日本人和樱花_文档1

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桜は十日間ほどで、その役目を終えたかのようにぱっと散る。それが清く感じられる。日本で国花として尊重されている。大和心を象徴している。日本人にとって桜は特別な花で、富士山、東京タワーと一緒に日本のシンボルになった。しかし、ほかの日本の象徴と異なり、その最も重要な点は、上は天皇、公家、武士から農民、商人などの民衆にいたるまで、また男も女も、日本社会の集団のそれぞれが桜を自分たちの花として楽しみ、人生の意味を考えてきたことである。

大昔、桜の木は繁栄と豊作の神様として崇拝されてきた。そして、古代の上流社会の貴族などの寵児であった。江戸時代、桜は真に庶民の花になった。また、桜の花のように潔く散ることこそ武士道に一致するものとされ、第二次世界大戦の時、軍国主義等に利用されたこともある。こうして、桜は大昔から日本の庶民に親しまれてきた花であり、それが上流社会にも入り込み、日本の

諸々の階層において、それぞれ独自の文化として、長い間育まれてきた。

桜は人々にそれぞれの思い出を蘇らせてくれる不思議な力を持っている。そして、恋のメタフアーである。躍動的な生と見事の死の両方のメタフアーでもある。強い集団意識を持っている日本人は花が一斉に咲いたり、散ったりしたほうがもっと素晴しいと思っていた。

「敷島の、大和心を人問はば、朝日ににほふ、山桜花」というように、桜は日本人とかけがえのない強い絆によって結ばれ、日本人の血液に溶けてしまう。長かった冬ごもりから覚めた躍動的な春を象徴する桜は日本人にとって明る

い希望と勇気をもたらす心の故郷であると思われる。

キーワード:日本桜大和心シンボルメタフアー

日本人と桜

序論

日本のドラマ、小説、漫画などの文芸作品の中で、美しい桜の姿がよく見られる。「花見」という言葉もある。その「花」とは「桜」をさしている。日本人は桜が大好きだということを私は昔から知っていた。花には命がある。それぞれの花についての好き、嫌いはそれぞれの人間のタイプの違いを表していると思う。では、桜が好きな日本人とはどんな精神の持ち主だろうか。日本には特に桜について「桜前線」という言葉もあり、天気予報と共によく報道されている。桜は日本人の重要な一部分である。日本人はなぜこのように桜が好きなのだろうか。この問題に大きな興味を持っている。

それに、私自身、花が好きであり、かつて中国でも無錫の公園で一度桜の花を見たことがある。ピンクのはなびら、薄い匂い、平凡な姿。それが桜である。私が見たその姿はテレビで見たものとはすこし違っていた。それほど美しくはなかった。だが、私はまったく失望しなかった。それはなぜか。桜をこの目で見た瞬間、心の中に言いようのない感じが生じたからだ。それは何か。桜について私は全部知りたいと思う。その時から、この思いがずっと私の頭の中に残り続けている。

このような理由で、このテ-マに取り組んでみた。

本論

桜は日本で国花として尊重されている。大和心を象徴している。日本人にとって桜は特別な花で、富士山、東京タワーと一緒に日本のシンボルになった。しかし、ほかの日本人の象徴と異なり、その最も重要な点は、上は天皇、公家、武士から農民、商人などの民衆に至るまで、また男も女も、日本社会の集団のそれぞれが桜を自分たちの花として楽しみ、人生の意味を考えてきたことである。

『古事記』、『日本書紀』が成立する8世紀から1000年以上も遡る紀元前300年頃に日本列島に導入された稲作文化の中に、日本人は「桜の花を稲の花の象徴」と見たから、遠くから山の桜の花を眺め、花の咲き方、散り方によってその年の稲の実りを占った。花は散ったら大変だ。それに、神経過敏になって「花よ、せわしなく散るな。稲の花も実りを結ばないでは困る」と鎮花祭をしたという。つまり、桜の木は繁栄と豊作の神様として崇拝されていた。平安時代の前期、日本人は中国の当時の繁栄していた隋、唐から文化などを学んでいた。中国文化の強い影響の下にあった上流の貴族や知識人の間に、中国の花である梅が大きな観賞の対象となり、国花として尊重されたことさえも

ある。桜の地位は尐々低かった。しかし、それからだんだんと中流の無名人や地方の人々の普段の生活に近づいてきた。その当時の桜を吟じたものはほとんど喜びに満ちた歌われ方をしたものだ。桜の散ることさえも命の再生のきざしにされていた。

平安時代の中期、10世紀の頃、地主階層が拡大し、さらに発展するにつれて、その利益を守る武士階層ができた。日本人の中の特別の存在--武士にとって、桜の魅力は花が散っている時のすばらしさにあった。自分の命は花のように短い、無常だが、主人を守るために、命をかけても、かまわない、死んでも桜のように見事な終わり方をしたいという武士の思いである。

江戸時代、人々の桜観は平安時代の武士の桜観を基礎にして、発展してきたものである。武士は高い地位に達していて、経済的にも恵まれていた。「花は桜木、人は武士」という諺によって日本人が桜と武士をどれほど尊重していたかがわかる。武士は人々の手本になり、彼らの桜観は日本人に大きな影響をもたらした。そして、その桜観は当時の社会の主流になった。

何といっても、桜は庶民の花となり、花見が彼等の重要な行事になるのは江戸時代である。

「花見」というなら、今も昔も桜を眺めに行くことだが、これは野生の山桜の「桜狩り」から始まった。『太平記』の一節「落花の雪に踏み迷ふ交野の春の桜狩り」を思い出すが、桜狩りは桜にこもる霊魂を体内に取り入れる儀式だ。それが、段々と人間の生活空間に桜が持ち込まれるようになり、里桜、家桜となる。最初、「花見」は貴族の間で流行していた。平安後期、日本は独自の文化を形成していく上で、中国的な花ではなく、日本の固有の花が好まれた。宮廷を中心として、梅よりも桜ということで、桜は様々な行事に出始めた。春になるごとに、上流社会で、豪華な花の宴を催した。そんな桜の宴は和歌を作る場として「文」の最高に発達した行事であると共に、政治的色彩が濃厚だった。花の宴は王権のシンボル、貴族の富との権力のシンボルでもあったのだ。

それに対して、江戸っ子は自分の気性を桜の花に託し、桜は彼らのシンボルになった。散り際がさっぱりしていることは彼らにとって魅力があるのだ。それはこの前述べた武士の桜観に影響された結果だった。つまり、庶民の中において育まれてきた花見が、江戸時代に江戸っ子によって、「満開」となり、王朝の花の宴に劣らぬ一文化活動となったのだ。

こうして桜は江戸時代にはすっかり日本人の心の中に根を下ろしていた。それだけに、第二次世界大戦の時、軍国主義が発展していく時、桜は「軍国の花」、「死亡の花」として利用されるようになったのだ。その経過を辿ると、如何に

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