太宰治-きりぎりす

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HUMAN LOST 太宰治

HUMAN LOST  太宰治

HUMAN LOST太宰治思いは、ひとつ、窓前花。

十三日。

なし。

十四日。

なし。

十五日。

かくまで深き、十六日。

なし。

十七日。

なし。

十八日。

ものかいて扇ひき裂くなごり哉かなふたみにわかれ十九日。

十月十三日より、板橋区のとある病院にいる。

来て、三日間、歯ぎしりして泣いてばかりいた。

銅貨のふくしゅうだ。

ここは、気ちがい病院なのだ。

となりの部屋の若旦那わかだんなは、ふすまをあけたら、浴衣ゆかたがかかっていて、どうも工合いがわるかった、など言って、みんな私よりからだが丈夫で、大河内昇とか、星武太郎などの重すぎる名を有し、帝大、立大を卒業して、しかも帝王の如く尊厳の風貌をしている。

惜しいことには、諸氏ひとしく自らの身の丈たけよりも五寸ほどずつ恐縮していた。

母を殴なぐった人たちである。

四日目、私は遊説ゆうぜいに出た。

鉄格子と、金網かなあみと、それから、重い扉、開閉のたびごとに、がちん、がちん、と鍵かぎの音。

寝ずの番の看守、うろ、うろ。

この人間倉庫の中の、二十余名の患者すべてに、私のからだを投げ捨てて、話かけた。

まるまると白く太った美男の、肩を力一杯ゆすってやって、なまけもの! と罵ののしった。

眼のさめて在る限り、枕頭の商法の教科書を百人一首を読むような、あんなふしをつけて大声で読みわめきつづけている一受験狂に、勉強やめよ、試験全廃だ、と教えてやったら、一瞬ぱっと愁眉しゅうびをひらいた。

うしろ姿のおせん様というあだ名の、セル着たる二十五歳の一青年、日がな一日、部屋の隅、壁にむかってしょんぼり横坐りに居崩いくずれて坐って、だしぬけに私に頭を殴られても、僕はたった二十五歳だ、捨てろ、捨てろ、と低く呟つぶやきつづけるばかりで私の顔を見ようとさえせぬ故、こんどは私、めそめそするな、と叱って、力いっぱいうしろから抱いてやって激しくせきにむせかえったら、青年いささか得意げに、放せ、放せ、肺病がうつると軽蔑して、私は有難ありがたく て泣いてしまった。

太宰治-玩具

太宰治-玩具

玩具太宰治どうにかなる。

どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま送っていって暮しているのであるが、それでも、なんとしても、どうにもならなくなってしまう場合がある。

そんな場合になってしまうと、私は糸の切れた紙凧(かみだこ)のようにふわふわ生家へ吹きもどされる。

普段着のまま帽子もかぶらず東京から二百里はなれた生家の玄関へ懐手(ふところで)して静かにはいるのである。

両親の居間の襖(ふすま)をするするあけて、敷居のうえに佇立(ちょりつ)すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫(さいほう)をしている母も、顔つきを変えて立ちあがる。

ときに依っては、母はひいという絹布を引き裂くような叫びをあげる。

しばらく私のすがたを見つめているうちに、私には面皰(にきび)もあり、足もあり、幽霊でないということが判って、父は憤怒の鬼と化し、母は泣き伏す。

もとより私は、東京を離れた瞬間から、死んだふりをしているのである。

どのような悪罵(あくば)を父から受けても、どのような哀訴(あいそ)を母から受けても、私はただ不可解な微笑でもって応ずるだけなのである。

針の筵(むしろ)に坐った思いとよく人は言うけれども、私は雲霧の筵に坐った思いで、ただぼんやりしているのである。

ことしの夏も、同じことであった。

私には三百円、かけねなしには二百七十五円、それだけが必要であったのである。

私は貧乏が嫌いなのである。

生きている限りは、ひとに御馳走をし、伊達(だて)な着物を着ていたいのである。

生家には五十円と現金がない。

それも知っている。

けれども私は生家の土蔵の奥隅になお二三十個のたからもののあることをも知っている。

私はそれを盗むのである。

私は既に三度、盗みを繰り返し、ことしの夏で四度目である。

ここまでの文章には私はゆるがぬ自負を持つ。

困ったのは、ここからの私の姿勢である。

私はこの玩具という題目の小説に於いて、姿勢の完璧(かんぺき)を示そうか、情念の模範を示そうか。

太宰治-爱と美について

太宰治-爱と美について

愛と美について太宰治兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。

長男は二十九歳。

法学士である。

ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇(かば)う鬼の面(めん)であって、まことは弱く、とても優しい。

弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。

それにきまっていた。

映画館を出てからは、急に尊大に、むっと不気嫌になって、みちみち一言も口をきかない。

生れて、いまだ一度も嘘言(うそ)というものをついたことがないと、躊躇(ちゅうちょ)せず公言している。

それは、どうかと思われるけれど、しかし、剛直、潔白の一面は、たしかに具有していた。

学校の成績は、あまりよくなかった。

卒業後は、どこへも勤めず、固く一家を守っている。

イプセンを研究している。

このごろ人形の家をまた読み返し、重大な発見をして、頗(すこぶ)る興奮した。

ノラが、あのとき恋をしていた。

お医者のランクに恋をしていたのだ。

それを発見した。

弟妹たちを呼び集めて、そのところを指摘し、大声叱咤(しった)、説明に努力したが、徒労であった。

弟妹たちは、どうだか、と首をかしげて、にやにや笑っているだけで、一向に興奮の色を示さぬ。

いったいに、弟妹たちは、この兄を甘く見ている。

なめている風(ふう)がある。

長女は、二十六歳。

いまだ嫁がず、鉄道省に通勤している。

フランス語が、かなりよくできた。

脊丈(せたけ)が、五尺三寸あった。

すごく、痩(や)せている。

弟妹たちに、馬、と呼ばれることがある。

髪を短く切って、ロイド眼鏡をかけている。

心が派手で、誰とでもすぐ友達になり、一生懸命に奉仕して、捨てられる。

それが、趣味である。

憂愁、寂寥(せきりょう)の感を、ひそかに楽しむのである。

けれどもいちど、同じ課に勤務している若い官吏に夢中になり、そうして、やはり捨てられたときには、そのときだけは、流石(さすが)に、しんからげっそりして、間(ま)の悪さもあり、肺が悪くなったと嘘をついて、一週間も寝て、それから頸(くび)に繃帯(ほうたい)を巻いて、やたらに咳(せき)をしながら、お医者に見せに行ったら、レントゲンで精細にしらべられ、稀(まれ)に見る頑強の肺臓であるといって医者にほめられた。

太宰治 十二月八日

太宰治 十二月八日

きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。

昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。

もう百年ほど経たって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此この日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。

だから文章はたいへん下手へたでも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。

なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。

でも、あんまり固くならない事にしよう。

主人の批評に依よれば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目まじめなばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。

センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ。

本当に私は、幼少の頃から礼儀にばかりこだわって、心はそんなに真面目でもないのだけれど、なんだかぎくしゃくして、無邪気にはしゃいで甘える事も出来ず、損ばかりしている。

慾が深すぎるせいかも知れない。

なおよく、反省をして見ましょう。

紀元二千七百年といえば、すぐに思い出す事がある。

なんだか馬鹿らしくて、おかしい事だけれど、先日、主人のお友だちの伊馬さんが久し振りで遊びにいらっしゃって、その時、主人と客間で話合っているのを隣部屋で聞いて噴ふき出した。

「どうも、この、紀元二千七百年しちひゃくねんのお祭りの時には、二千七百年ななひゃくねんと言うか、あるいは二千七百年しちひゃくねんと言うか、心配なんだね、非常に気になるんだね。

僕は煩悶はんもんしているのだ。

君は、気にならんかね。

」と伊馬さん。

「ううむ。

」と主人は真面目に考えて、「そう言われると、非常に気になる。

」「そうだろう、」と伊馬さんも、ひどく真面目だ。

「どうもね、ななひゃくねん、というらしいんだ。

なんだか、そんな気がするんだ。

太宰治PPT

太宰治PPT

太宰治短篇小说的代表作。讲述的是一个守着生病孩子,酒鬼丈夫的妻子过着穷困 绝望的日子,为了给丈夫还钱来到他常常赊账的酒店做工。新的生活带给她受人瞩 目的欢欣和旺盛的生机,甚至能够忍受丈夫的种种荒唐和被陌生人玷污的后果,她 依稀看到了人生改变之后的一点亮色。
太宰自杀
太宰治才华横溢,然而在他短短的39年的生命里,居然自杀5次,由此有人 称他为“一个死得最多的日本作家”。他几乎把自杀作为一种美学行为,来加 以重 复实践,直到最后达到圆满为止。 第一次是在他二十岁的时候,当时他还是高中生,就追随他崇拜的作家芥川 龙之介,企图用和芥川同样的方式结束自己的生命。可惜的是,太宰治吞下的 安眠药远远不够,被友人救起;因此,他没能追随芥川而去。 第二年,在就读大学期间和一个酒吧女招待田部目津子投河殉情,他被渔夫 救起。 1935年,因报考新闻记者失败,前往镰仓山上吊,又被人救起。 1937年,又携小山初代去谷山温泉进行第四次自杀,结果双双被救活。因 此1948年6月15日的《朝日新闻》还登载了一则小新闻《太宰治先生出走了 吗?》,怀疑太宰治是不是又自杀未遂了。 随着肺结核的恶化,太宰治感到疲惫,时常吐血,终在1948年(昭和23 年)6月13日深夜在玉川上水与爱人山崎富荣投水殉情结束生命,一星期后的生 日当天,尸体才被发现。两人的遗体用绳子绑在一起,但太宰治的遗体似乎留 有激烈反抗的迹象。这件事情引起许多臆测,有传是因为爱人而盲目殉情,也 有传是偏离常规而殉死。
太宰治另外一部比较有代表性的作品是长篇 小说《人间失格》,最初的时候有人想将它翻译 为“丧失做人资格的人”,但最终出版社方面还 是决定沿用原名。太宰治借主人公大庭叶藏的感 受,讲述着“失格”。主角大庭叶藏是个生来就 不容于社会的“边缘人”,从小敏感苦闷擅于自 我伪装,参加过左翼社团,后与女友相携自杀, 因女友死亡而他被获救以教唆杀人的罪名短暂入 狱。结婚之后,纯洁的妻子遭到玷污的事实让他 彻底绝望,终日沉湎于酒色药物精神崩溃。 这部作品发表的同年,太宰治终于结束了他 的一生。除了这部小说的结局不是太宰治所掌握 的之外,其余部分可以说是蕴藏了太宰治一生的 遭遇与映射。也正是因为这样,日本有评论家这 样说:“(《人间失格》)是太宰治只为自己写 作的作品,内在真实的

太宰治

太宰治
芥川賞をもらへば,私は人 の情に泣くでせう。さうして、どん な苦しみとも戦って、生きて行け ます。
太宰治から君へ
番号:0805214075 名前:曹月柳
業に 大 本 派 に入学名旗 専っ 時 津 手 昭 念た 代 島 。 和 しがに 修青期 た転 一 治 森 の 。 向時。 県小 し 左東生説 、 翼大ま家 小 運中れ。 説 退る無 修動 。 。 頼
太 ー宰 昭治
和( ) ー ・ 明 治
42
1909 1948 23
「無頼派」の出典は、太宰治が小説「パ ンドラのゴウ」やエッセイで述べた「私は りベルタンです。無頼派です。束縛に反 対します。」などの発言によるものだとい われる。無頼か作家の多くは屈折した形 で現実の苦しみと歪みを凌ぎ、生活を再 開しよとうした人が多い。
• 生きている事。 ああ、それは、何という やりきれない息もたえだえの大事業であ ろうか。
• 学問とは、虚栄の別名である。人間が人 間でなくなろうとする努力である。
• 人間は嘘をつく時には、必ず、まじめな 顔をしているものである。 • 不良でない人間があるだろうか。
太宰治「斜陽」より
創作の三つ段階
前期(1932-1937):「晩年」、「虚構の彷徨」 「二十世紀旗手 」; 中期(1938-1945):「女生徒 」など;
後期(1946-1948):「パンラの匣」、 「斜陽」、「人間失格」など;
太宰治の代表作品
中篇小説(1947・昭 和22)。題の「斜陽」 に象徴される没落 貴族の家庭を背景 にして、「最後の貴 婦人」の母、姉、デ カダンな文学青年 で姉の日記と手紙 によって構成された 挽歌風の物語であ る。

太宰治-嘘

太宰治-嘘

嘘太宰治「戦争が終ったら、こんどはまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。

主義も、思想も、へったくれも要(い)らない。

男は嘘(うそ)をつく事をやめて、女は慾を捨てたら、それでもう日本の新しい建設が出来ると思う。

」私は焼け出されて津軽の生家の居候(いそうろう)になり、鬱々(うつうつ)として楽しまず、ひょっこり訪ねて来た小学時代の同級生でいまはこの町の名誉職の人に向って、そのような八つ当りの愚論を吐いた。

名誉職は笑って、「いや、ごもっとも。

しかし、それは、逆じゃありませんか。

男が慾を捨て、女が嘘をつく事をやめる、とこう来なくてはいけません。

」といやにはっきり反対する。

私はたじろぎ、「そりゃまた、なぜです。

」「まあ、どっちでも、同じ様なものですが、しかし、女の嘘は凄(すご)いものです。

私はことしの正月、いやもう、身の毛もよだつような思いをしました。

それ以来、私は、てんで女というものを信用しなくなりました。

うちの女房なんか、あんな薄汚い婆でも、あれで案外、ほかに男をこしらえているかも知れない。

いや、それは本当に、わからないものですよ。

」と笑わずに言って、次のように田舎(いなか)の秘話を語り聞かせてくれた。

以下「私」というのは、その当年三十七歳の名誉職御自身の事である。

今だから、こんな話も公開できるのですが、当時はそれこそ極秘の事件で、この町でこの事件に就(つ)いて多少でも知っていたのは、ここの警察署長と(この署長さんは、それから間もなく転任になりましたが、いい人でした)それから、この私と、もうそれくらいのものでした。

ことしのお正月は、日本全国どこでもそのようでしたが、この地方も何十年振りかの大雪で、往来の電線に手がとどきそうになるほど雪が積り、庭木はへし折られ、塀(へい)は押し倒され、またぺしゃんこに潰(つぶ)された家などもあり、ほとんど大洪水みたいな被害で、連日の猛吹雪のため、このあたり一帯の交通が二十日も全くと絶えてしまいました。

所有关于太宰治的报道

所有关于太宰治的报道

像我这样张家瑜可能许多人还不知太宰治是何许人也。

但是自从电影《樱桃树和蒲公英》上映后,台湾的年青人界,突然多了一批太宰治粉丝团,有个父亲,说他读中学十几岁的孩子,染了一头金发,连上补习班都带着他的大大黑色的吉他袋。

最近他儿子宣称,他的偶像是太宰治。

他跟他的父亲说,太宰治的生命哲学,原来和他如此相近。

他觉得自己就像太宰治。

《樱桃树和蒲公英》的故事,取材于日本作家太宰治的一篇短篇小说,其实也就是太宰治自己的一部缩减版自传,他最有名的作品“人间失格”,呈现他一而贯之的人生观,人们称之为颓废派或是无赖派作家。

他们对生活采取着一种无谓的态度,太宰治嘲讽的不只是人生,连他自己,他也以一种瞧不起的眼光过日子,生无可恋,所以他常常自杀,每次都带着他的女情人或女粉丝一起,几次都死不成,倒成了一个笑话。

最后,终于给他死成了,和他的情人服药自杀成功。

在闹剧和悲剧之间纠结的太宰治,用行动表达那种对人生的厌弃与不满,像一句老话:当我在笑的时候,只有我知道我在哭。

求仁得仁,求死得死,而完成他作为一个无赖派人生作家的任务。

《樱桃树和蒲公英》电影,虽然说的是太宰治那种不负责任、逃逸的种种不堪情事,让人看了都觉得这个男人啊,怎么就有那么多的女人那么多的好人愿意容忍他,帮助他,还尊敬他呢。

答案在另一个主要的人物,他的老婆,她反照了一样事实:女人的爱情观。

他的老婆在戏里是一个几近完美的女性,包容老公所有的缺点,坚强美丽还有人缘,是一朵鲜花插在牛粪上。

可是,值得爱的男人和会去爱的男人,女人自有一套标准,太宰治在生活上,自私小器善妒讲话恶毒。

这种人和他多相处一分钟都嫌多。

但是,他的坦白,他小说里的才情、他自始而终并不虚伪而自我鞭挞的那种真诚,对现实人生提出抗议与质疑,就是年轻人,尤其是九零后的台湾少年另一种反叛的出口。

几十年前,有批台湾如今是中年中坚分子曾经爱过太宰治。

他们现在成为父亲,成为保守有钱的阶级;现在他们可能忘记他们曾经也是少年太宰治,而唏嘘为什么他们的孩子的偶像为什么不是富士康的老板、不是马英九。

太宰治生平

太宰治生平

太宰治的生平太宰治(だざいおさむ、明治42年(1909年)6月19日- 昭和23年(1948年)6月13日)日本小说家、作家。

本名津岛修治,出生于青森县金木村,(现. 五所川原市金木町) 考入东大法文系,因故,中途退学。

日本战后无赖派文学代表作家,父亲津岛原右卫门曾任众议院议员、贵族院议员,同时经营银行与铁路。

母亲体弱多病,自小他由姑母及保母照顾下长大。

幼年时期少了母亲的影响,改由保母养育长大的过往,对太宰的生涯有不可小觑的意义。

中学时期成绩优异,对芥川龙之介、泉镜花的文学十分倾倒。

芥川的自杀对高校时期的他产生了相当大的冲击与影响,1930年,进入东大法文科,初会井伏鳟二,奉为终生之师。

人物履历中学时代的太宰治中学时代的太宰治[1]一九零九年(明治四十二年)六月十九日,出生于青森县北津郡的金木村(五所川原市),本名津岛修治。

津岛家是津轻地区首屈一指的地主富豪之家。

太宰治的父亲津岛原右卫门,曾任众议院议员,后当选贵族院议员,同时经营银行、铁路;而他的母亲则是体弱多病,无力照顾儿子,因此太宰治从小是受姑母和保姆的抚养而长大。

太宰治出生之后,是津岛家那一辈里面的第六个男孩,上有五哥四姐,其中两个哥哥不幸夭折,只剩下文治、英治、圭治三人。

太宰治出生三年之后,幼弟礼治出生。

一九一六年(大正五年)七岁至市立金木普通小学就读,成绩杰出。

一九二一年(大正十一年)十二岁以第一名的成绩从普通小学毕业,后至离家两公里远的明治高等小学就读。

一九二三年(大正十二年)十四岁三月,父亲去世,享年五十三岁。

四月,至青森县立青森中学就读,寄宿该市寺町的远亲丰田家檐下。

中学期间,开始创作小说、杂文、戏剧,对泉镜花、芥川龙之介的文学相当倾倒。

一九二五年(大正十四年)十六岁发表《最后的太阁》。

和阿部合成、中村贞次郎等友人合编同人杂志《星座》。

一九二七年(昭和二年)十八岁至远亲藤田豊三郎的家里寄宿,就读弘前高等学校文科甲组(英语)。

年间,传来芥川龙之介自杀的消息,甚受冲击;和青森市滨町“玉屋”的艺妓红子(小山初代)相识。

太宰治《鱼服记》 日语原版

太宰治《鱼服记》 日语原版

魚服記太宰治一本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。

せいぜい三四百米(メートル)ほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。

むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経(よしつね)が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷(えぞ)の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。

そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。

突きあたった跡がいまでも残っている。

山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。

約一畝歩(せぶ)ぐらいの赤土の崖(がけ)がそれなのであった。

小山は馬禿山(まはげやま)と呼ばれている。

ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。

馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそう此の地方で名高いのである。

麓(ふもと)の村は戸数もわずか二三十でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。

夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこしにぎわうのであった。

滝の下には、ささやかな茶店さえ立つのである。

ことしの夏の終りごろ、此の滝で死んだ人がある。

故意に飛び込んだのではなくて、まったくの過失からであった。

植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。

このあたりには珍らしい羊歯(しだ)類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。

滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛(か)みつつ流れ出ていた。

絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。

羊歯類は此の絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶるとそよいでいるのであった。

学生はこの絶壁によじのぼった。

ひるすぎのことであったが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残っていた。

太宰治-亲という二字

太宰治-亲という二字

親という二字太宰治親(おや)という二字と無筆の親は言い。

この川柳(せんりゅう)は、あわれである。

「どこへ行って、何をするにしても、親という二字だけは忘れないでくれよ。

」「チャンや。

親という字は一字だよ。

」「うんまあ、仮りに一字が三字であってもさ。

」この教訓は、駄目である。

しかし私は、いま、ここで柳多留(やなぎだる)の解説を試みようとしているのではない。

実は、こないだ或(あ)る無筆の親に逢(あ)い、こんな川柳などを、ふっと思い出したというだけの事なのである。

罹災(りさい)したおかたには皆おぼえがある筈(はず)だが、罹災をすると、へんに郵便局へ行く用事が多くなるものである。

私が二度も罹災して、とうとう津軽の兄の家へ逃げ込んで居候(いそうろう)という身分になったのであるが、簡易保険だの債券売却だのの用事でちょいちょい郵便局に出向き、また、ほどなく私は、仙台の新聞に「パンドラの匣(はこ)」という題の失恋小説を連載する事になって、その原稿発送やら、電報の打合せやらで、いっそう郵便局へ行く度数が頻繁(ひんぱん)になった。

れいの無筆の親と知合いになったのは、その郵便局のベンチに於(お)いてである。

郵便局は、いつもなかなか混んでいる。

私はベンチに腰かけて、私の順番を待っている。

「ちょっと、旦那(だんな)、書いてくれや。

」おどおどして、そうして、どこかずるそうな、顔もからだもひどく小さい爺(じい)さんだ。

大酒飲みに違いない、と私は同類の敏感で、ひとめ見て断じた。

顔の皮膚が蒼(あお)く荒(すさ)んで、鼻が赤い。

私は無言で首肯(うなず)いてベンチから立ち上り、郵便局備附けの硯箱(すずりばこ)のほうへ行く。

貯金通帳と、払戻し用紙(かれはそれを、うけ出しの紙と言っている)それから、ハンコと、三つを示され、そうして、「書いてくれや」と言われたら、あとは何も聞かずともわかる。

「いくら?」「四拾円。

」私はその払戻し用紙に四拾円也としたため、それから通帳の番号、住所、氏名を書き記す。

太宰治「ヴィヨンの妻」论 - 东洋大学 トップページ

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は じ め に
太 宰 治 「 ヴ ィ ヨ ン の 妻 」 論 ─ ─ 越 境 す

『 斜 陽 』( 一 九 四 七
『 ヴ ィ ヨ ン の 妻 』(
『 貨 幣 』( 一 九 四 六
『 雪 の 夜 の 話 』( 一
『 待 つ 』( 一 九 四 二
『 十 二 月 八 日 』( 一
女 性 の 読 者 。
、 妻 の 語 り は 一 旦 閉 じ ら れ る 。 居 酒 屋 の 亭 主 の 打 ち 明 け 話 な ど は
語 り か ら は じ ま る が 、 大 谷 に 五 千 円 盗 ま れ た 居 酒 屋 の 夫 婦 の 登 場
独 白 と い う こ と に な ろ う か 。「 ヴ ィ ヨ ン の 妻 」 は 、 詩 人 大 谷 の 妻
に 狭 い 土 間 附 き の ま こ と に む さ く る し い 小 さ い 家 を 借 り 」 亭 主 は 、
「 い ま の あ の 中 野 の 駅 ち か く に 、 昭 和 十 一 年 で し た か 、 六 畳 一 間
ま ず は 椿 屋 の 成 り 立 ち を 順 序 立 て て 見 て ゆ き た い 。
篇 く
二 年
し て
女 性
よ う
の 逸
と 比
る 。
る 。
る 。
じ ら
れ た
坪 井
妻 と
、 画
か 、
に わ
『『
饗お
応さ
夫ん
人 』(
』( 一
の 形 式 を 特 に 好 き な 人 も 多 い と 聞 い た か ら 、 こ の た
な 所 な ど あ っ て 、 作 者 は 赤 面 す る ば か り で あ る 。 け

太宰 治

太宰 治

太宰治太宰治本名津岛修治(つしましゅうじ),日本小说家。

太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。

1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川奖的候选作品。

结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。

1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,时年39岁,留下了《人间失格》等作品,成为日本战后无赖派文学代表作家。

序⏹“无赖派(ぶらいは)”又被称作“新戏作派”,是日本继“战后派”后,产生的一个新的文学流派。

无赖派作家们企图如实地记叙当时虚无、颓废的混乱社会,以及置身于其中的人。

在战后的开放气氛中,雄居文坛前沿,“取得了辉煌的业绩”。

无赖派作家有着反抗权威的意识,对生活采取自嘲和自虐的态度,专写病态和阴郁的东西,具有颓废倾向。

“无赖派”主要作家及其代表作有坂口安吾的《白痴》,《在樱花盛开的树林下》;石川淳的《废墟中的上帝》,《黄金传说》;太宰治的《斜阳》,《人间失格》;田中光英的《野狐》等。

⏹注:太宰治(だざいおさむ,1909~1948)是日本无赖派文学作家。

战后,他最先提出“无赖派”一说,并且在理论上进行阐述,在创作上加以实践。

从这个意义上讲,太宰治应该是当之无愧的成就最高的无赖派文学作家。

3太宰治幼年時代太宰治出生于一个豪华而粗鄙的家庭,因此,让他感受到了卑贱和自豪的矛盾,这种双重情感的分裂,与他自身的极度荣誉感,和自我欠缺感,形成了他的性格基调。

过分的自矜,导致他强烈的自我意识,和敏锐的感受性,必然在粗糙的现实磨砺中,动辄受到伤害。

因此,从性格上看,他永远是个长不大的少年。

由于母爱的缺失,他一生需要女性的呵护、抚慰,就算是死,也要牵着女人的手,走完人生最后一程。

⏹十八岁受芥川龙之介影响第一次自杀未遂⏹二十岁自杀未遂⏹二十一岁与银座酒吧女殉情⏹二十二岁与艺妓小山初代同居,钱财由女方资助⏹二十六岁因小说《逆行》入围芥川奖⏹二十七岁发表《阴火》第三次入围芥川奖而未果⏹二十八岁与小山初代一起服安眠药自杀未遂⏹三十岁与石原美知子结婚,因作品《女生徒》获北村透谷奖⏹三十八岁发表作品《斜阳》,结识山崎富荣⏹三十九岁再次以《如是我闻》震惊文坛,并着手创作《人间失格》。

太宰治-黄金风景

太宰治-黄金风景

黄金風景太宰治海の岸辺に緑なす樫(かし)の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて―プウシキン―私は子供のときには、余り質(たち)のいい方ではなかった。

女中をいじめた。

私は、のろくさいことは嫌(きら)いで、それゆえ、のろくさい女中を殊(こと)にもいじめた。

お慶は、のろくさい女中である。

林檎(りんご)の皮をむかせても、むきながら何を考えているのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持ったまま、いつまでも、ぼんやりしているのだ。

足りないのではないか、と思われた。

台所で、何もせずに、ただのっそりつっ立っている姿を、私はよく見かけたものであるが、子供心にも、うすみっともなく、妙に疳(かん)にさわって、おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思っても脊筋(せすじ)の寒くなるような非道の言葉を投げつけて、それで足りずに一度はお慶をよびつけ、私の絵本の観兵式の何百人となくうようよしている兵隊、馬に乗っている者もあり、旗持っている者もあり、銃担(にな)っている者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を鋏(はさみ)でもって切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮頃までかかって、やっと三十人くらい、それも大将の鬚(ひげ)を片方切り落したり、銃持つ兵隊の手を、熊(くま)の手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、そうしていちいち私に怒鳴られ、夏のころであった、お慶は汗かきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょ濡(ぬ)れて、私は遂(つい)に癇癪(かんしゃく)をおこし、お慶を蹴(け)った。

たしかに肩を蹴った筈(はず)なのに、お慶は右の頬(ほお)をおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。

「親にさえ顔を踏まれたことはない。

一生おぼえております」うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういったので、私は、流石(さすが)にいやな気がした。

太宰治《富岳百景》 日语原版

太宰治《富岳百景》  日语原版
私が、その峠の茶屋へ来て二、三日経つて、井伏氏の仕事も一段落ついて、或る晴れた午後、私たちは三ツ峠へのぼつた。三ツ峠、海抜千七百米。御坂峠より、少し高い。急坂を這(は)ふやうにしてよぢ登り、一時間ほどにして三ツ峠頂上に達する。蔦(つた)かづら掻きわけて、細い山路、這ふやうにしてよぢ登る私の姿は、決して見よいものではなかつた。井伏氏は、ちやんと登山服着て居られて、軽快の姿であつたが、私には登山服の持ち合せがなく、ドテラ姿であつた。茶屋のドテラは短く、私の毛臑(けづね)は、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶屋の壁にかかつてゐた古い麦藁帽(むぎわらばう)をかぶつてみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石(さすが)に少し、気の毒さうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないはうがいい、と小声で呟いて私をいたはつてくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台といふ、断崖(だんがい)の縁(へり)に立つてみても、いつかうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた。パノラマ台には、茶店が三軒ならんで立つてゐる。そのうちの一軒、老爺と老婆と二人きりで経営してゐるじみな一軒を選んで、そこで熱い茶を呑んだ。茶店の老婆は気の毒がり、ほんたうに生憎(あいにく)の霧で、もう少し経つたら霧もはれると思ひますが、富士は、ほんのすぐそこに、くつきり見えます、と言ひ、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立つてその写真を両手で高く掲示して、ちやうどこの辺に、このとほりに、こんなに大きく、こんなにはつきり、このとほりに見えます、と懸命に註釈するのである。私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑つた。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思はなかつた。

太宰治《女生徒》 日语原版

太宰治《女生徒》 日语原版
朝は、意地悪(いじわる)。
「お父さん」と小さい声で呼んでみる。へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと蒲団(ふとん)をたたむ。蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。どうして、こんな掛声を発したのだろう。私のからだの中に、どこかに、婆さんがひとつ居るようで、気持がわるい。これからは、気をつけよう。ひとの下品な歩き恰好(かっこう)を顰蹙(ひんしゅく)していながら、ふと、自分も、そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。
泣いてみたくなった。うんと息(いき)をつめて、目を充血させると、少し涙が出るかも知れないと思って、やってみたが、だめだった。もう、涙のない女になったのかも知れない。
あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。お掃除しながら、ふと「唐人お吉」を唄う。ちょっとあたりを見廻したような感じ。普段、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」を唄ったのが、面白い。蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら、唐人お吉を唄うようでは、自分も、もう、だめかと思う。こんなことでは、寝言などで、どんなに下品なこと言い出すか、不安でならない。でも、なんだか可笑しくなって、箒(ほうき)の手を休めて、ひとりで笑う。
結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなって、ポカンとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来るのではないのかしら。
食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。ことし、はじめて、キウリをたべる。キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。ひとりで食堂でごはんをたべていると、やたらむしょうに旅行に出たい。汽車に乗りたい。新聞を読む。近衛さんの写真が出ている。近衛さんて、いい男なのかしら。私は、こんな顔を好かない。額(ひたい)がいけない。新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。一字一句、最大の効果を収めようと、うんうん唸(うな)って、絞(しぼ)り出したような名文だ。こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少いであろう。なんだか、気味がよい。痛快だ。

太宰治-狂言の神

太宰治-狂言の神

狂言の神太宰治なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容(おももち)をすな。

(マタイ六章十六。

)今は亡(な)き、畏友(いゆう)、笠井一について書きしるす。

笠井一(かさいはじめ)。

戸籍名、手沼謙蔵。

明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生れた。

亡父は貴族院議員、手沼源右衛門。

母は高(たか)。

謙蔵は、その六男たり。

同町小学校を経て、大正十二年青森県立青森中学校に入学。

昭和二年同校四学年修了。

同年、弘前高等学校文科に入学。

昭和五年同校卒業。

同年、東京帝大仏文科に入学。

若き兵士たり。

恥かしくて死にそうだ。

眼を閉じるとさまざまの、毛の生えた怪獣が見える。

なあんてね。

笑いながら厳粛のことを語る。

と。

「笠井一(かさいはじめ)」にはじまり、「厳粛のことを語る。

と。

」にいたるこの数行の文章は、日本紙に一字一字、ていねいに毛筆でもって書きしたためられ、かれの書斎の硯箱(すずりばこ)のしたに隠されていたものである。

案ずるに、かれはこの数行の文章をかれ自身の履歴書の下書として書きはじめ、一、二行を書いているうちに、はや、かれの生涯の悪癖、含羞(がんしゅう)の火煙が、浅間山のそれのように突如、天をも焦(こ)がさむ勢にて噴出し、ために、「なあんてね」の韜晦(とうかい)の一語がひょいと顔を出さなければならぬ事態に立ちいたり、かれ日頃ご自慢の竜頭蛇尾の形に歪(ゆが)めて置いて筆を投げた、というようなふうである。

私は、かれの歿したる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視し、再読、三読、さらに持ち直して見つめたのだが、どうにも眼が曇って、ついには、歔欷(きょき)の波うねり、一字をも読む能わず、四つに折り畳んで、ふところへ、仕舞い込んだものであるが、内心、塩でもまれて焼き焦がされる思いであった。

残念、むねんの情であった。

若き兵士たり、それから数行の文章の奥底に潜んで在る不安、乃至(ないし)は、極度なる羞恥感、自意識の過重、或る一階級への義心の片鱗(へんりん)、これらは、すべて、銭湯のペンキ絵くらいに、徹頭徹尾、月並のものである。

太宰治-思ひ出

太宰治-思ひ出

思ひ出太宰治一章黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。

叔母は誰かをおんぶしてゐるらしく、ねんねこを着て居た。

その時の、ほのぐらい街路の靜けさを私は忘れずにゐる。

叔母は、てんしさまがお隱れになつたのだ、と私に教へて、生(い)き神樣(がみさま)、と言ひ添へた。

いきがみさま、と私も興深げに呟いたやうな氣がする。

それから、私は何か不敬なことを言つたらしい。

叔母は、そんなことを言ふものでない、お隱れになつたと言へ、と私をたしなめた。

どこへお隱れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。

私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝崩御のときは數へどしの四つをすこし越えてゐた。

多分おなじ頃の事であつたらうと思ふが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た瀧を忘れない。

瀧は村にちかい山の中にあつた。

青々と苔の生えた崖から幅の廣い瀧がしろく落ちてゐた。

知らない男の人の肩車に乘つて私はそれを眺めた。

何かの社(やしろ)が傍にあつて、その男の人が私にそこのさまざまな繪馬を見せたが私は段々とさびしくなつて、がちや、がちや、と泣いた。

私は叔母をがちやと呼んでゐたのである。

叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騷いでゐたが、私の泣き聲を聞いて、いそいで立ち上つた。

そのとき毛氈が足にひつかかつたらしく、お辭儀でもするやうにからだを深くよろめかした。

他のひとたちはそれを見て、醉つた、醉つたと叔母をはやしたてた。

私は遙かはなれてこれを見おろし、口惜(くや)しくて口惜(くや)しくて、いよいよ大聲を立てて泣き喚いた。

またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。

叔母の胸は玄關のくぐり戸いつぱいにふさがつてゐた。

その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたつてゐた。

叔母は、お前がいやになつた、とあらあらしく呟くのである。

私は叔母のその乳房に頬をよせて、さうしないでけんせ、と願ひつつしきりに涙を流した。

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きりぎりす太宰治おわかれ致(いた)します。

あなたは、嘘(うそ)ばかりついていました。

私にも、いけない所が、あるのかも知れません。

けれども、私は、私のどこが、いけないのか、わからないの。

私も、もう二十四です。

このとしになっては、どこがいけないと言われても、私には、もう直す事が出来ません。

いちど死んで、キリスト様のように復活でもしない事には、なおりません。

自分から死ぬという事は、一ばんの罪悪のような気も致しますから、私は、あなたと、おわかれして私の正しいと思う生きかたで、しばらく生きて努めてみたいと思います。

私には、あなたが、こわいのです。

きっと、この世では、あなたの生きかたのほうが正しいのかも知れません。

けれども、私には、それでは、とても生きて行けそうもありません。

私が、あなたのところへ参りましてから、もう五年になります。

十九の春に見合いをして、それからすぐに、私は、ほとんど身一つで、あなたのところへ参りました。

今だから申しますが、父も、母も、この結婚には、ひどく反対だったのでございます。

弟も、あれは、大学へはいったばかりの頃(ころ)でありましたが、姉さん、大丈夫かい?等と、ませた事を言って、不機嫌(ふきげん)な様子を見せていました。

あなたが、いやがるだろうと思いましたから、きょうまで黙って居(お)りましたが、あの頃、私には他に二つ、縁談がございました。

もう記憶も薄れている程なのですが、おひとりは、何でも、帝大の法科を出たばかりの、お坊ちゃんで外交官志望とやら聞きました。

お写真も拝見しました。

楽天家らしい晴やかな顔をしていました。

これは、池袋の大姉さんの御推薦でした。

もうひとりのお方は、父の会社に勤めて居られる、三十歳ちかくの技師でした。

五年も前の事ですから、記憶もはっきり致しませんが、なんでも、大きい家の総領で、人物も、しっかりしているとやら聞きました。

父のお気に入りらしく、父も母も、それは熱心に、支持していました。

お写真は、拝見しなかった、と思います。

こんな事はどうでもいいのですが、また、あなたに、ふふんと笑われますと、つらいので、記憶しているだけの事を、はっきり申し上げました。

いま、こんな事を申し上げるのは、決して、あなたへの厭(いや)がらせのつもりでも何でもございません。

それは、お信じ下さい。

私は、困ります。

他のいいところへお嫁に行けばよかった等と、そんな不貞な、ばかな事は、みじんも考えて居りませんのですから。

あなた以外の人は、私には考えられません。

いつもの調子で、お笑いになると、私は困ってしまいます。

私は本気で、申し上げているのです。

おしまい迄(まで)お聞き下さい。

あの頃も、いまも、私は、あなた以外の人と結婚する気は、少しもありません。

それは、はっきりしています。

私は子供の時から、愚図々々が何より、きらいでした。

あの頃、父に、母に、また池袋の大姉さんにも、いろいろ言われ、とにかく見合いだけでも等と、すすめられましたが、私にとっては、見合いもお祝言(しゅうげん)も同じものの様な気がしていましたから、かるがると返事は出来ませんでした。

そんなおかたと結婚する気は、まるっきり無かったのです。

みんなの言う様に、そんな、申しぶんの無いお方(かた)だったら、殊更(ことさら)に私でなくても、他に佳(よ)いお嫁さんが、いくらでも見つかる事でしょうし、なんだか張り合いの無いことだと思っていました。

この世界中に(などと言うと、あなたは、すぐお笑いになります)私でなければ、お嫁に行けないような人のところへ行きたいものだと、私はぼんやり考えて居りました。

丁度その時に、あなたのほうからの、あのお話があったのでした。

ずいぶん乱暴な話だったので、父も母も、はじめから不機嫌でした。

だって、あの骨董屋(こっとうや)の但馬(たじま)さんが、父の会社へ画を売りに来て、れいのお喋(しゃべ)りを、さんざんした揚句の果に、この画の作者は、いまにきっと、ものになります。

どうです、お嬢さんを等と不謹慎な冗談を言い出して、父は、いい加減に聞き流し、とにかく画だけは買って会社の応接室の壁に掛けて置いたら、二、三日して、また但馬さんがやって来て、こんどは本気に申し込んだというじゃありませんか。

乱暴だわ。

お使者の但馬さんも但馬さんなら、その但馬さんにそんな事を頼む男も男だ、と父も母も呆(あき)れていました。

でも、あとで、あなたにお伺いして、それは、あなたの全然ご存じなかった事で、すべては但馬さんの忠義な一存からだったという事が、わかりました。

但馬さんには、ずいぶんお世話になりました。

いまの、あなたの御出世も、但馬さんのお蔭よ。

本当に、あなたには、商売を離れて尽して下さった。

あなたを見込んだというわけね。

これからも、但馬さんを忘れては、いけません。

あの時、私は但馬さんの無鉄砲な申し込みの話を聞いて、少し驚きながらも、ふっと、あなたにお逢いしてみたくなりました。

なんだか、とても嬉(うれ)しかったの。

私は、或(あ)る日こっそり父の会社に、あなたの画を見に行きました。

その時のことを、あなたにお話し申したかしら。

私は父に用事のある振りをして応接室にはいり、ひとりで、つくづくあなたの画を見ました。

あの日は、とても寒かった。

火の気の無い、広い応接室の隅(すみ)に、ぶるぶる震えながら立って、あなたの画を見ていました。

あれは、小さい庭と、日当りのいい縁側の画でした。

縁側には、誰も坐(すわ)っていないで、白い座蒲団(ざぶとん)だけが一つ、置かれていました。

青と黄色と、白だけの画でした。

見ているうちに、私は、もっとひどく、立って居られないくらいに震えて来ました。

この画は、私でなければ、わからないのだと思いました。

真面目(まじめ)に申し上げているのですから、お笑いになっては、いけません。

私は、あの画を見てから、二、三日、夜も昼も、からだが震えてなりませんでした。

どうしても、あなたのとこへ、お嫁に行かなければ、と思いました。

蓮葉(はすは)な事で、からだが燃えるように恥ずかしく思いましたが、私は母にお願いしました。

母は、とても、いやな顔をしました。

私はけれども、それは覚悟していた事でしたので、あきらめずに、こんどは直接、但馬さんに御返事いたしました。

但馬さんは大声で、えらい!とおっしゃって立ち上り、椅子に躓(つまず)いて転びましたが、あの時は、私も但馬さんも、ちっとも笑いませんでした。

それからの事は、あなたも、よく御承知の筈(はず)でございます。

私の家では、あなたの評判は、日が経(た)つにつれて、いよいよ悪くなる一方でした。

あなたが、瀬戸内海の故郷から、親にも無断で東京へ飛び出して来て、御両親は勿論(もちろん)、親戚の人ことごとくが、あなたに愛想づかしをしている事、お酒を飲む事、展覧会に、いちども出品していない事、左翼らしいという事、美術学校を卒業しているかどうか怪しいという事、その他たくさん、どこで調べて来るのか、父も母も、さまざまの事実を私に言い聞かせて叱(しか)りました。

けれども、但馬さんの熱心なとりなしで、どうやら見合いまでには漕(こ)ぎつけました。

千疋屋(せんびきや)の二階に、私は母と一緒にまいりました。

あなたは、私の思っていたとおりの、おかたでした。

ワイシャツの袖口(そでぐち)が清潔なのに、感心いたしました。

私が、紅茶の皿を持ち上げた時、意地悪くからだが震えて、スプーンが皿の上でかちゃかちゃ鳴って、ひどく困りました。

家へ帰ってから、母は、あなたの悪口を、一そう強く言っていました。

あなたが煙草(たばこ)ばかり吸って、母には、ろくに話をして上げなかったのが、何より、いけなかったようでした。

人相が悪い、という事も、しきりに言っていました。

見込みがないというのです。

けれども私は、あなたのところへ行く事に、きめていました。

ひとつき、すねて、とうとう私が勝ちました。

但馬さんとも相談して、私は、ほとんど身一つで、あなたのところへ参りました。

淀橋(よどばし)のアパートで暮した二箇(か)年ほど、私にとって楽しい月日(つきひ)は、ありませんでした。

毎日毎日、あすの計画で胸が一ぱいでした。

あなたは、展覧会にも、大家(たいか)の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていました。

貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、遠い思い出の故郷のような懐(なつか)しさを感じました。

お金が本当に何も無くなった時には、自分のありったけの力を、ためす事が出来て、とても張り合いがありました。

だって、お金の無い時の食事ほど楽しくて、おいしいのですもの。

つぎつぎに私は、いいお料理を、発明したでしょう?いまは、だめ。

なんでも欲しいものを買えると思えば、何の空想も湧(わ)いて来ません。

市場へ出掛けてみても私は、虚無です。

よその叔母さんたちの買うものを、私も同じ様に買って帰るだけです。

あなたが急にお偉くなって、あの淀橋のアパートを引き上げ、この三鷹(みたか)町の家に住むようになってからは、楽しい事が、なんにもなくなってしまいました。

私の、腕の振いどころが無くなりました。

あなたは、急にお口(くち)もお上手になって、私を一そう大事にして下さいましたが、私は自身が何だか飼い猫のように思われて、いつも困って居りました。

私は、あなたを、この世で立身なさるおかたとは思わなかったのです。

死ぬまで貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑(ちょうしょう)せられて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過して行くお方だとばかり思って居りました。

私は、ばかだったのでしょうか。

でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人がいる筈だ、と私は、あの頃も、いまもなお信じて居ります。

その人の額(ひたい)の月桂樹(げっけいじゅ)の冠は、他の誰にも見えないので、きっと馬鹿扱いを受けるでしょうし、誰もお嫁に行ってあげてお世話しようともしないでしょうから、私が行って一生お仕えしようと思っていました。

私は、あなたこそ、その天使だと思っていました。

私でなければ、わからないのだと思っていました。

それが、まあ、どうでしょう。

急に、何だか、お偉くなってしまって。

私は、どういうわけだか、恥ずかしくてたまりません。

私は、あなたの御出世を憎んでいるのではございません。

あなたの、不思議なほどに哀しい画が、日一日と多くの人に愛されているのを知って、私は神様に毎夜お礼を言いました。

泣くほど嬉しく思いました。

あなたが淀橋のアパートで二年間、気のむくままに、お好きなアパートの裏庭を描いたり、深夜の新宿の街を描いて、お金がまるっきり無くなった頃には但馬さんが来て、二、三枚の画と交換に十分のお金を置いて行くのでしたが、あの頃は、あなたは、但馬さんに画を持って行かれる事が、ひどく淋(さび)しい御様子で、お金の事になど、てんで無関心でありました。

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