1980年代鲁迅研究関二论考

1980年代の魯迅研究に関する二つの論考中井 政喜Ⅰ．はじめに2004年11月25日、第3回「多元社会と未来社会」研究会において、私は「革命文学論争（1928年頃）以降の魯迅」という題目で、簡単な報告を行った。

そのなかの課題の一つとして言及した、中国の魯迅研究史において画期的な内容をもつ、1980年代における魯迅研究の二つの論考をここに紹介する。

それは次の論文と本である。

①「第三章 歴史的“中間物”与魯迅小説的精神特徴」（『反抗絶望－魯迅的精神結構与《吶喊》《彷徨》研究』、汪暉、上海人民出版社、1991・8、132頁－190頁、「第二編 魯迅小説的精神特徴」〈125頁－313頁〉に所収、初出は、『文学評論』1986年第5期）、②『心霊的探尋』（銭理群、上海文芸出版社、1988・7、全362頁）。

この二つの文章について、その特徴と意義を私なりに追究してみたい。

ただ私は、その後の魯迅研究史を十分追跡することが現在できていないので、論文の内容の紹介と2005年の現在から考える私なりの評価ということにとどまる。

ここに提起された諸問題を、日本の一研究者として、いまどのように受けとめるのかを記してみたい。

そのことによって自分なりの魯迅研究の課題を明確にしていきたい。

Ⅱ．論文「歴史的“中間物”与魯迅小説的精神特徴」〔歴史的〈中間物〉と魯 迅小説の精神的特徴〕（おうき汪暉、第三章の章名を使用する）について一、内容の紹介当論文の節の構成は以下の通りである。

*「第1節 “中間物”与中国社会的現代化進程」〔〈中間物〉と中国社会の近242中井政喜代化過程〕*「第2節“中間物”的精神特徴及其心理発展」〔〈中間物〉の精神的特徴とその心理的発展〕*「第3節「『吶喊』『彷徨』的精神発展与“中間物”的心理過程」〔『吶喊』『彷徨』の精神的発展と〈中間物〉の心理過程〕*「第4節“中間物”与魯迅小説芸術体系的激情類型」〔〈中間物〉と魯迅小説の芸術的体系における激情類型〕*「第5節“中間物”与魯迅小説的語言特徴」〔〈中間物〉と魯迅小説の言葉の特徴〕汪暉氏は、中国における『吶喊』『彷徨』に関するこの五〇年あまりの研究が、反映論（「鏡」）を基礎とする研究方法に基づいてきたとする。

こうした研究は大きな成果を収めると同時に、内部世界の連係の中から小説を探求することを阻んできた。

魯迅の小説における内在精神の追究を行わず、また小説内部から小説集の統一的基調を追究することをしなかったとする。

汪暉氏は魯迅の小説を彼の全精神史の表現とし、小説を作家の心理史の展開とする。

魯迅の思想の矛盾と、彼の〈中間物〉意識に基づいて、1)『吶喊』（北京新潮社、1923・8）、『彷徨』（北京北新書局、1926・8）の小説集を分析する。

魯迅の精神史として小説をとらえる場合、歴史的〈中間物〉としての彼の、認識と態度を明らかにしようとする。

それは小説集の中に、理性的啓蒙と、絶望に反抗する人生哲学として現れる。

魯迅の〈中間物〉意識とは、中国旧社会における先覚者としての自覚と反逆者としての自信、そして自己否定（自己省察）を内容とする。

汪暉氏は1920年代において自己否定を含む魯迅の〈中間物〉意識が生みだされ確立したとする。

（それがなぜ、どのように生みだされたのかという点について、汪暉氏の解釈はない。

）魯迅の小説集を、従来の中国における研究のように中国旧社会の認識論的反映とするばかりではなく、さらに〈中間物〉意識の基礎にたてられた放尃的な体系として考察する。

汪暉氏は、改革者と普通の知識人を兹ねた精神的戦士として魯迅をとらえる（それが〈中間物〉の意味である）。

この〈中間物〉の心理過程（孤独、悲憤、1980年代の魯迅研究に関する二つの論考243愛から憎へ、復讐へ）を、『吶喊』『彷徨』の内在精神を解釈する手がかりとする。

汪暉氏は歴史的〈中間物〉の特徴を次の三点に見る。

①自己否定（「人を食べたことのある人間」）、②生と死の人生問題に対する注視（死＝過去と絶望、生＝未来と希望。

「絶望の虚妄なること、希望に相同じい」〈「希望」、『野草』所収〉とは、〈中間物〉意識の集中的表現）、③黄金時代の否定（自己が黄金時代にふさわしくない、すなわち自己否定。

また進化論的発展の一過程として歴史を考え、絶対的理想を想定しない。

現実の闘争に執着する姿勢）。

汪暉氏は、改革者と大衆の関係を、魯迅の小説を解釈するうえでの具体的な中心的手がかりとする。

例えば、「薬」（『吶喊』）における夏瑜と大衆との隔絶についての表現のされ方、「頭髪的故事」（『吶喊』）における大衆に対する改革者の憤激、〈中間物〉としての改革者の内心の虚無、悲観、「孤独者」（『彷徨』）における覚醒者の社会改造に対する渇望と、憎悪への転化、自己破壊的な方式で行われる復讐、この〈孤独者〉の人生が歴史的〈中間物〉の運命とする。

「私は『吶喊』『彷徨』を一つの全体、一つの過程としてみる。

魯迅の小説は覚醒した知識人の心理過程のなかで、中国社会・歴史の〈食人〉の本質を発見し、落伍した大衆を、とりわけ農民のひどい精神的欠陥を批判し、〈国民性〉を改革する歴史的課題を提起した。

同時にまた否定の矛先を知識人自身に向けた。

魯迅の小説のリアリズムというこの内在的発展の過程は、まさしく否定の過程である。

それは知識人の自己覚醒に始まり、外部世界に対する認識と否定を経由して、自己に対する再認識と否定に帰結した。

」（163頁－164頁）汪暉氏のこうした論について、私には、「狂人日記」に適切であっても、「孤独者」にはあてはまらないと思われる。

「孤独者」における自新のためのカタルシスに注目してよいと思われる。

魯迅の小説集における内在的全体性の基点が、すなわち歴史的〈中間物〉という自己意識自体が、不動不変のものではなく、変化していることを私は考えたい。

「歴史的〈中間物〉意識の誕生は、魯迅が臂を振るって一呼すれば応ずるもの雲の如しという英雄の夢想から、現実に戻ったことを表示している。

そのことは自己と、自己による批判の対象との間にある、実際は徹底的には切断されていない244中井政喜連係の認識を、魯迅にもたらした。

自己による批判の対象とは、長い歴史的伝統、落伍した社会生活、愚昧な民衆、残酷な道徳体系である。

まさしくこうした深刻な〈中間物〉意識によって、魯迅は若年の〈英雄〉の心理状態で現実に対することはなくなり、旧陣営から来て矛を翻して一撃する〈普通人－中間物〉の心理状態で同一の現実に存在する人民を描いた。

この意味から、魯迅のリアリズムは〈中間物〉の角度から反封建の問題を提出した。

〈中間物〉の言葉が含む〈先覚者〉と〈普通人〉の二重の内容は、魯迅の小説の思想意識の先進性と芸術的人民性の内在的根拠を物語る。

」（176頁）私には、魯迅の二〇年代が、もう尐し複雑な経過をたどったと思われる。

私は、魯迅の「中間物」（「写在『墳』后面」、1926・11・11、『墳』）という自己認識は、1926年に始めて生まれたと解釈する。

1926年頃に、自己を歴史的「中間物」として肯定できる面を認識したことに、正当に評価できたことに、魯迅にとっての大きな意味があった。

辛亥革命（1911年）挫折以降から1926年以前において、魯迅は先覚者としての自己の思想の正しさに確信を持っていたとはいえ、挫折を体験した改革者としての憤激の心情が、魯迅の心の核としてあったと思われる。

そこには魯迅自身がバイロン、シェリーのような優れた先覚者ではなかったという自覚もあった。

それは自己を進化論的に解釈するものではあれ、過渡的存在であるがゆえに、自己を否定的にとらえるものである。

否定的な自己評価が、肯定的な面をも含む「中間物」としての認識に転換する時期が、1926年頃であり、それには青年文学者に対する憤り等が契機になったと私には思われる。

最後に、汪暉氏は次のように〈中間物〉という概念を総括する。

「要するに、〈中間物〉というこの概念は非常に豊かな社会文化的内容を含んでいる。

第一に、それは深刻な自己意識であり、次のような精神過程を含んでいる。

作家は独立した自己を現実の中に還し、そこから自身の使命と、克服できない制約の認識を獲得する。

第二に、それは知識人と現実世界の客観的な多方面の関係を、そしてこの関係の在り方から生みだされる多重の身分を、体現する。

伝統的秩序との関係の中では、彼は反逆者である。

大衆との関係の中では、彼は先覚者である。

未来社会とその原則との関係では、彼は追求者であり、同時にまた過渡的一代に属する。

第三に、それは作家が現実を自己にとって唯一意義のあるもの1980年代の魯迅研究に関する二つの論考245とすることを規定し、そこから現在に執着するリアリズムの態度をつくる。

それが体現する作家と現実との多方面の関係が、創作過程の中で複雑多様な情感の在り方を構成する。

第四に、こうした自我の本質、人生哲学、情感の在り方に関わる概念は、作家が自我と社会およびその相互の関係について真の認識からえたものであることによって、中国近現代社会関係の産物でもあり、中国近現代社会文化の〈過渡性〉を深く反映している。

」（189頁－190頁）複雑な魯迅の心情・思想を、あるがままに精神史的に追究し、上のように詳細に分析した汪暉氏の試みは、中国の魯迅研究史のなかで画期的なものである。

二、評価について汪暉氏の論文は、従来の中国における魯迅研究を、すなわち基本的に社会の反映という角度からする研究方法に基づいた魯迅小説研究を、さらに豊かにするものとして、大きな価値を持つものであると考える。

二〇年代の魯迅の複雑な精神・心情を明らかにするうえで、中国における魯迅研究史の中で、大きな意味があった。

しかしながら、次のような課題もあると考える。

丸尾常喜氏は、「魯迅の“歴史的中間物意識”について」（『学人』第1輯、江蘇文芸出版社、1991・11）において次のように論評する。

「やがて、魯迅の〈進化論〉は、社会と個人の双方において、さまざまな障害や裏切りに出会うことになる。

閉じこめられた生の一回性が、しだいに呻き声をあげ、魯迅を突き上げて苦しめてくる。

私たちは『彷徨』『野草』の諸作品に魯迅の生の一回性の反抗を見いだすことができる。

なかでも〈頽れた線の顫え〉は、魯迅的な〈進化論〉の崩壊の苦痛に満ちた過程を、象徴的に表現している。

〈『墳』の後記〉は、上記のような苦痛の過程を経て生まれた魯迅の新しい自己認識を示している。

その自己認識は、〈魯迅における現在の回復〉（木山英雄〈『野草』的形成の論理ならびに方法について〉）とされる許広平との結婚の選択と並行して獲得されたもので、〈『墳』の後記〉の成立を重視するならば、これを指して“中間物認識”と言うべきであって、〈狂人246中井政喜日記〉に反映しているものは“中間物意識”と呼んで区別したほうがいいかもしれない。