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当時の中国では陽明学は衰退していたのですが、日本での陽明学熱に影響を受け、中国の革命思想家達が松蔭の教えと共に陽明学を逆輸入した経緯が知られています。
康有為という人物と、その弟子の梁啓超 は松蔭の教えに傾倒しました。
吉田松蔭は「万民は一人(天皇陛下)の下に平等」であるという名言で有名かと思いますが、王陽明の「万人は皆、聖人になれる」という平等説を説いた内容に合致し、日本が従来持っていた神道的価値観と哲学的核融合を起こしたものと私は思います。
実に本質的な方です。
基本的に世俗の人間とは違う次元で物事を捉えようとしています。
彼は自身が学びを得た朱子学に対しても挫折を味わっており、彼が朱子学を克服しようとする困難は彼の人生によくあらわれています。
職場では謀略に遭って左遷され、闘病生活も経験しております。
その苦労と思索の末、「心即理」「致良知」「知行合一」「万物一体」「事上磨錬」等の素晴らしい哲学を確立し、何よりも「万人は聖人になれる」として、儒学を大衆化したのは彼の功績に違い有りません。
宮 武 清 寛陽明学の始祖である王陽明(王守仁←げに良い本名!)は1529年の生まれです。
武芸にも秀で、詩を詠み、仏教にも学んだと言いますので、実に才色豊かな人物であります。
彼の11歳の頃の逸話が、彼の没後にその事績を記録した「年譜」という書物に書かれております。(以下要訳)
当然の事ながら、この平等を理想とする陽明学は、万民救済を唱える「仏教」や、「キリスト教」との相性も良く、日本における「自由民権運動」にも大きな影響を与えたと思われます。
そして、「武士道」との結合は言うまでもありません。
陽明学の最も根本となる「心即理」とは、己の心の内にこそ真理が宿っているというものであり、それこそが、「万民が聖人になれる」と説く根底的内容であります。
現在、日本では儒教が有るのか無いのか分からない程、その影は薄いですし、それは「浸透」しているという事です。
間違いなく、良き日本を立ち上げた名士達は儒学を学び、日本国家の礎とし、生き方の指針としていました。
儒教は悪などでは有りません。
「忠孝」や「仁義」の徳も日本には馴染み深く、自らを研鑽し、正しく生きようとする陽明学の基本とは、日本では実に「誠」の一字に集約されたと思われます。
陽明学は朱子学に対立する発展を遂げましたので、より万人が人格的成長を遂げる為の理論体系として学ばれ、自然に反体制派の人物達に好まれるようになったと思われます。
特に幕末の志士達に好まれたと見る学説が有りますが、吉田松蔭等がこの陽明学の影響を受けていたとしています。
ならば、当然、その教え子達も陽明学を学んだに違いありません。
朱子学が日本にもたらされたのは鎌倉末期、陽明学は戦国時代にもたらされましたが、科挙制度として採用される事もなく、現存の神道や仏教を補佐するような形で学ばれたと思われます。
江戸時代から儒学が見直され、朱子学の学者として藤原惺窩や谷時中などがおり、陽明学の学者として中江藤樹、その弟子に熊沢蕃山や淵岡山などがおります。
「心の本体は即ち人心に宿れる天神なり、これ光明、人の意念に渡らず、自然に是非を照らす、是れを良知という。 」(三輪執斎 )
「人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」(西郷南洲)
「忠君愛国。言葉ではない。その精神を日常生活にあらわすという事である。」(新渡戸稲造)
日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。一方、陽明学は王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合もあった。 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心(心即理)の状態に無いのに、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。
この「知行合一」の思想は、書物による知識だけではない、いわゆる行動的儒学を生み出すことにつながって行きました。さらに、万物は一体のものであり、他者の苦しみは自らの苦しみであるとする王陽明の考えは、社会秩序とは逆に、社会改革につながる思想ともなっていったのです。
儒教は、成立初期の段階ですでに朝鮮半島や日本、ベトナムなどに伝わり、その習俗に影響を与えていました。しかし、日本で朱子学や陽明学として導入された儒学は、より明確に日本の哲学?思想に影響を及ぼして行くことになるのです。
朱熹が知識は後天的学習によって得られるとしたのに対し、王陽明は心の本体がすでに知であるとして、「大学」のいう致知もこの良知を発揮することだと主張しました。
王陽明は人間の心がそのまま「理」であるとし、「性即理」に対して「心即理」を唱えました。そして、人には先天的に心の中にもっている「道徳知=良知」があるとし、知と行、すなわち認識と行動を一致させる事こそ重要だと説いたのです。
その後、維新志士達に愛された事は申し上げましたが、明治の教育勅語以降、「東洋哲学」「朱子学」「陽明学」という機関誌が発刊されるまでになり、陽明学はより広く大衆に学ばれるようになります。
朱子学は秩序を重視する傾向が強く、体制を要する支配者に利用され、いわゆるシステムの為の学問となるという要素が有りました。
王陽明は50歳になる前に、寧王(ねいおう)の乱とその鎮圧後の困難に遭遇します。その中で、さらにその考えを進め、「致良知」の説を唱えます。良知というのは人に先天的に備わる知であって、学問をしなくても知りうる能力です。善なる知力が自然に備わっているのだから、心を虚にし、天理によって私欲を滅するならば、これが得られるとしました。
すると王陽明は「進士なんて毎年行う訳で、そんな人はたくさん出るから第一等の人物とは言えますまい」と答えた。
先生が困って「それならお前は何を以て第一とするか」と尋ねると、王陽明は「聖賢となってこそ初めて第一等の人物だと思います」と言った。
これを伝え聞いた王陽明の父は「我が息子ながら、なんと分に過ぎた志であろう」と歎じたという。」
「王陽明が年少の頃、父親が進士第一等に及第したので都の京師に往くことになった。
京師で塾に通い始めた王陽明は塾の先生に「天下第一等の人物とはどのような人を言うのでしょうか」と尋ねた。
塾の先生は「進士に及第し、名を世にあげて父母の名すらも知れ渡らせるような人、つまりお前の父親のような人ならば第一等の人物と言えるだろう」と答えた。
「学は儒をも学び、仏をも学び、道ゆたかに心広く成りて、かり、かされざるの吾が神道を立つべきなり。」(熊沢蕃山)
「良知を致すの学、但だ人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことなかれ」(大塩中斎)
「人はいかようにもあれ、吾は何の心もなく、ひたすらに親み和ぎぬれば、人も又岩木ならざれば、感動するところありて、仁愛をもて我を親むものなり。」(中江藤樹)
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(西郷隆盛)
最後の最後に王陽明の言葉をどうぞ
最後に簡単にまとめると
朱子学は儒学を発展させたもので
陽明学はそれを批判したものです。
陽明学(ようめいがく)とは、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は明治日本以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、(宋明)理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学ともいう。
しかし、僻地にあっては、書籍もなければ読書も思うにまかせず、中央とは異なる異文化の中で通常の礼法は通用しません。
そこで彼は朱熹流の方法では解決がつかないと感じ、倫理的判断を自らの純粋な心の中に求める事としました。つまり自己の心こそ理であると考え、「心即理」の説を唱えたのです。
それはまた、知識と行動が一体のものだということであり、朱熹の「知先行後」に対して「知行合一」を説くことでした。それは自己の主体性を重くみる考え方であり、修行の方法としても、行動を重んじる立場から、日常の行動を通じて心を鍛錬すべきだという「事上磨練」を説きました。
人柄も良く仁を実践し、後に国家に重用され、明代を通して武功第一と称される程に実績も立てました。
彼は私が敬愛する偉人の一人です。
ただ、中国においては陽明学は主流思想とはならず、朱子学とセットにされて教養の一部となったようです。
陽明学は朱子学を補足するという観点で学ばれた程度に過ぎません。
孔子以降の儒教(16)
朱熹(朱子学)と王陽明(陽明学)②
朱熹の注釈による四書を読むことは知識人の必修の教養ということになり、元代には、この朱熹の説が科挙で唯一採用される経書解釈となり、国家教学となりました。
しかし、明代には、国家教学であるがために形骸化し始めた朱熹の思想に対し、王陽明が批判的な説を打ち出します。
11歳で本当にこのような本質に至っていたとすれば、既に聖賢の域のような気もします。
イエス様も12歳で説教をしていた様子が描かれていますが、偉人とはそのような素質があるのでしょうか。
彼は18歳で「宋儒」を学び、その影響を受けて後に「朱子学」を学ぶようになるのですが、彼自身はその朱子学とは対立する立場で独自の理論を立てるようになります。
役人を務めていた王陽明は左遷されて貴州の竜場という僻地に流された時、倫理的実践の方法に深く悩んだと言われています。
朱熹は事物にそって個別に理を追究することから始めるべきだという「格物窮理」の説を修養の方法としましたが、この方法によるなら、まずは「四書五経」などの経書を読み、外から知識としての「理」を学び、それからそれを実践するという「知先行後」となります。
熊沢蕃山などは、儒教に学びばがらも、「○○学」というこだわりを捨て、真理は古今を通して共通であり、ただ日本古来からの神道を高めるものとして、儒をたしなんだ節があります。
彼にとっては神道も仏教も儒教も統一的な価値観をもって相互に高め得るもとして捉えたのでしょう。
最後に、陽明学を学んだ先達の言葉達を紹介して終わります。
「事情練磨」によって己を自身を絶えず磨く事は、武士としての努めでもあります。
陽明学は学問によっての向上よりも、愛の実践を強調するものでしたので、より孔子の教えを高めて広めたものであると、私は考えています。
思うに、儒教を真の意味で実践できた国は日本しかありません。
中国も韓国も政治システムとしての儒学を用いたに過ぎないと思われます。
彼の人生の目的とは自身が「聖人」になる事であり、ቤተ መጻሕፍቲ ባይዱの聖人に至る道を模索しながら、悩み過ぎて病床に倒れたりします。
彼は3度も科挙の試験に落第するのですが、22歳の時に一度目の試験に落ちた際、以下の言葉を残しています。
「世では及第せぬことを恥とするが、吾は及第せぬが故に心が惑うことを恥とする」
お父様もこの「誠」という漢字が最も好きな一字だと仰られましたね。
自分が儒教の影響を受けているにも関わらず、儒教を否定するのは愚の骨頂です。
歪曲された儒教こそ、否定されるべきです。
そもそも、相手を否定してどうやって「統一」が可能でしょうか。
仮に否定するとしても、最後には相手を高めてあげる行程が必要です。
これは孟子の性善説からの系譜を辿る陽明学ならではの悟りであり、人間が生まれもって悪ならば、堕落性のままに生きる事に他なりませんので、その危険性を指摘する学者もいました。
しかし、「致良知」とは正しく良心を実践する事によって得られる完全な知であります。
「知行合一」は「武士に二言は非ず」という「言行一致」の精神と結びつくものであり、統一原理の個性完成の域を表したものです。
康有為という人物と、その弟子の梁啓超 は松蔭の教えに傾倒しました。
吉田松蔭は「万民は一人(天皇陛下)の下に平等」であるという名言で有名かと思いますが、王陽明の「万人は皆、聖人になれる」という平等説を説いた内容に合致し、日本が従来持っていた神道的価値観と哲学的核融合を起こしたものと私は思います。
実に本質的な方です。
基本的に世俗の人間とは違う次元で物事を捉えようとしています。
彼は自身が学びを得た朱子学に対しても挫折を味わっており、彼が朱子学を克服しようとする困難は彼の人生によくあらわれています。
職場では謀略に遭って左遷され、闘病生活も経験しております。
その苦労と思索の末、「心即理」「致良知」「知行合一」「万物一体」「事上磨錬」等の素晴らしい哲学を確立し、何よりも「万人は聖人になれる」として、儒学を大衆化したのは彼の功績に違い有りません。
宮 武 清 寛陽明学の始祖である王陽明(王守仁←げに良い本名!)は1529年の生まれです。
武芸にも秀で、詩を詠み、仏教にも学んだと言いますので、実に才色豊かな人物であります。
彼の11歳の頃の逸話が、彼の没後にその事績を記録した「年譜」という書物に書かれております。(以下要訳)
当然の事ながら、この平等を理想とする陽明学は、万民救済を唱える「仏教」や、「キリスト教」との相性も良く、日本における「自由民権運動」にも大きな影響を与えたと思われます。
そして、「武士道」との結合は言うまでもありません。
陽明学の最も根本となる「心即理」とは、己の心の内にこそ真理が宿っているというものであり、それこそが、「万民が聖人になれる」と説く根底的内容であります。
現在、日本では儒教が有るのか無いのか分からない程、その影は薄いですし、それは「浸透」しているという事です。
間違いなく、良き日本を立ち上げた名士達は儒学を学び、日本国家の礎とし、生き方の指針としていました。
儒教は悪などでは有りません。
「忠孝」や「仁義」の徳も日本には馴染み深く、自らを研鑽し、正しく生きようとする陽明学の基本とは、日本では実に「誠」の一字に集約されたと思われます。
陽明学は朱子学に対立する発展を遂げましたので、より万人が人格的成長を遂げる為の理論体系として学ばれ、自然に反体制派の人物達に好まれるようになったと思われます。
特に幕末の志士達に好まれたと見る学説が有りますが、吉田松蔭等がこの陽明学の影響を受けていたとしています。
ならば、当然、その教え子達も陽明学を学んだに違いありません。
朱子学が日本にもたらされたのは鎌倉末期、陽明学は戦国時代にもたらされましたが、科挙制度として採用される事もなく、現存の神道や仏教を補佐するような形で学ばれたと思われます。
江戸時代から儒学が見直され、朱子学の学者として藤原惺窩や谷時中などがおり、陽明学の学者として中江藤樹、その弟子に熊沢蕃山や淵岡山などがおります。
「心の本体は即ち人心に宿れる天神なり、これ光明、人の意念に渡らず、自然に是非を照らす、是れを良知という。 」(三輪執斎 )
「人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」(西郷南洲)
「忠君愛国。言葉ではない。その精神を日常生活にあらわすという事である。」(新渡戸稲造)
日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。一方、陽明学は王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合もあった。 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心(心即理)の状態に無いのに、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。
この「知行合一」の思想は、書物による知識だけではない、いわゆる行動的儒学を生み出すことにつながって行きました。さらに、万物は一体のものであり、他者の苦しみは自らの苦しみであるとする王陽明の考えは、社会秩序とは逆に、社会改革につながる思想ともなっていったのです。
儒教は、成立初期の段階ですでに朝鮮半島や日本、ベトナムなどに伝わり、その習俗に影響を与えていました。しかし、日本で朱子学や陽明学として導入された儒学は、より明確に日本の哲学?思想に影響を及ぼして行くことになるのです。
朱熹が知識は後天的学習によって得られるとしたのに対し、王陽明は心の本体がすでに知であるとして、「大学」のいう致知もこの良知を発揮することだと主張しました。
王陽明は人間の心がそのまま「理」であるとし、「性即理」に対して「心即理」を唱えました。そして、人には先天的に心の中にもっている「道徳知=良知」があるとし、知と行、すなわち認識と行動を一致させる事こそ重要だと説いたのです。
その後、維新志士達に愛された事は申し上げましたが、明治の教育勅語以降、「東洋哲学」「朱子学」「陽明学」という機関誌が発刊されるまでになり、陽明学はより広く大衆に学ばれるようになります。
朱子学は秩序を重視する傾向が強く、体制を要する支配者に利用され、いわゆるシステムの為の学問となるという要素が有りました。
王陽明は50歳になる前に、寧王(ねいおう)の乱とその鎮圧後の困難に遭遇します。その中で、さらにその考えを進め、「致良知」の説を唱えます。良知というのは人に先天的に備わる知であって、学問をしなくても知りうる能力です。善なる知力が自然に備わっているのだから、心を虚にし、天理によって私欲を滅するならば、これが得られるとしました。
すると王陽明は「進士なんて毎年行う訳で、そんな人はたくさん出るから第一等の人物とは言えますまい」と答えた。
先生が困って「それならお前は何を以て第一とするか」と尋ねると、王陽明は「聖賢となってこそ初めて第一等の人物だと思います」と言った。
これを伝え聞いた王陽明の父は「我が息子ながら、なんと分に過ぎた志であろう」と歎じたという。」
「王陽明が年少の頃、父親が進士第一等に及第したので都の京師に往くことになった。
京師で塾に通い始めた王陽明は塾の先生に「天下第一等の人物とはどのような人を言うのでしょうか」と尋ねた。
塾の先生は「進士に及第し、名を世にあげて父母の名すらも知れ渡らせるような人、つまりお前の父親のような人ならば第一等の人物と言えるだろう」と答えた。
「学は儒をも学び、仏をも学び、道ゆたかに心広く成りて、かり、かされざるの吾が神道を立つべきなり。」(熊沢蕃山)
「良知を致すの学、但だ人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことなかれ」(大塩中斎)
「人はいかようにもあれ、吾は何の心もなく、ひたすらに親み和ぎぬれば、人も又岩木ならざれば、感動するところありて、仁愛をもて我を親むものなり。」(中江藤樹)
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(西郷隆盛)
最後の最後に王陽明の言葉をどうぞ
最後に簡単にまとめると
朱子学は儒学を発展させたもので
陽明学はそれを批判したものです。
陽明学(ようめいがく)とは、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は明治日本以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、(宋明)理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学ともいう。
しかし、僻地にあっては、書籍もなければ読書も思うにまかせず、中央とは異なる異文化の中で通常の礼法は通用しません。
そこで彼は朱熹流の方法では解決がつかないと感じ、倫理的判断を自らの純粋な心の中に求める事としました。つまり自己の心こそ理であると考え、「心即理」の説を唱えたのです。
それはまた、知識と行動が一体のものだということであり、朱熹の「知先行後」に対して「知行合一」を説くことでした。それは自己の主体性を重くみる考え方であり、修行の方法としても、行動を重んじる立場から、日常の行動を通じて心を鍛錬すべきだという「事上磨練」を説きました。
人柄も良く仁を実践し、後に国家に重用され、明代を通して武功第一と称される程に実績も立てました。
彼は私が敬愛する偉人の一人です。
ただ、中国においては陽明学は主流思想とはならず、朱子学とセットにされて教養の一部となったようです。
陽明学は朱子学を補足するという観点で学ばれた程度に過ぎません。
孔子以降の儒教(16)
朱熹(朱子学)と王陽明(陽明学)②
朱熹の注釈による四書を読むことは知識人の必修の教養ということになり、元代には、この朱熹の説が科挙で唯一採用される経書解釈となり、国家教学となりました。
しかし、明代には、国家教学であるがために形骸化し始めた朱熹の思想に対し、王陽明が批判的な説を打ち出します。
11歳で本当にこのような本質に至っていたとすれば、既に聖賢の域のような気もします。
イエス様も12歳で説教をしていた様子が描かれていますが、偉人とはそのような素質があるのでしょうか。
彼は18歳で「宋儒」を学び、その影響を受けて後に「朱子学」を学ぶようになるのですが、彼自身はその朱子学とは対立する立場で独自の理論を立てるようになります。
役人を務めていた王陽明は左遷されて貴州の竜場という僻地に流された時、倫理的実践の方法に深く悩んだと言われています。
朱熹は事物にそって個別に理を追究することから始めるべきだという「格物窮理」の説を修養の方法としましたが、この方法によるなら、まずは「四書五経」などの経書を読み、外から知識としての「理」を学び、それからそれを実践するという「知先行後」となります。
熊沢蕃山などは、儒教に学びばがらも、「○○学」というこだわりを捨て、真理は古今を通して共通であり、ただ日本古来からの神道を高めるものとして、儒をたしなんだ節があります。
彼にとっては神道も仏教も儒教も統一的な価値観をもって相互に高め得るもとして捉えたのでしょう。
最後に、陽明学を学んだ先達の言葉達を紹介して終わります。
「事情練磨」によって己を自身を絶えず磨く事は、武士としての努めでもあります。
陽明学は学問によっての向上よりも、愛の実践を強調するものでしたので、より孔子の教えを高めて広めたものであると、私は考えています。
思うに、儒教を真の意味で実践できた国は日本しかありません。
中国も韓国も政治システムとしての儒学を用いたに過ぎないと思われます。
彼の人生の目的とは自身が「聖人」になる事であり、ቤተ መጻሕፍቲ ባይዱの聖人に至る道を模索しながら、悩み過ぎて病床に倒れたりします。
彼は3度も科挙の試験に落第するのですが、22歳の時に一度目の試験に落ちた際、以下の言葉を残しています。
「世では及第せぬことを恥とするが、吾は及第せぬが故に心が惑うことを恥とする」
お父様もこの「誠」という漢字が最も好きな一字だと仰られましたね。
自分が儒教の影響を受けているにも関わらず、儒教を否定するのは愚の骨頂です。
歪曲された儒教こそ、否定されるべきです。
そもそも、相手を否定してどうやって「統一」が可能でしょうか。
仮に否定するとしても、最後には相手を高めてあげる行程が必要です。
これは孟子の性善説からの系譜を辿る陽明学ならではの悟りであり、人間が生まれもって悪ならば、堕落性のままに生きる事に他なりませんので、その危険性を指摘する学者もいました。
しかし、「致良知」とは正しく良心を実践する事によって得られる完全な知であります。
「知行合一」は「武士に二言は非ず」という「言行一致」の精神と結びつくものであり、統一原理の個性完成の域を表したものです。