豫园日语导游词 豫园ポイント
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入り口前
豫園の入口の前に池があります。池には2階建ての建物があります。ちょう
ど池いけ
の真ま
ん中なか
にあるので、湖心亭こしんてい
と呼よ
ばれます。この建物たてもの
は1784年ねん
に再建さいけん
されたもの
ですが、すでに200年余りの歴史があり、「軒茶楼けんちゃろう
」という看板かんばん
がかけられ、お茶を飲ませるお店となっています。
向む
かい側がわ
には軽食けいしょく
の店みせ
と、緑波廊りょくはろう
というレストランがありますが、以前は豫園の中
の建築物けんちくぶつ
の一部いちぶ
だったのです。
池の中の橋は九曲橋きゅうきょくはし
と言います。もとは石造いしづく
りだったのですが、それは、1932年
に架か
け直なお
され、今いま
は鉄筋てっきん
コンクリ-ト造づく
りとなっています。中国の江南一帯こうなんいったい
の庭園ていえん
に
は、このような曲橋きょくきょう
が多おお
く採用さいよう
されています。これは造園技術ぞうえんぎじゅつ
の一ひと
つで、水面すいめん
を
分割ぶんかつ
し、違ちが
った角度かくど
から池いけ
の魚さかな
や蓮はす
の花はな
やあたりの景色けしき
を見み
ていただこうとする工夫
くふう
なのです。どうして九曲なのかとお尋たず
ねになる方ほう
もいらっしゃいますが、三曲さんきょく
や五曲ごきょく
よ
りも、やはり九というのは1桁けた
の数かず
の中なか
の最高数字さいこうすうじ
で、数量すうりょう
の多おお
いことを象徴しょうちょう
する
ことから九曲が採用されたものと思われます。九曲になっているもう一つの理由は、人間
にんげん
がジグザグに歩ある
けますが、悪霊あくりょう
はまっすぐ進すす
みますので、これを池いけ
に落お
としてしまう
ためだと言われています。このあたりでは、しばしば伝統でんとう
の行事ぎょうじ
が催もよお
されます。旧暦
きゅうれき
の1月がつ
15日にち
の元宵節がんしょうせつ
などのような日ひ
には、この広い空間くうかん
はまさに人ひと
の山やま
、ぎっしりと
埋う
め尽つ
くされてしまうのです。
三穂堂さんすいどう
豫園に入って、まず目に入るのは「海上名園かいじょうめいえん
」という石碑せきひ
です。これは豫園創設そうせつ
440
年ねん
を記念きねん
するために建てられたもので、その石は安徽省あんきしょう
の黄山こうざん
から運はこ
ばれてきた物もの
で、
重おも
さは1トンです。「海上名園」という4文字もじ
は江沢民前国家主席こうたくみんぜんこっかしゅせき
の肉筆にくひつ
です。
三穂堂という楼閣ろうかくは豫園で最もっとも古い建物の一つで、釘くぎ
を一つも使わない建築として
知られています。屋根やね
の上うえ
の塑像そぞう
は三国志さんごくし
に登場とうじょう
している人物じんぶつ
で、右の長なが
い矛ほこ
を持も
っ
ているのは張飛ちょうひ
、左の長刀なぎなた
を持も
っているのは関羽かんう
です。関羽は死後仏寺しごぶつじ
を守まも
る伽藍神がらんかみ
と
なり、その後ご
は軍神ぐんしん
と崇あが
められ、宋王朝以後そうおうちょういご
は、治水ちすい
、火除ひよ
け、商売繁盛しょうばいはんじょう
の万能ばんのう
の
神かみ
となっています。関羽を祭った関帝廟かんていびょう
は中国だけでなく、華僑かきょう
の多く住んでいると
ころには必ずと言っていいくらい廟びょう
が建てられています。
また、屋根やね
の両端りょうたん
に魚さかな
の形かたち
をしている瓦かわら
がありますが、それは棟飾むねかざ
りの一種いっしゅ
で
す。頭あたま
は虎とら
のようで、背せ
に鋭するど
いとげを持も
ち、性質せいしつ
が獰猛どうもう
で、しっぽを一振ひとふ
りすれば、
鯨くじら
さえ刺さ
し殺ころ
すことができるという、想像上そうぞうじょう
の海魚かいぎょ
をかたどったもので、火ひ
を防ふせ
ぐ
まじないとして、宮殿きゅうでん
、楼門ろうもん
などの端はし
につけます。鯱しゃち
はシビの変化へんか
したものと見み
られ
ますが、日本にほん
の名古屋城なごやじょう
の金きん
の鯱しゃち
がとても有名だそうです。
三穂堂の中にかかっている3つの額がく
は持も
ち主ぬし
が変か
わるたびに違ちが
ったものが上あ
げられて
います。ここは最初さいしょ
「楽寿堂らくじゅどう
」と呼よ
ばれていました。長生ながい
きをして楽しむということか
らとった名前です。ここの主人しゅじん
はこの堂どう
に親した
しい友とも
を招まね
き、長寿ちょうじゅ
を祝いわ
い、宴えん
を張は
ったのです。1760年に豫園が再建された時に、「楽寿堂」のあったこの地に三穂堂を建てたの
ですが、この名前はどこから取ったものかと言いますと、その時の持ち主が五穀豊穣ごこくほうじょう
、
1いっ本ぽん
の稲いね
の茎くき
に3つの穂ほ
がとれるようにということを祈いの
って、このように名づけたもの
とされています。どの扉とびら
にも、稲いね
、麦むぎ
、粟あわ
、トウモロコシ、カボチャ、蓮根れんこん
などの農作物
のうさくもつ
の彫刻ちょうこく
がしてあることからも、ご理解りかい
いただけると思おも
います。
もともとここは上海の穀物協会こくもつきょうかい
が設もう
けられた所ところ
で、当時とうじ
は商人しょうにん
たちがここに集あつ
ま
り、穀物こくもつ
の値段ねだん
を取と
り決き
めていました。ここはまた、地方ちほう
の官吏かんり
が上海しゃんはい
の主おも
だった人々
ひとびと
を集め、皇帝こうてい
の聖旨せいし
を伝つた
える所ところ
でもあったそうです。
真ま
ん中なか
の額がく
には「霊台経始れいだいけいし
」という4つの文字もじ
が刻きざ
まれています。「霊台」というのは