざにはあらず、まことの道の意をさとりえたらむ人は、おのづから此ことわりはよく明らめしるべき也、26 道をおこなふさだ[七四]道をおこなふことは、君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの學ぶ者は、道を考へ尋ぬるぞつとめなりける、吾はかくのごとく思ひとれる故に、みづから道をおこなはむとはせず、道を考へ尋ぬることをぞつとむる、そもそも道は、君の行ひ給ひて、天の下にしきほどこらし給ふわざにこそあれ、今のおこなひ道にかなはざらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこゝろにあらず、下なる者はたゞ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひをる物にこそあれ、古ヘの道を考へ得たらんからに、私に定めて行ふべきものにはあらずなむ、27 から國聖人の世の祥瑞といふもの[七六]もろこしの國に、いにしへ聖人といひし者の世には、その德にめでて、麒麟鳳凰などいひて、ことごとしき鳥けだ物いで、又くさぐさめでたきしるしのあらはれし事をいへれども、さるたぐひのめづらしき物も、たゞ何となく、をりをりは出ることなるべきを、たまたま出ぬれば、德にめでて、天のあたへたるごといひなして、聖人のしるしとして、世の人に、いみしき事に思はせたるもの也、よろづにかゝるぞ、かの國人のしわざなりける、28 姓氏の事[七七]今の世には、姓(ウヂ)のしられざる人のみぞおほかる、さるはいかなるしづ山がつといへども、みな古ヘの人の末にてはあるなれば、姓のなきはあらざンなる事なるを、中むかしよりして、いはゆる苗字をのみよびならへるまゝに、下々なるものなどは、ことごとしく姓と苗字とをならべてなのるべきにもあらざるから、おのづから姓はうづもれ行て、世々をへては、みづからだにしらずなれる也、さて後になりのぼりて、人めかしくなれる者などは、姓のなきを、物げなくあかぬ事に思ひては、あるは藤原、あるは源平など、おのがこのめるを、みだりにつくこといと多し、すべて足利の末のみだれ世よりして、天の下の姓氏たゞしからず、皆いとみだりがはしくぞなれりける、その中に、近き世の人のなのる姓は、十に九つまでは、源藤原平也、そはいにしへのもろもろの氏々は絶て、此三氏(ミウヂ)のかぎり多くのこれるにやと思へば、さにはあらず、中昔よりして、此三うぢの人のみ、つかさ位高きは有て、他(ホカ)のもろもろの氏人どもは、皆すぎすぎにいやしくのみなりくだれるから、其人は有リながら、其姓はおのづからかくれゆきて、をさをさしる人もなく、絶たるがごとなれる也、又ひとつには、近き世の人は、古ヘのもろもろの姓をば、しることなくして、姓はたゞ源平藤橘などのみなるがごと心得たるから、おのが好みてあらたにつくも、皆これらのうちなるが故に、古ヘもろもろの姓はきこえず、いよいよ源平藤は多くなりきぬる也、又古ヘの名高くすぐれたる人をしたひては、その子孫ぞといひなして、學問するものは、菅原大江などになり、武士は多く源になるたぐひあり、すべて近き世は、よろしきほどの人々も、たゞ苗字をなんむねとはして、姓はかへりて、おもてにはたゝざるならひなる故に、おのが心にまかせて物する也、さて又ちかき年ごろ、萬葉ぶりの歌をよみ、古學をする輩は、又ふるき姓をおもしろく思ひて、世の人のきゝもならはぬ、ふるめかしきを、あらたにつきてなのる者はた多かるは、かの漢學者の、からめかして、苗字をきりたちて、一字になすと同じたぐひにて、いとうるさく、その人の心のをさなさの、おしはからるゝわざぞかし、いにしへをしたふとならば、古ヘのさだめを守りて、殊にさやうに、姓などをみだりにはすまじきわざなるに、かの禍津日ノ前の探湯(クカダチ)をもおそれざンなるは、まことに古ヘを好むとはいはるべしやは、そもそも姓は、先祖より傳はる物にこそあれ、上より賜はらざるむかぎりは、心にまかせて、しかわたくしにすべき物にはあらず、まことに其姓にはあらずとも、中ごろの先祖、もしはおほぢ父の世より、なのり來(キ)てあらんは、なほさても有べきを、おのがあらたに物せむことは、いといとあるまじきわざになむ、姓しられざらんには、たゞ苗字をなのりてあらむに、なでふことかはあらん、すべて古ヘをこのまむからに、よろづをあながちに古ヘめかさむとかまふるは、中々にいにしへのこゝろにはあらざるものをや、29 又[七八]よに源平藤橘とならべて、四姓といふ、源平藤原は、中昔より殊に廣き姓なれば、さもいひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入ぬるは、いかなるよしにかあらむ、おもふに嵯峨ノ天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ、かくて此四姓のことは、もろこしぶみにさへいへる、そはむかしこゝの人の物せしが、語りつらむを聞て、しるしたンなるを、かしこまでしられたることと、よにいみしきわざにぞ思ふめる、すべて何事にまれ、こゝの事の、かしこの書に見えたるをば、いみしきことにおもふなるは、いとおろかなることなり、すべてかの國の書には、その國々の人の、語れる事を、きけるまゝにしるせれば、なにのめづらしくいみしきことかはあらむ、30 神典のときざま[八五]中昔よりこなた、神典(カミノミフミ)を説(トク)人ども、古ヘの意言(ココロコトバ)をばたづねむ物とも思ひたらず、たゞひたぶるに、外國(トツクニ)の儒佛の意にすがりて、其理をのみ思ひさだして、萬葉を見ず、むげに古ヘの意言(ココロコトバ)をしらざるが故に、かのから意(ゴコロ)のことわりの外に、別(コト)にいにしへの旨(ムネ)ありて、明らかなることをえしらず、これによりて古ヘのむねはことごとくうづもれて、顯れず、神の御(ミ)ふみも、皆から意になりて、道明らかならざる也、かくておのが神の御書をとく趣は、よのつねの説どもとはいたく異にして、世々の人のいまだいはざることどもなる故に、世の學者、とりどりにとがむることおほし、されどそはたゞ、さきの人々の、ひたすら漢意にすがりて説(トキ)たる説(コト)をのみ聞なれて、みづからも同じく、いまだからごゝろのくせの清くさらざるから、そのわろきことをえさとらざるもの也、おのがいふおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古ヘの傳説(ツタヘゴト)のまゝ也、世の人々のいふは、みなそのまどひ居る漢意に説曲(トキマゲ)たるわたくしごとにて、いたく古ヘノ傳ヘ説(ゴト)と異也、此けぢめは、古事記書紀をよく見ば、おのづから分るべき物をや、もしおのが説をとがめむとならば、まづ古事記書紀をとがむべし、此御典(ミフミ)どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむることえじ、31 ふみよむことのたとへ[八九]須賀ノ直見がいひしは、廣く大きなる書をよむは、長き旅路をゆくがごとし、おもしろからぬ所もおほかるを經(ヘ)行ては、又おもしろくめさむるこゝちする浦山にもいたる也、又あしつよき人は、はやく、よわきはゆくことおそきも、よく似たり、とぞいひける、おかしきたとへなりかし、32 あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事[九〇]大かたよのつねにことなる、新しき説をおこすときには、よきあしきをいはず、まづ一わたりは、世中の學者ににくまれそしらるゝものなり、あるはおのがもとよりより來つる説と、いたく異なるを聞ては、よきあしきを味ひ考ふるまでもなく、始めよりひたぶるにすてて、とりあげざる者もあり、あるは心のうちには、げにと思ふふしもおほくある物から、さすがに近き人のことにしたがはむことのねたくて、よしともあしともいはで、たゞうけぬかほして過すたぐひもあり、あるはねたむ心のすゝめるは、心にはよしと思ひながら、其中の疵をあながちにもとめ出て、すべてをいひけたむとかまふる者も有リ、大かたふるき説をば、十が中に七ツ八ツはあしきをも、あしき所をばおほひかくして、わづかに二ツ三ツのとるべき所のあるをとりたてて、力のかぎりたすけ用ひんとし、新しきは、十に八ツ九ツよくても、一ツ二ツのわろきことをいひたてて、八ツ九ツのよきことをも、おしけちて、ちからのかぎりは、我も用ひず、人にももちひさせじとする、こは大かたの學者のならひ也、然れども又まれまれには、新なる説のよきを聞ては、ふるきがあしきことをさとりて、すみやかに改めしたがふたぐひも、なきにはあらず、ふるきをいかにぞや思ひて、かくはあらじかとまでは思ひよれども、みづから定むる力なくて、疑はしながら、さてあるなどは、あらたなるよき説をきゝては、かくてこそはと、いみしくよろこびつゝ、たりまちにしたがふたぐひも有かし、大かた新なる説は、いかによくても、すみやかには用ふる人まれなるものなれど、よきは、年をへても、おのづからつひには世の人のしたがふものにて、あまねく用ひらるれば、其時にいたりては、はじめにねたみそしりしともがらも、心には悔しく思へど、おくればせにしたがはむも、猶ねたく、人わろくおぼえて、こゝろよからずながら、ふるきをまもりてやむともがらも多かり、しか世ノ中の論さだまりて、皆人のしたがふよになりては、始メよりすみやかに改めしたがひつる人は、かしこく心さとくおもはれ、ふるきにかゝづらひて、とかくとゞこほれる人は、心おそくいふかひなく思はるゝわざぞかし、33 又[九一]此ちかき年ごろとなりてはやうやうに古學のよきことを、世にもしれるともがらあまた出来て、物よくわきまへたる人は、おほく契沖をたふとむめり、そもそも契沖のよきことをしるものならば、かれよりもわが縣居ノ大人の、又まさりてよきことは、おのづからしるらんに、なほ契沖にしもとゞまりて、今一きざみえすゝまざるは、いかにぞや、又縣居ノ大人まではすゝめども、其後の人の説は、なほとらじとするも、同じことにて、これみな俗(ヨ)にまけをしみとかいふすぢにて、心ぎたなきわざなるを、かならず學者のこゝろは、おほくさるものなりかし、34 儒者名をみだる事[九三]孔丘は、名を正すをこそいみしきわざとはしつれ、此方(ココ)の近きころのじゆしやは、よろづに名をみだることをのみつとむめり、そが中に、地(トコロ)の名などを、からめかすとて、のべもつゞめもかへも心にまかせて物するなどは、なほつみかろかるべきを、おほやけざまにあづかれる、重き名どもをさへに、わたくしの心にまかせて、みだりにあらため定めて書クなるは、いともいとも可畏(カシコ)きわざならずや、近き世に或ル儒者の、今の世は、萬ヅ名正しからず、某(ソレ)をば、今はしかしかとはいふべきにあらず、しかしかいはむこそ正しけれ、などいひて、よろづを今の世のありさまにまかせて、例の私に物せるは、いかなるひが心得ぞや、そもそもかの孔丘が名を正せるやうは、諸侯どものみだりなる、當時(ソノトキ)のありさまにはかかはらずて、ひたぶるに周王のもとの定めをこそ守りつれ、かの或ル儒者のごと、古ヘよりのさだめにもかゝわらず、今の名にもしたがはず、たゞ今の世のありさまにまかせて、わたくしにあらたに物せむは、孔丘が春秋のこゝろとは、うらうへにて、ことさらに名をみだることの、いみしきものにこそ有けれ、皇國は、物のありさまは、古ヘとかはりきぬるも、名は、物のうつりゆく、其時々のさまにはしたがはずして、今の世とても、萬ヅになほ古ヘのを守り給ふなるは、いともいとも有がたく、孔丘が心もていはば、名のいとただしきにこそありけれ、さるをかへりてただしからずとしもいふは、何につけても、あながちに皇國をいひおとさむとする心のみすゝめるからに、そのひがことなることをも、われながらおぼえざるなめり、35 松嶋の日記といふ物[九七]清少納言が年老て後に、おくの松嶋に下りける、道の日記とて、やがて松しまの日記と名づけたる物、一冊あり、めづらしくおぼえて、見けるに、はやくいみしき偽書(イツハリブミ)にて、むげにつたなく見どころなき物也、さるはちかきほど、古學をする者の作れる口つきとぞ聞えたる、すべて近き年ごろは、さるいつはりぶみをつくり出るたぐひの、ことに多かる、えうなきすさびに、おほくのいとまをいれ、心をもくだきて、よの人をまどはさんとするは、いかなるたぶれ心にかあらむ、よく見る人の見るには、まこといつはりは、いとよく見えわかれて、いちじるけれど、さばかりなる人は、いといとまれにして、えしも見わかぬもののみ、世にはおほかれば、むげの偽リぶみにもあざむかれて、たふとみもてはやすなるは、いともいともかたはらいたく、かなしきわざ也、近きころは、世中にめづらしき書をえうずるともがら多きを、めづらしきは、まことの物ならぬがおほきを、さる心して、よくえらぶべきわざぞかし、菅原ノ大臣のかき給へりといふ、須磨の記といふ物などは、やゝよにひろごりて、たれもまことと思ひたンめる、これはたいみしき偽リ書なるをや、かかるたぐひ數しらずおほし、なずらへて心すべし、36 ふみども今はえやすくなれる事[一〇二]二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、たゞちかき世の歌ぶみをのみ學びて、萬葉をまなぶことなく、又神學者といふ物も、たゞ漢ざまの理をのみさだして、古ヘのまことのこゝろをえむことを思はねば、萬葉をまなぶことなくて、すべて萬葉は、歌まなびにも、道の學びにも、かならずまづまなばでかなはぬ書なることを、しれる人なかりき、されば、契沖ほうし、むねと此集を明らめて、古ヘの意をもかつがつうかゞひそめて、はしばしいひおきつれども、歌人も神學者も、此しるべによるべきことをしれる人なかりしかば、おのがわかくて、京にありしころなどまでは、代匠記といふ物のあることをだにしれる人も、をさをさなかりければ、其書世にまれにして、いといとえがたく、かの人の書は、百人一首の改觀抄だに、えがたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人にかりて見て、かはばやと思ひて、本屋(フムマキヤ)をたづねたりしに、なかりき、板本(スリマキ)なるにいかなればなきぞととひしかば、えうずる人なき故に、すり出さずとぞいへりける、さてとかくして、からくしてぞえたりける、そのころまでは、大かたかゝりけるに、此ちかき年ごろとなりては、寫本(ウツシマキ)ながら代匠記もおほく出て、さらにえがたからずなりぬるは、古學の道のひらけて、えうずる人おほければぞかし、さるは代匠記のみにもあらず、すべてうつしまきなる物は、家々の記録などのたぐひ、その外の書どもも、いといとえがたかりしに、何も何も、今はたやすくえらるゝこととなれるは、いともいともめでたくたふとき、御代の御榮(ミサカ)えになん有ける、37 おのが物まなびの有しやう[一〇三]おのれいときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よりづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるははかばかしく師につきて、わざと學問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞからのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに、十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき、かくてはたちあまりなりしほど、學問しにとて、京になんのぼりける、さるは十一のとし、父におくれしにあはせて、江戸にありし、家のなりはひをさへに、うしなひたりしほどにて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒學をもせむとてなりけり、さて京に在しほどに、百人一首の改觀抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、餘材抄勢語臆斷などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、さるまゝに、今の世の歌よみの思へるむねは、大かた心にかなはず、其歌のさまも、おかしからずおぼえけれど、そのかみ同じ心なる友はなかりければ、たゞよの人なみに、ここかしこの會などにも出まじらひつゝ、よみありきけり、さて人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたててよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける、そはさるべきことわりあり、別にいひてん、さて後、國にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辭考といふ物を見せたるにぞ、縣居ノ大人の御名をも、始めてしりける、かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしもいできければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出來つゝ、つひにいにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ、かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が萬葉の説(トキゴト)は、なほいまだしきことのみぞ多かりける、おのが歌まなびの有リしやう、大かたかくのごとくなりき、さて又道の學びは、まづはじめより、神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたててわざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも學ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇國のいにしへの意をおもふに、世に神道者といふものの説(トク)おもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬれば、師と賴むべき人もなかりしほどに、われいかで古ヘのまことのむねを、かむかへ出む、と思ふこゝろざし深かりしにあはせて、かの冠辭考を得て、かへすかへすよみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへてせちなりしに、一年此うし、田安の殿の仰セ事をうけ給はり給ひて、此いせの國より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へるを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみしくゝちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎやどりにまうでて、はじめて見え奉りたりき、さてつひに名簿を奉りて、敎ヘをうけ給はることにはなりたりきかし、38 あがたゐのうしの御さとし言[一〇四]宣長三十あまりなりしほど、縣居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典(ミフミ)をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意をたづねえずはあるべからず、然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に、吾はまづもはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし、たゞし世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ、わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ、ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみ説(トケ)る趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける、39 おのれあがたゐの大人の敎をうけしやう[一〇五]宣長、縣居ノ大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、その後はたゞ、しばしば書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける、そのたびたび給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつととらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬる、さて古事記の注釋を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ巻をば、考へ給へる古言をもて、假字がきにし給へるをも、かし給ひ、又中ツ巻下ツ巻は、かたはらの訓を改め、所々書キ入レなどをも、てづからし給へる本をも、かし給へりき、古事記傳に、師の説とて引たるは、多く其本にある事ども也、そもそも此大人、古學の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら萬葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむかへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どももおほし、されば道を説(トキ)給へることも、こまかなることしなければ、大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はしばしいさゝかづゝのたまへるのみ也、又からごゝろを去(サ)れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり、40 師の説になづまざる事[一〇六]おのれ古典(イニシヘブミ)をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかンめれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、敎ヘられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也、大かた古ヘをかむかふる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめつくすべくもあらず、又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤リもなどかなからむ、必わろきこともまじらではえあらず、そのおのが心には、今はいにしへのこゝろことごとく明らか也、これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむかへもいでくるわざ也、あまたの手を經(フ)るまにまに、さきざきの考ヘのうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふかひなきわざ也、又おのが師などのわろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者その説にまどひて、長くよきをしるごなし、師の説なりとして、わろきをしりながら、いはずつゝみかくして、よさまにつくろひをらんは、たゞ師をのみたふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み古ヘを思ひて、ひたぶるに道の明らかならん事を思ひ、古ヘの意のあきらかならんことをむねと思ふが故に、わたくしに師をたふとむことわりのかけむことをば、えしもかへり見ざることあるを、猶わろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし、われは人にそしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古ヘの意をまげて、さてあるわざはえせずなん、これすなはちわが師の心なれば、かへりては師をたふとむにもあるべくや、そはいかにもあれ、41 わがをしへ子にいましめおくやう[一〇七]吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、42 五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事[一〇八]小篠大記御野(ミヌ)といふ人は、石見ノ國濱田の殿のじゆしやにて、おのが弟子(ヲシヘノコ)也、天明八年秋のころ、肥前ノ國の長崎に物して、阿蘭陀人(オランダビト)のまうで來てあるに逢いて、音韻の事どもを論じ、皇國の五十音の事をかたりて、そを其人にとなへさせて聞しに、和のくだりの音をば、みな上にうを帶て、ゐはういの如く、ゑはうえのごとく、をはうおのごとくに呼て、いえおとはひとしからず、よく分れたり、こは何をもて然るぞと問ヒしかば、はじめの和にならへば也とぞいへりける、かの國のつねの音も、このけぢめありとぞ、此事おのが字音かなづかひにいへると、全くあへりとて、いみしくよろこびおこせたりき、なほそのをりの物がたりども、何くれといひおこせたりし中に、おかしき事どもあれど、こゝにはもらしつ、玉かつま三の巻たちばな三立よればむかしのたれと我ながらわが袖あやしたちばなのかげこれは題よみのすゞろごとなるを、とり出たるは、ことされめきて、いかにぞやもおぼゆれど、例の巻の名つけむとてなむ、43 から國にて孔丘が名をいむ事[一一二]もろこしの國に、今の清の代に、その王が、孔子の諱(イミナ)を避(サク)とて、丘ノ字の畫を省(ハブ)きてかくことをはじめて、秦漢より明にいたるまで、夫子を尊むことをしらざりしといひて、いみしげにみづからほこれども、これいとをこなること也、もしまことに孔丘をたふとむとならば、其道をこそよく行ふべきことなれ、その道をば、全くもおこなはずして、たゞいたづらに、其人のみをたふとまんは、なにのいみしき事かあらむ、其道をだによく行ひなば、いにしへよりいむことなくて有リ來つる、其もじは、今さらいまずとて、なでふこたかあらむ、これたゞ道をたふとみがほして、世の人にいみしく思はせむためのはかりこと也、すべてかの國人のしわざは、大かたいにしへよりかくのごとくにて、聖賢といふ物をたふとむを、いみしき事にすなるは、みなまことに尊むにはあらず、名をむさぼるしわざ也、44 から人のおやのおもひに身をやつす事[一二二]もろこしの國の、よゝの物しり人どもの、親の喪(オモヒ)に、身のいみしくやつれたるを、孝心ふかき事にして、しるしたるがあまたある中には、まことに心のかなしさは、いとさばかりもあらざりけむを、食物をいたくへらしなどして、痩(ヤセ)さらぼひて、ことさらにかほかたりをやつして、いみしげにうはべを見せたるがおほかりげに見ゆるは、例のいといとうるさきわざなるを、いみしき事にほめたるも又をこ也、うせにし親を、まことに思ふ心ふかくは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病などもおこりて、もしはからず、なくなrなどもしたらむには、孝ある子といふべしやは、たとひさまでにはいたらずとも、しかいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、おやはさこそこゝろぐるしく思はめ、いかでかうれしとは見む、さる親の心をば思はで、たゞ世の人めをのみつくろひて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ、すべて孝行も何わざも、世にけやけきふるまひをして、いみしき事に思はするは、かの國人のならひにぞありける、45 富貴をねがはざるをよき事にする諭ひ[一二三]世々の儒者、身のまづしく賤きをうれへず、とみ榮えをながはず、よろこばざるを、よき事にすれども、そは人のまことの情(ココロ)にあらず、おほくは名をむさぼる、例のいつはり也、まれまれにさる心ならむもの有とも、そは世のひがものにこそあれ、なにのよき事ならん、ことわりならぬふるまひをして、あながちにながはむこそは、あしからめ、ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富(トミ)さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ、身おとろへ家まづしからむは、うへなき不孝にこそ有けれ、たゞおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝をわするゝも、又もろこし人のつねなりかし、46 神の御ふみをとける世々のさま[一三三]神御典(カミノミフミ)を説(トク)事、むかしは紀傳道の儒者の職(ワザ)にて、そのとける書、弘仁より代々の、日本紀私記これ也、そはいづれも、たゞ漢學の餘力(チカラノアマリ)をもて考へたるのみにして、神御典(カミノミフミ)をまはら學びたるものにあらざるが故に、古ヘの意詞(ココロコトバ)にくらく、すべてうひうひしく淺はかにて、もとより道の趣旨(オモムキ)も、いかなるさまとも説(トキ)たることなく、たゞ文によりて、あるべきまゝにいへるばかり也、然れども皇朝のむかしの儒者は、すべてから國のやうに、己が殊にたてたる心はなかりし故に、神の御ふみをとくとても、漢意にときまげたる、わたくし説(ゴト)もをさをさ見えず、儒意(ジュゴコロ)によれる強説(シヒゴト)もなくて、やすらかにはありしを、後ノ世にいたりては、ことに神學といふ一ながれ出來て、もはらにするともがらしあれば、つぎつぎにくはしくはなりもてゆけど、なべての世の物しり人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみをとく者も、さかしらをさきにたてて、文のまゝには物せず、おのが好むすぢに引つけて、あるは儒意に、ときまぐることとなれり、さていよいよ心さかしくなりもてゆくまゝに、近き世となりては、又やうやうに、かの佛ごゝろをまじふるが、ひがことなることをさとりて、それをば、ことごとくのぞきてとくこととなれり、然れどもそれは、まことに古ヘの意をさとりて然るにはあらず、たゞ儒意のすゝめるから、いとへるもの也、さる故に、近き世に、神の道とて説(トク)趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなはず、このともがら、かの佛に流れたることのひがことをばしりながら、みづから又儒にながるゝことを、えさとらざるは、いかにぞや、かくして又ちかき世には、しか儒によることのわろきをも、やゝしりて、つとめてこれをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、それはたいまだ清く漢意をはなるゝことあたはで、天理陰陽などいふ説をば、なほまことと心得、ともすれば、例のさかしらの立いでては、高天ノ原を帝都のこととし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神(ワタツミ)ノ宮を、一つの嶋也とするたぐひ、すべてかやうに、おのがわたくしの心をもて、さまざまに説曲(トキマゲ)ることをえまぬかれざるは、なほみな漢意なるを、みづからさもおぼえざるは、さる癖(クセ)の、世の人のこゝろの底に、しみつきたるならひぞかし、玉勝間四の巻わすれ草四からぶみの中に、とみにたづぬべき事の有て、思ひめぐらすに、そのふみとばかりは、ほのかにおぼえながら、いづれの巻のあたりと。

日本的神道的评论

日本的神道的评论

日本的神道的评论 4提示: 有关键情节透露中国对于日本来说,始终是一个巨大的他者。

在宗教层面,对两国同样影响巨大的是佛教,佛教对这两个国家来说都是他者。

中国在接受佛教之前存在的是不成体系的道家思想、宗教色彩浓厚的儒家学说、各种民间宗教以及历史悠久的祖先崇拜。

佛教传入中国,凭借成熟的理论与新颖的思想迅速在中国站稳了脚跟,此后中国的宗教体系才得以建立起来,道教也是在与佛教不断的斗争中成长起来的。

日本也是如此,在佛教传入日本之前,日本亦不存在成熟的宗教(实际上,佛教传入日本时尚称“倭国”,而无“日本”的称法,日本二字已暗含了某些神道思想)。

佛教成熟的理论在日本同样是迅速站稳了脚跟,慢慢地日本思想界中开始有人意识到佛教始终是一种外来物,寻求一种本土宗教与之对抗便成了他们的课题,于是在佛教发展的大背景下,日本的神道也迅速成熟起来。

只是神道的先天不足使得之不得不沦为佛教的从属,平安时代中期产生的“本地垂迹”说确立了佛主神从的地位,神变成了佛在日本的“垂迹”。

天平宝字七年(公元763年),伊势国多度山的多度大神居然通过附身人体,降下神谕称“吾历经久劫作深重罪业,故受神道之报。

今冀永离神身,欲归三宝。

”([日]义江彰夫:《日本的佛教与神祇信仰》)就这样,以多度大神为代表,日本全国各地的神灵纷纷要求皈依三宝,神宫寺在全国建立起来,僧侣执掌神宫寺,在神像前诵读佛经,佛教仪式大行其道,神道不振一至于斯。

佛教气焰日盛但也渐渐堕落,人们对佛教渐渐开始不满,这也就为神道摆脱对佛教的依附提供了契机,伊势神道的建立就是在这种背景下产生的。

以度会延加为首的神道家们开始有意识的排除神道中的佛教因子,明确神佛的不同,提出神道自身的风俗,确立了神道自身的戒律。

这是神道对于来自中国的“外来物”进行的第一次大反抗。

进入13世纪,以“程朱理学”为代表的宋学传入日本后迅速得到统治者的青睐,贯穿德川幕府始终的官学正是朱子学。

于是,神道刚刚摆脱了佛教的压制,神道和儒道的结合又开始了。

日本文学(1)

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主要人物关系
1—44回 右大臣 大纳言 ↓ ↓ 弘徽殿女御 桐壶天皇 桐壶更衣 藤壶女御 ↓ ↓ ↓ 葵姬↓ 紫姬 空蝉↓ 三公主 轩端荻 ↓ ↓ ↓ ↓ 大皇子(朱雀帝 ) 源氏 → → → 冷泉帝 ↓ 明石姬 夕颜 末摘花 六条御息所 花散里 源内侍 胧月夜 玉曼 ↓ 45—54回 薰君
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紫式部与《源氏物语》
(一)生平与创作 1、《源氏物语》的作者是谁? 2、“紫式部”的由来 3、文学世家、“才女” 4、青年丧夫、入宫为官 5、主要作品:《源氏物语》、《紫式部日记》、 《紫式部家集》
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紫式部
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《古今和歌集》
和歌:日本的一种诗歌体,区别于汉诗,是 日本最早形成的一种独立文学形态。长歌、短 歌、片歌、连歌等形式,均由五、七音节相配 交叉而成。 长歌在七句以上,形式是“五七五七”音节 交替反复多次,最后以“五七五七七”音节结 尾;短歌由五七五、七七共31个音节构成; 《古今和歌集》全20卷,收入和歌总数共计 1100余首。主要作者是中下层贵族知识分子和 僧侣。从性质上可分为和歌、歌谣;从形式上 可分为短歌、杂体、大歌所体、神乐歌等;从 提出看可分为四季歌、贺歌、离别歌、恋歌等 ,分类意识明确。
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《竹取物语》
日本最早的物语文学,讲述 生于竹心的美貌姑娘赫映姬 的神话故事。“人”的内心 世界,在日本文学发展史上 第一次得到了生动展现。赫 映姬性格中的沉静、机智、 矛盾和忧郁通过精细的语言 技巧和华美的词藻展现出来, 将真实性与传奇性、现实与 理想、美与丑、幻灭与永生 对立而又和谐地融合在一个 整体中。

日本“物哀”的审美释义

日本“物哀”的审美释义

日本“物哀”的审美释义作者:李玲莹牟月来源:《大观》2020年第04期摘要:“物哀(もののあはれ)”是日本江户时代国学学者本居宣长在分析紫式部的《源氏物语》时提出的文学理念。

20世纪40年代后被诸多学者认定为审美形态进行研究。

“物哀”的释义为“主体对客观自然万物的直观感受”,在日语构词体系中“物”与“哀”都可作动词,分别释义。

作为审美形态来讲,理解“物哀”一词最重要的是有“知物哀”之心。

关键词:物哀;物哀美学;知物哀一、什么是“物哀”“物哀”出自《土佐日记》,可译为:“船夫不理解这景物对人的触动(船頭はこの物悲しい気持ちが分かりません)。

” “物”与“哀”最早作为日语当中的常用语出现,“物”是指自然万物,客体;“哀”作为日语原出词,不仅有“怜悯”“哀伤”之意,也代表“噫吁嚱”等感叹词。

日本的和歌、物语等文学作品多用此词,《源氏物语》中引用最多。

“物哀”一词出现于日本江户时代,原出只有“哀”一词,而后系统化为“物哀”,依据本居宣长对《源氏物语》的分析以及日本和歌,确定了文学理念。

最早的审美理念出现于诗歌总集《万叶集》。

“物哀”是第一个公认的标志着日本文学独特性的关键概念。

作为汉语词,“物”可解释为“本体所感知的自然万物”。

“哀”一词在日语中不单单表示“悲哀、哀伤”,早期物语文学中有多种释义,“心之所触,情之所动”都称为“哀”。

在出现最多的《源氏物语》中,有“同情、寂寥、有情趣”之意,感伤的意味更浓。

在《竹取物语》中指“爱惜与怜悯”。

《大和物语》《落洼物语》中有“引人怀念”的意味。

“物哀”是人类对自然万物产生的情怀感叹,这种“感叹”具有丰富性,可以是怜悯、疼惜,也可以是赞叹、壮丽,是人类接触万物后产生的自然情绪的记录。

二、“物哀”美学的演变过程语义词到美学概念是历史演变与逻辑递进的表现。

中国国学学者王向远曾经指出,对于“哀”的研究是笼统且复杂的,相较于“幽玄”“风雅”等词,“哀”的出处更深远,涉及的层面更广。

日本的“国粹主义”哲学思潮演变路径探悉

日本的“国粹主义”哲学思潮演变路径探悉

日本的“国粹主义”哲学思潮演变路径探悉作者:史少博来源:《人文杂志》2015年第01期内容提要“国粹主义”词语的使用,虽然是从日本明治维新开始流行,但其思潮的萌芽要追溯到江户时代的本居宣长和他的师长贺茂真渊,甚至更早。

贺茂真渊以及他的弟子,特别推崇日本的固有精神,初步确立了日本民族国权主义的理论基础,日本“国粹主义”思潮开始萌芽。

江户时代以后日本进入明治时代,日本实施了“脱亚入欧”政策,全面实行西化,在明治维新前期就掀起了一场文明开化运动,于是,反对盲目欧化的“国粹派”出现,明治二十年代以后,“国粹主义”抵抗当时日本的全盘西化,抵御西方价值观、人生观的侵蚀,保持日本应有“国粹”的“国粹主义”思想的哲学思潮,逐渐成为当时日本的主流哲学思潮之一,到中日甲午战争以后,日本的“国粹主义”成为其自身演化的关节点,而当今社会,“国粹主义”又演化成为日本右翼复活军国主义的理论依据。

关键词“国粹主义”思潮演变〔中图分类号〕B313〔文献标识码〕A〔文章编号〕0447-662X(2015)01-0023-05“国粹”词语是由英语Nationality转译而来,最初有“民族”“民族性”“民族精神”等意。

“国粹”二字,究其字义,按字典解释是指一个国家固有文化中的精华,或指一个民族的传统文化中最具有代表性和最富有独特内涵的深受不同时代的人们欢迎的文化遗产。

日本三宅雪岭认为“国粹”是“一种无形的精神;一个国家特有的财产;一种其他国家无法模仿的特性。

”①志贺重昂认为:“所谓的国粹,受一定的外界事物的感化,并遇到了合适的条件与之发生了化学反应,经过了孕育,生产,成长最终发达而存在于日本的国土之中,而在大和民族中间经过上万年遗传、化醇而来,最终保存到了当代,所以我们应该鼓励其发育成长,以她作为大和民族现在未来改良的标准,这样才顺应生物学的大原则。

”②汉语字典中列出的“国粹”同义词是“国学”。

“国粹主义”按照维基百科自由的百科全书解释:“国粹主义是一种将一切本国思想文化放在最优先位的价值观、思想。

日本文学中的歌、神歌、和歌、连歌关联考

日本文学中的歌、神歌、和歌、连歌关联考

日本文学中的歌、神歌、和歌、连歌关联考作者:徐凤来源:《外国问题研究》2015年第03期[内容摘要] 日本文学中最早的歌是神歌,神歌是和歌的前身,和歌是连歌的母体,连歌被称为最具日本特色的文艺形式。

本文在语源考据和史料分析的基础上,从文学视野出发,考察了日本的歌、神歌、和歌、连歌在概念所指、基本起源两方面的关联性,分析了日本的歌、神歌、和歌、连歌这几个文学术语的广义概念和狭义概念,提出了歌、神歌、和歌、连歌之起源说的不同看法。

[关键词] 日本的歌;神歌;和歌;连歌;关联性[中图分类号] I313.072 [文献标识码] A [文章编号] 1674-6201(2015)03-0061-06自1980年代以来,中国有关日本古典诗歌的研究从来没有间断过,但一直是波澜不惊,且大多数的研究成果都是有关日本和歌的歌风意境、文化内涵和汉译形式方面的。

代表性的成果有《日本中世和歌理论与我国儒、道、佛》(赵乐甡,《外国文学评论》1991年第3期)、《日本和歌的修辞技巧——以双关和缘语为中心》(高文汉,《解放军外国语学院学报》2009年第1期)、《日本和歌格律探源》(王勇,《日语学习与研究》1990年第3期)、《日本古典短歌诗型中的汉文学形态》(严绍璗,《北京大学学报》1982年第5期)。

《说连歌》(缪伟群,《外国问题研究》1986年第2期)和叶渭渠的《日本文化史》、《日本文学史古代卷》以及王向远的《日本古典文学选译》等著作中出现有关日本文学的歌、神歌、和歌与连歌的论述。

以上成果都笼统地出现了歌、歌谣、和歌、连歌等概念,但都没有具体论述三者之间的关联。

日本文学中所说的歌、和歌、连歌都有宏观和微观、广义和狭义两种解释,考据这些术语概念有利于我们具体把握日本民族文学中最基本的范畴概念,同时对日本学者的相关说法进行商榷。

一、歌、神歌、和歌、连歌的概念所指何谓“歌”?藤原滨成在《歌经标式》里说“夫歌者,感鬼神之幽情,慰天人之恋心者也”[1]17。

道家哲学对日本近世复古神道的影响

道家哲学对日本近世复古神道的影响

道家哲学对日本近世复古神道的影响作者:张谷来源:《日本问题研究》2013年第02期摘要:日本神道一直以不同方式受到由中国传入的佛、道、儒文化的影响,其中道家的哲学思想对神道理论的发展起到了极为重要的作用。

这在近世神道的两个重要代表人物贺茂真渊和本居宣长的思想中有明显体现。

他们批评儒佛,以标榜其不受外来文化影响的原发性和纯粹性,但对道家却有不同程度的肯定,如接受道家“自然”、“无为”观念和“贵真”思想,继承道家“贵柔”思想等。

复古神道在激烈地排斥外来文化的同时,却对作为外来文化之一的道家思想有所肯定和吸收,主要原因在于道家哲学的性质与复古神道的异质性和批判性合拍。

关键词:道家哲学;日本近世神道;复古神道;贺茂真渊;本居宣长中图分类号:B313 文章编号:A 文章编号:1004-2458(2013)-02-0014-07中国古代思想文化自古就传播到日本,对日本文化产生了深远影响。

神道教(简称“神道”)虽为日本土生土长的宗教,仍与中国文化有割不断的联系。

在其自原始形态经古代、中世、近世直到近现代漫长的演变和发展过程中,神道一直以不同方式受到由中国传入的佛、道、儒文化的影响,其中道家的哲学思想对神道理论的发展起到了极为重要的作用。

近世(17世纪初—19世纪60年代)以后,一方面,由于儒学成为幕府官学,促进了儒、神的接近,于是出现了神儒结合的神道流派,如理当心地神道、近世度会神道、吉川神道、垂加神道等;另一方面,复古神道异学突起,既成为近世神道重要的一支,也成为日本近世文化的重要方面。

要考察道家哲学与近世神道的关系,复古神道一派最值得注意。

一、复古神道及其道家观复古神道(或称古学神道[1] 、国学神道)的宗旨是复古,即返回日本的古代文化精神(所谓“古道”)。

它反对神道依附于外来思想,反对用儒、佛来解释神道,试图寻找神道独立的精神源头,于是主张即通过对日本的古代典籍如《古事记》、《日本书纪》、《万叶集》等的语言学和文献学研究,揭示和弘扬日本在中国文化传入之前固有的文化和精神,这种学问称为“国学”。

本居宣长的学术方法论探析——以《初山踏》为中心

本居宣长的学术方法论探析——以《初山踏》为中心

2016年12月第31卷第23期渭南师范学院学报Journal of Weinan Nor^nal UniversityDec. 2016Vol.31No.23【语言文化与文学研究】本居宣长的学术方法论探析—以《初山踏》为中心雷晓敏I,2(1.广东外语外贸大学外国文学文化研究中心,广州510420;2.兰卡斯特大学英文与创意写作系,英格兰兰卡斯特市,LA1 4YW,UK)摘要:日本江户时代国学家本居宣长的学术方法论集中表述在其作品《初山踏》一书中。

细读此 书,不难发现他的学术方法论中有一定的可取之处。

具体表现在三个方面:一是学者做学问的立场问题,他思考日本学界里中国文化的主导问题;二是学者做学问要阅读日本古籍,寻找日本文化的“原意”;三是 学者做学问要有批判精神,要辨析好坏,坚持不盲从定说的治学态度。

关键词:本居宣长;学术方法论;《初山踏》;王充中图分类号:1054 文献标志码:A文章编号=1009-5128(2016)23-0054-05收稿日期=2016-10-20基金项目:国家社会科学基金项目:本居宣长“物哀”论综合研究(15BWW018)作者简介:雷晓敏(1976—),女,陕西咸阳人,广东外语外贸大学外国文学文化研究中心教授,文学博 士,英国兰卡斯特大学访问研究员,主要从事中日比较文学和人文学研究。

近年来,本居宣长的“物哀论”成了中日文学 理论比较研究的一个焦点问题。

本居宣长的学术 方法至今还鲜为人知。

本文以其著作《初山踏》为 中心,研究本居宣长做学问的方法论。

刘熙武先生 在光明日报上发表了《求学四“道”》一文,他认为:“求学问道本身是门学问,要掌握其中的方法,绝 非易事,需要在长期的实践中摸索,才能悟出点 ‘道’来。

总结起来:就是勤读书、多实践、少浮躁、善执着。

”[1]这些真知灼见是做学问的好方法。

本 居宣长关于学术方法的论述也有“多读古书、持之 以恒”等言说,尤其是对做学问的立场,态度也有 其引人思考的见解。

日本“古学”与“国学”的各自分工及学理关联

日本“古学”与“国学”的各自分工及学理关联

日本“古学”与“国学”的各自分工及学理关联作者:韩东育来源:《求是学刊》2009年第01期摘要:“古学”与“国学”,是日本近世两大重要的思想流派。

各自的集大成者荻生徂徕和本居宣长,取向上有差异,话语上有分别,但学脉上有关联,观点上有承袭。

在将实用主义和民族主义同时植入自己学说体系内,并为它们营造可以连续生长的文化环境乃至政治环境的问题上,两者间并无龃龉,且成为日本近世思想链条上前后衔续、难以分断的两大逻辑连环。

关键词:古学派;国学派;荻生徂徕;本居宣长;实用主义;民族主义作者简介:韩东育(1962—),男,吉林通榆人,东北师范大学历史文化学院教授,博士生导师,从事东亚思想史研究。

基金项目:教育部“新世纪人才支持计划”项目,项目编号:NCET-05-0323中图分类号:K313.36 文献标识码:A 文章编号:1000-7504(2009)01-0126-08收稿日期:2008-12-05“古学派”,是兴起于江户时代前期、以反对朱子学和阳明学为主旨、主张不依赖宋明儒注释而直接研究中国古典经书的学术流派。

该学派始于山鹿素行的“圣学”,继之以江户中期伊藤仁斋的“古义学”,集大成于荻生徂徕的“古文辞学”。

三者间风格不同但宗旨接近,历来被日本学界称为江户日本最富于“独创性”的学说体系。

与之不同,兴起于江户中期的“国学派”,是通过文献学的方法来研究《古事记》、《日本书纪》、《万叶集》等日本古典文献的学术派别。

该学派以究明儒教和佛教传到日本前日本固有的文化为职责,表现出与“汉学”明显的对立色彩。

学派初祖为契冲,经荷田春满、贺茂真渊的积淀而集大成于本居宣长。

基于它过于强调神道皇统意义这一事实,因此,该学派亦被称为“国学神道”派或“皇学”派。

由于“与朱子学的对决,至少已成为江户时代前、中期儒者在确立自觉思想过程中所不可避免的宿命”[1](P454),因此,在否定理学的意义上,“古学”与“国学”之间一直保持着高度的一致;又由于两者的学术手法总是表现出相当的不同,因此,名称上的区别俨然使二者的学派属性判若异途。

个人总结-[每个人都有自己的人生,日本“私小说”面面观] 人生自古谁无死

个人总结-[每个人都有自己的人生,日本“私小说”面面观] 人生自古谁无死

个人总结-[每个人都有自己的人生,日本“私小说”面面观]人生自古谁无死“私小说”产生于上个世纪初的日本,是日本文学中最为独特和重要的一个部分。

近年来,越来越多的“私小说”作品被中国读者所熟知,它们风格各异,内容更是大相径庭,可读者们却从中读到了同一句话:对于自己的人生,我们都有发表感受的绝对权利。

私小说的底色:日本式的美丽与哀愁日本文学的独特风貌脱胎于日本人骨子里充满悲剧感的民族性。

千百年来,日本居于四面临海的一隅之岛,自然环境优美但资源匮乏,依赖自然,却又深受自然的不确定性所左右,加之日本的佛禅传统,使日本人的血液中从古至今都流淌着“转瞬即逝”的虚无之感。

所以在日本文学中,爱与悲哀永远互为表里,相伴出现,爱亦无常,死亦无常,越是美到极致,越是注定消散。

日本人的这种悲剧感,正如他们对樱花的眷恋。

本居宣长曾经说过:“如果问什么是宝岛的大和魂?那就是旭日中飘香的山樱花。

”一夕绚烂,转瞬即逝的樱花,叠合了日本人对自身命运绝望的感伤,也镜映出他们习于将自身与自然合一,把自然风物的变迁楔入人物的意识之中,物我融合,借自然来表现人物感情世界的嬗变。

这种“察其美,怜其殇”的“物哀”美学,发端于平安朝的《源氏物语》,到川端康成的名作《雪国》、《古都》达到高峰,充满幽玄之美的东山魁夷,以写男女情事闻名的渡边淳一,都将自然的美与哀作为自己最重要的主题和线索。

川端康成自己也常说:“悲哀这个词与美是相通的”。

正是在这样的文化风土之中,才会衍生出深具日本特色的“私小说”。

很多人望文生义,认为所谓“私小说”就是写自己的隐私,事实上远不止这么简单。

它的出现承袭了日本文学的细腻观察传统,虽是由“观外”转向“内观”,却实际将“我”当作自然生态的一种,以观察自然的态度静静赏玩自身的情感起伏,并不加矫饰地呈现深埋于灵魂之中的激烈与绝望,自然流露出其“美”与“悲哀”。

尤其是对于性的书写,在日本“私小说”中是异常重要的主题,这也是日本“物哀”美学的特点之一。

本居宣长有着哪些作品?他的作品都有着什么含义

本居宣长有着哪些作品?他的作品都有着什么含义

本居宣长有着哪些作品?他的作品都有着什么含义本文导读:本居宣长(1730 —1801)出生在伊势松坂一个富裕的商贾人家,原名小津富之助、荣贞,后改为宣长。

通称弥四郎、健藏,号铃屋。

青年时期学医于京都。

后又师事儒学家堳景山。

宝历七年(1757)回到故乡以医为生计。

同时热心于日本古典的研究。

之后又拜贺茂真渊为师,开始以《古事记》为主要研究对象。

宽政十一年(1799)撰成《古事记传》,是所谓国学之体系化的总论,影响很大。

其与契冲、荷田春满、贺茂真渊被称之为国学四大家。

宣长弟子众多,有近500人。

其中,平田笃胤、伴信友被称为该门的双璧。

宣长一生著作等身,著书90种,260余卷,涉及多种领域,如有阐述古道论的《直灵》(明和8年,公元1771年)、《万叶集玉小琴》(安永8年,公元1779年)、《古今集远镜》(宽政6年,公元1794年)和《新古今美浓的家苞》(宽政7年,公元1795年)。

特别是他站在纯艺术立场,以“物哀”的文学论为基调的物语论《源氏物语小栉》(宽政8年,公元1796年)以及和歌论《石上私淑言》(宝历13年,公元1763年)成为他的学说的一个中心。

本居宣长能够集国学和复古思想之大成,与他直接或间接的师承不无关系。

他曾师从著名学者堀景山学习儒学,倾心阅读国学大师契冲的著作。

这里需要特别介绍一下僧人契冲(1640— 1701),他出生于武士之家,自幼入佛门学习教义,后开始研究古代语言和文学,他以文献实证的方法奠定了国学的基础,被后人尊为“国学之祖”。

契冲以及江户的户田茂睡、大阪的下河边长流等人,希望通过对《万叶集》的注释,把和歌从儒佛的牵强附会及阴阳道的解释中解放出来。

他所编著的一些优秀注释书,都贯彻了这一意图,如《万叶代匠记》、《古今余材抄》、《源注拾遗》等。

此后荷田春满(1667—1736)受其影响,将研究《古事记》、《日本书纪》、《万叶集》作为治学的正途,提倡国学,明确地与朱子学对立。

1728年,他向幕府提出了建立学校的意见书——《创学校启》,以实施自己的主张。

本居宣长有着哪些国学理论?对日本有着怎样的影响

本居宣长有着哪些国学理论?对日本有着怎样的影响

本居宣长有着哪些国学理论?对日本有着怎样的影响本文导读:贺茂治学的侧重点在于治平,他将武士道的尚武精神理想化,认为儒道二家的浸染使大和民族失去了“丈夫的精神”。

本居则在文论与艺术领域用力较勤,他明确地将文学与伦理学剥离,以“物哀”作为评判文学好坏的标准,并最终归结于日本民族固有的自然主义的艺术理念。

由此演绎,本居在神道神学方面亦有建树,初步确立了日本民族国权主义的理论基础。

以本居宣长为代表的复古主义学者,再发现并阐扬了日本民族的文化精神,其历史意义不可低估。

当然,更多的中国学者将目光的焦点集中在复古派的消极效应上,主要是为专制与排外辩护,神话感性,排斥理性,使明治维新后的日本时时走向歧途。

他出身于商业资本重要中心之一的伊势松坂的町人家庭。

在其文学研究中,他把对于封建意识形态,特别是对于儒教的道学的批判向前推进了一步。

其次,在其语言学研究中,给作为古典学的国学开辟了新的生面。

但同时,由于他崇拜古典,作为创世纪式神话的信奉者,他的神学观念达到了荒谬的地步,他把国学中合理的成分加以歪曲而塞进了这种观念之中。

一句话,国学的优点和缺点,在他身上都最明确地表现出来了。

在他的世界观中最具特点的,是他的文学——歌学论中的“事物的幽情”说和复古神道,他已经不是奈良时代文学的赞美者,而是更为成熟的平安朝文学的赞美者,从而把文学——歌学的本质同伦理学区别开来,作为评价文学的尺度,以“幽情”的观念代替了善恶的观念。

这亦是在他的世界观中最具特点的文学歌学论。

他在《源氏物语》中看到了独立于道德之外的文学的深刻的本质。

在他看来,文学既不是“为了教人”,也不是以“雄壮”与否为价值尺度的。

他认为,文学是根据事物所触发之幽情,不管好事坏事,只按内心所感而挥发出来的艺术。

说这是不合乎道的事,那是不应该有的事而在心中加以选择取舍,并非文学的本意。

大凡谏止不善,乃属治国教人之道,所以不正当的恋爱等等,当然是应该深戒的。

然而,文学与教人之道无关,是以事物的幽情为主的另一种道,所以无论在什么情况下,也要抛开事情的善恶,不应加以可否。

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有关本居宣长本居宣長(もとおりのりなが、1730年6月21日(享保15年5月7日)- 1801年11月5日(享和元年9月29日))は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。

名は栄貞。

通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。

号は芝蘭、瞬庵、春庵、自宅の鈴屋(すずのや)[1]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。

当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した。

紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

生平本居宣長は1730年6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家[2]の次男として生まれた。

幼名は富之助。

少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。

そして、執筆もするようになった。

寛延元年(1744年)、16歳の時伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始める。

しかし3年後に離縁して松坂に帰った。

延享2年(1745年)商売の勉強の為に江戸に赴いた。

延享3年、江戸から郷里に帰る。

当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した[3]。

この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を延享3年(1746年)より起筆(宝暦元年(1751年)頃まで書き継がれた)した。

兄が死んだ後、小津家を継ぐ。

宝暦2年、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。

京では医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。

景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも興味を持っており、また契沖の支援者でもあった。

同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻した。

この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。

その京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。

宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。

27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書[4]に出会って国学の研究に入ることになる。

その後宣長は真淵に手紙で教えを乞うようになった。

宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見した。

そして、かねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。

その時に入門を希望し、その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。

真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。

以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。

この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』[5]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。

この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。

一時は紀伊藩に仕えた[6]が生涯市井の学者として過ごした。

門人も数多く、特に、天明年間(1781~1789) の末頃から増加する。

天明8年(1788) 末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。

伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。

職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。

60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を励ましたりもする良い機会となった。

さらに死後、弟子を自認し、その思想を継承した平田篤胤らがいる。

遺言に自分の墓のデザインを示した。

昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年(1999年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。

家業を手伝うも、読書に熱中し商人には向かないと、母に相談して医業を学んだ。

地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、寛政4年(1792年)紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた。

宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。

宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。

亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。

内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。

当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした[8]。

また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。

しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。

[9]鈴コレクターで、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。

また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。

平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。

これは、万葉の「ますらをぶり」を尊び、平安文芸を「たをやめぶり」と貶めた賀茂真淵の態度とは対照的である。

書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、借りた本を傷めるな、借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい、などの考えを記している。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。

主要成就宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された『古事記』註釈の集大成『古事記伝』と『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、そして『玉勝間』、『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』[7]などがある。

日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱した。

大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明や思想を尊重する荻生徂徠を批判した。

しかし、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは多大な影響を受けていることも指摘されている。

『古事記伝』の画期は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、やがて国学の源流を形成してゆく。

師・賀茂真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張した。

門下生として服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などが在籍している。

また、宣長は法学においても特記される提言を行っている。

紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。

たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」と死刑の緩和をすすめている作品本居宣長記念館(三重県松坂市)記念館近くの本居宣長ノ宮本居宣長ノ宮(拝殿)『本居宣長全集』は筑摩書房(全23冊)。

他に『全集』は大正期に吉川弘文館(全12冊)、戦中期に岩波書店(6冊、未完)で刊行された。

国学[編集]『古事記伝』村岡典嗣校訂、岩波文庫全4巻(全44巻のうち第1から第17巻まで)『源氏物語年紀考』『紫文要領』『源氏物語玉の小櫛』『直毘霊(なおびのみたま)』[10] 村岡典嗣校訂、岩波文庫『玉鉾百首』同上『玉くしげ』村岡校訂『鈴野屋問答』村岡校訂『うひ山ぶみ』同上、学問論でもある。

『古今集遠鏡』評論[編集]『排蘆小船(あしわけおぶね)』[11]『紫文要領』語学[編集]『漢字三音考』『てにをは紐鏡(てにをはひもかがみ)』[12]『字音仮字用格(じおんかなづかい)』[13]『詞の玉緒(ことばのたまのお)』[14]随筆『玉勝間』村岡典嗣校訂、岩波文庫上下歌論『石上私淑言』『くず花』経済『秘本玉くしげ(ひほんたまくしげ)』[15]家集(和歌集)『大日本天下四海画図』考證の為の自筆稿本(資料集)「日本の絵図世に多いといっても、諸国の城下其外名所旧跡悉く在所が相違している。

又行程の宿場や馬借の駅が微細でない。

そのため自分は今この絵図を描くにあたり、城下町や船着場、名所遺跡の方角を正確に記し、在所を分明にして道中の行程や駅を微細に記し山川海島を悉くを描く。

ならびに六十六洲の諸郡を顕して、又知行や高田数を書いて、大坂を起点とした諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のりも略顕した。

延享三年五月吉日」(大日本天下四海画図より現代語訳)『都考抜書』考證の為の自筆稿本(資料集)『鈴屋集』以上内容来自:/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7本居家族族谱:/about_norinaga/img_n/keizu.gif故居「花は桜、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきがまばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」『玉勝間』「花のさだめ」宣長のシンボルは桜と鈴である。

桜は一人の人としての象徴であり(宣長は吉野水分神社の申し子として生まれ、墓の上には桜が植えられている)、鈴は書斎名「鈴屋」に象徴されるように学者としてのシンボルであった。

本居宣長旧宅は、宣長12歳から72歳で没するまで60年間にわたって暮らした家です。

建物は元禄4年(1691)に松阪職人町に建てられました。

その後、魚町に移築されました。

宣長当時の所在地は「魚町」です。

明治42年、保存のために松阪城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開しています。

この建物の二階の書斎を「鈴屋」と呼びます。

宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」、また講釈や歌会に使用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」など一階の各部屋は上がってごらん頂くことが出来ます。

二階「鈴屋」は保存のために上がっていただくことが出来ませんが、石垣の上に見学場所を設置していますのでそこからご覧になって下さい。

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