村上春树の作品が现代人に受けられる理由を论ずる
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村上春樹の作品が現代人に受けられる理由を論ずる
要旨
本論文は、村上春樹の小説が現代人に受けられる理由について論ずるものである。
その理由は主に三つがあると思われる。
まず、現代都市に出身し、また現代都市で成長した村上春樹は、物語の舞台をほとんど現代都市に設定し、現代人の様々の生き方を展示しているからである。
次は、村上春樹の作品は現代に生きる人々の内面的な苦しみを表現しているからだと思える。
この部分は具体的な作品分析を通して、「現代人の恋愛と生き甲斐の悩み」「現代人の喪失感と孤独感」「大人に成れない現代人」と三つに分けて検討を進める。
最後は、癒しを求めている現代人は村上春樹の文学に癒されているからだと考えられる。
キーワード:現代人現代都市心理問題癒し
摘要
本论文研究了村上春树为何能被现代人接受的原因。
其原因可以主要分为三点。
首先,村上春树本人出生在现代都市,其成长的地方也是现代都市。
其小说的故事大部分也是以现代都市为背景舞台,展现现代人各种各样的生活。
其次,我认为村上春树的作品描写了生活在现代社会的人们内心的痛苦。
这一部分以具体作品为例分为三点:第一,关于现代人对恋爱和生活意义的苦恼。
第二,现代人总有一种丧失感和孤独感。
第三,有一部分现代人仿佛总也长不大。
我认为是还有一点是寻求心理安慰的现代人在村上春树的作品中得到了慰藉。
关键词:现代人现代都市心理问题心理安慰
目次
はじめに (1)
1現代都市を舞台とする (1)
1.1主人公の都市出身 (1)
1.2都市を土台に精神層面の掲示 (1)
2 現代人の心理問題を描く (1)
2.1 現代人の恋愛と生き甲斐の悩み (1)
2.2 現代人の喪失感と孤独感 (4)
2.3 大人に成れない現代人 (5)
3 村上春樹と癒しを求めている現代人 (7)
3.1精神の癒しを求め (7)
3.2欲望の求め (7)
3.3まとめ (8)
終わりに (9)
注釈 (10)
参考文献 (11)
はじめに
村上春樹はデビュー当時から現在まで数々のベストセラー作品を世に出し、数々の賞を得て高い評価を受けており、日本の代表的な現代作家である。
村上春樹の小説をめぐって、川本三郎の「村上春樹対議」、斎藤郁男の「探訪村上春樹の世界」において多く論じられてきた。
その中に、特に、斎藤郁男の「探訪村上春樹の世界」は、村上春樹小説の特徴と精神性について検討したが、同時に「軽い内容のある作品」という否定的な評価を受けることも多い。
以上の評価があるながら、彼の作品は確かに現代の若者に気に入る。
村上が読者から高い支持を受け続けるのは、現代に生きる人々の内面的な苦しみを表現しているからだと思える。
本論文は村上の作品の魅力と作品が高い支持を得ている理由について考察していきたい。
1現代都市を舞台とする
なぜ村上春樹の小説は現代の都市人の中に特に人気があるだろう。
これから先ず物語発生の舞台から検討してみる。
1.1主人公の都市出身
村上春樹の小説の主人公たちの出身からみれば、合計12部の長編小説の中に、主人公が殆ど都市の出身である。
それに、大都市を舞台として、物語を展開するものである。
都市を舞台としての小説だからこそ、現代人に受け入れやすくなると思われる。
なぜならば、自分の周りの事情が描写されると誰でも興味が出てくる。
1.2都市を土台に精神層面の掲示
都市を舞台とする作家は勿論村上春樹一人ではないが、彼のように都市生活の描くに執着する作家は実に少ない。
村上春樹は都市生活の描くに執着する原因は彼自身の出身や生活環境に大きく関わっていると思われる。
村上春樹の作品は、現代の豊富な物質社会で、人間関係が希薄になったため、コミュニケーションが苦手になった人々が、心の豊かさを失った苦しみを描いている。
そしてその後、同じような作品を描く作家は多くなったのに、支持を失うことはなかった。
それほどの支持を得るのは村上春樹が深く現代社会の人間関係を理解しているからだろう。
次は村上はどのように現代人の心理問題を描くことについて検討してみる。
2 現代人の心理問題を描く
村上は現代人の様々の心理問題と悩みを深く洞察し、小説の主人公を通して現代人の心理問題を描き、読者に共鳴を与えるものである。
この部分は具体的な作品分析を通して、「現代人の恋愛と生き甲斐の悩み」「現代人の喪失感と孤独感」「大人に成れない現代人」と三つに分けて検討を進める。
2.1 現代人の恋愛と生き甲斐の悩み
現代人が抱える多くの心理問題の中に、恋愛と生存意味に関する悩みがもっとも注目されている。
これから「ノルウェイの森」を分析しながら、作品はどのように現代人の恋愛と生き甲斐の悩みを描いているのかについて検討する。
「ノルウェイの森」という小説は現代社会の若者の恋愛観と生きる意味を描写した、村上春樹の名前を一躍有名にした大ヒット作である。
大学に入ったばかりの「僕」は自殺した親友キズキの恋人直子と偶然出会う。
週末ごとにデートを重ね「僕」は次第
に直子にひかれて行くが、直子は心を深く病んでいた。
同級生の緑、学生寮で奇妙な友情を交わす永沢さん、その恋人ハツミさん、そして京都の山奥の療養施設で直子の面倒を見るレイコさん、村上作品の中では例がないほど現実的、写実的なタッチで描かれた「普通の恋愛小説」である。
普通の恋愛小説とはいえ、その中に現代の若者の独特な恋愛観を表している。
登場した人物はそれぞれ「荷物」を背負って生きている。
その「荷物」は現代人の特有の問題である。
村上春樹の作品の主人公は、周囲の人々とほとんど関わらず、作品の中に友人や家族が出てくることはほとんどない。
主人公が一番関係を築くのは恋人であり、そのため恋人とのコミュニケーションが彼らの人間関係を表すものとなっている。
村上春樹の代表作とも言える恋愛小説「ノルウェイの森」は、陰と場ともいえる直子と線の二人の女の子と僕との恋愛物語である。
主人公ワタナベの「荷物」は唯一の親友キズキの自殺である。
「キズキが死んでから高校を卒業するまでの十ヵ月ほどのあいだ、僕はまわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。
僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年ももたなかった。
彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ。
僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京の私立大学を選んで受験し、とくに何の感興もなく入学した。
その女の子は僕に東京に行かないでくれと言ったが、僕はどうしても神戸の街を離れたかった。
そして誰も知っている人間がいないところで新しい生活を始めたかったのだ。
」(「ノルウェイの森」P39)そして『僕』はこれから自分の青春には一部が失われ、「死」に巡って、青春時代を送った。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(「ノルウェイの森」P41)というのが主人公である「僕」の基本的な認識だ。
そしてそれはこの物語を貫く最大のテーマでもある。
僕たちはみんな毎日少しずつ死に続けているのだ。
そのような、死が必然的に生の一部であるような世界で生き続けるとはどういうことだろう。
「俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。
でも今はそうは思わない。
俺はもう十代の少年じゃないんだよ。
俺は責任というものを感じるんだ。
なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。
俺はもう二十歳になったんだよ。
そして俺は生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ」。
(「ノルウェイの森」P152)
これは現代社会の若者によくある心理問題である。
即ち、死に対するの無力感であ
り、特に身内の人の死に直面できない弱さである。
死という事実を受け入れられず、また生き甲斐をも分からなくて、すぐに逃げ口を探してしまう。
これは豊かな現代社会に育てられた若者の共通した弱点だと思われる。
次は恋に対する悩みである。
「僕」は最初直子を愛しているのだが、直子とは上手く行かず、途中から緑に対する自分の気持ちに気付き、緑との未来を生きることとなる。
また、二人の女の子との精神的恋愛とは別に、「僕」は行きずりの女の子との肉体的恋愛を行い、その度に空しさを感じながらも繰り返す。
「僕」は精神的な恋愛が上手く行かなくなった時に、苛立ちや混乱から逃れるために肉体的恋愛を繰り返しており、そのような気持ちからの一時的な脱出方法として肉体的恋愛を行なっていた。
普通「寝る」という行為は恋愛の相手とコミュニケーションをとって距離を縮めた後の行為であり、「僕」はそれで安心していた。
「僕」の直子から緑への気持ちの変化は、「僕」と二人の女の子とのコミュニケーションの取り方が関係していると思われる。
直子と「僕」は一緒にいても会話は少なく、直子の元恋人で「僕」の親友だったキズキについて等、重要なことについては全く話さない。
二人は高校の時のキズキの自殺で、思ったことを言葉にするのが苦手になっており、それをお互いに助長してしまった。
そして心のコミュニケーションをしっかりと取らないままに二人は寝、直子の病状は悪化し、「僕」は結局直子を助けることはできなかった。
それに対し、緑と「僕」はひたすら話す。
線は生命力の塊のような女の子であり、自分のことを話し、「僕」に質問をし、「僕」について不満なことがあれぱ声を大にして怒る。
そんな緑に「僕」は自分の殻に閉じこもることなく、心を開いていき、二人の問にはコミュニケーションがとれ、深い絆が生まれた。
そして二人はお互いに恋人がいたこともあり、告白しあうまで、つまり自分の気持ちをはっきりと自覚するまで寝ることはなかった。
これは人間関係がオープンした現代社会の特にある恋悩みである。
このように、コミュニケーションをうまく取れたかどうか、それこそが、深い人間関係を作り出す。
しかし現代の人々は、コミュニケーションの能力が低下し、うまく深い人問関係を作り出せない。
そして肉体的恋愛の意味が輕くなったこともあり、低い精神的恋愛のまま肉体的恋愛を進行させている。
しかし皆心のどこかで大切な人と深い人問関係を作り出せないことに空しさと孤独を感じている。
でも何が悪いのか分からずに、ただ繰り返している。
「ノルウェイの森」はそのような現代人が恋についての悩みを表現した作品であった。
以上、「ノルウェイの森」を通して現代人の恋愛と生き甲斐の悩みについての心理問題を分析した。
2.2 現代人の喪失感と孤独感
次は、「風の歌を聴け」と「ダンス・ダンス・ダンス」を通して、村上の作品の中に持ち続けられる喪失感と孤独感について考察する。
デビュー作「風の歌を聴け」の最初で、主人公「僕」が二十歳の時、つきあっていた女の子が原因不明の自殺をする。
彼女から何一つ知らされていなかった「僕」は、身近な人問からコミュニケーションを拒絶されたことになり、コミュニケーションを無意味だと感じ、心を閉ざしてしまう。
そしてそれ以降、身近な人々にも心への介入をソフトに拒絶してきた。
周囲の人々はそれでも何とか「僕」とコミュニケーションをとろうと努力するが、拒絶され続け、空回りする空しさに磨り減っていき、結局「僕」のもとを去っていく。
こうして青春三部作を通して「僕」のもとに残った人間は、一人もいなかった。
そして「僕」は喪失感と孤独感から逃れることはできない。
そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながら、この文章を書き続けている。
熱いシャワーに何度も入り、一日に二回髭を剃り、古いレコードを何度も何度も聴く。
今、僕の後ろではあの時代遅れなピーター・ポール&マリーが唄っている。
「もう何も考えるな。
終わったことじゃないか。
」(「風の歌を聴け」P99)
以上は「僕」の一人暮らし生活の光景を描写したものである。
表面から見ると「僕」は寂しいと思わずに音楽を聴いて楽しんでいた。
実は「僕」がもう気づかないうちにその孤独感に包まれた。
現代の人々は誰もが複雑な社会の中で、コミュニケーションの無意味さ、諦めを感じていると思う。
そのためコミュニケーションを怠り、深い絆を作れず、別れを繰り返す。
そのため孤独感、喪失感をいつも感じている。
「僕」の苦しみは皆が味わっているものなのだ。
しかしいつまでもこのような苦しみにいつまでも耐えられるものではない。
「僕」も現代社会の人々も出口を探している。
また、喪失感と孤独感から脱出したい作品「ダンス・ダンス・ダンス」が出てきた。
この作品で三十四歳になった主人公「僕」は、自分を変える決心をし、初めて喪失からの説出を図る。
「僕」は前作「羊をめぐる冒険」の舞台となった札幌のいるかホテルヘ行き、羊男と再会し、「踊る」ことだと告げられる。
この「踊る」とは、出会う人々とコミュニケーションをとる努力をすることを意味した。
それから僕は出会う人々と上手くコミュニケーションをとるために努力する。
その結果、彼らといい関係
を築くことができた、その上での別れは来たが、それはいい意味での別れであり、皆磨り減って去って行ったのではなかった。
そして僕はユミヨシさんという未来を共にする相手を手に入れることができた。
そして不吉さを含んだエンディングは、甘くない現実を感じさせ、作品にリアリティを持たせた。
この作品が発表された1988年はバブル経済の真っ最中だった。
高度成長によって達成された都市化が一気に爛熟した時期だ。
高度資本主義がダイナミックな価値観の組み替えを強引に押し進め、「そういう世界では、哲学はどんどん経営理論に似ていった」(「ダンス・ダンス・ダンス」P133)。
そのような場所で「僕」は何一つ主体的に選び取ることができない。
ただ踊り続けるだけだ。
僕はいろんなものとの繋がりを失い、混乱している。
羊男だけがいるかホテルの一室で配電盤のように「僕」をいろんなものと繋ごうと絶望的な試みを続けている。
「踊り続けるんだ」と羊男は言う。
「ノルウェイの森」で表明された、下劣で無神経な世界に対する違和感、怒りは「ダンス・ダンス・ダンス」でさらにラジカルに語られている。
だが、興味深いのは、村上が決してそうした世界に背を向けようとしないことだ。
「踊り続ける」とはそうした高度資本主義社会の中で生き延びるということに他ならない。
それがどんなに下らない、無意味なものに見えてもそのルールに合わせてダンスを続けること。
そうしてこのハードな世界を生き抜くことこそ、むしろ自分の美意識を守るための必要条件であると村上は看破したのではないだろうか。
そして、その高度資本主義社会の中には、人間が必ず喪失感と孤独感に苛まれる。
従って、この喪失感と孤独感の根源は高度資本主義社会にあると思われ、現代社会に生きている人間の回避できない心理問題である。
2.3 大人に成れない現代人
次は、「海辺のカフカ」を通して大人になれない現代人の心理を探求する。
「海辺のカフカ」は初めて少年の視点を選んで、カフカと言う少年の成長を描く、及び少年の周りの様様の人々の生活を覗いた作品である。
特に、多くの現代人は一見大人に見えるのだが、実は心の中の一部はずっと子供のままだと言う事実を暗喩した。
物語は二つのパートに別れて進行する。
奇数章では、15歳になったばかりの「僕」が中野区の家を出て、一人で四国に向かい、高松の私立図書館の片隅で暮らすようになる。
少年はその図書館で大島さん、佐伯さんといった人物と出会いながら、自分の中の空白を埋めるために深い森の奥へと踏みこんで行く。
偶数章ではナカタさんと星野青年の物語が進行して行く。
かつて識字能力を影の半分とともに失ったナカタさんは、少年の後を追うように中野区から四国へ向かう。
星野青年の助けを得ながらナカ
タさんは次第に少年の足跡に近づく。
そして最後に二つの物語は交錯することになる。
小森陽一は「海辺のカフカ」について、「これは重層的で多義的な物語である。
人の心の中で何が生まれ、人の想像力の中で何が起こるかということの長大な物語だ。
ここで織りなされるいくつものエピソードは、その荒唐無稽さにもかかわらず僕たちの心に訴えかけ、そこにリアルな感情を喚起する。
村上春樹がそれまでの文体の親密さを取り払い、新しい語りで物語をドライブすることの試みを始めたエポックメイキングな作品として記憶されるべき力作である。
その中でも主旋律を奏でるのはカフカ少年の物語である。
少年は父親を殺し母と姉と交わることになるという呪いを受け、自分が絶えず損なわれそうになる場所から逃れるために家を出る。
しかしそれでも少年は夢の中で父親を殺し、母としての佐伯さんと交わり、姉としてのさくらを犯す。
少年の手は血で汚れている。
そこでは現実と夢の間に確かな境目はなく、人は自分の想像力に対して責任を負わなければならない。
」(P89『村上春樹論―「海辺のカフカ」を精読する』)(4)と述べている。
なぜ村上春樹は少年の視点を通して、大人の現代人の最も深い内心世界を描いたのだろうか。
それは現代社会に育てられた人は、成長と共に失ったものは実に多すぎるのだ。
毎日新しいことを迎え、またすぐ捨てる。
豊かな生活を送るので、特別な夢とかない。
危険或いは怖いものが出たら、すぐ逃げたいと言う性格が養成された。
だからこそ、大人になったでも心のある部分が相変わらず子供のままである。
この物語には、カフカ少年が大人だげ体験できることを体験しつつある。
読者はなんでこの子供が大人の世界に生きているのかと質問を出す時、村上春樹の本当の意味を分かり始め、それは子供が大人の世界にいる話じゃなくて、大人の世界には「子供」がいると言う真意である。
情報量の多く、生活が忙しい都市人は毎日今を生きる。
着付かないうちに年を取る。
しかし、大人に成ったはずなのに、なんとなく自分がまた子供だと一部の現代人が思われる。
だが、その事実は誰でも認めたくない、それを隠して、心の底に置いて、またフィルムに写すような生活を送るのは現実である。
この小説はその現実を描いた上に、様々の人間の生活を読者に展示する、それを通して現代都市人の秘密を十分に認める。
だから、現代人に受けられるのは当たり前だろう。
以上、村上春樹作品の具体的な分析を通して、現代社会に生きている人々の悩みを描く特徴を考察した。
「恋愛と生き甲斐の悩み」「喪失感と孤独感」「大人に成れない」などの心理問題を抱えているからこそ、現代人は癒しを求めるようになる。
次は、村上春樹の小説にある癒しの力について検討する。
3 村上春樹と癒しを求めている現代人
社会の発展と共に人々の心理問題だんだん深刻になる。
だから、現代社会は癒しへの求めがますます多くなるのは当然だと思う。
従って、今の社会は癒しブーム(5)と言う現象が出できた。
近年、いまだに、TV、新聞、雑誌などのメディア等において、「癒し」、または「癒しブーム」といった言葉を聞いたり読んだりする機会が多いような気がする。
3.1精神の癒しを求め
疲れている時、人間は肉体的な疲労感につられて精神的にも弱くなっている。
そんな時に「カウンセリング小説」である、精神的な内容が描かれた小説を読むことによって読者は投影と共に癒される。
また、現代社会においてデタッチメントの風潮が強くなる中、自分の関わるもの以外のことには無関心な人間が多くなってきたと言われている。
けれども人間とは基本的に一人で生きていくということには何かしらの不安が付きまとうものである。
そうした、疎外感にも似た孤独感、自閉といったものに対する不安な気持ちを、小説の中の登場人物に重ねて共感し、それがまた、癒しとつながることもあるのである。
「自分は一人ではない」という、安心感を与えてくれるものであるというのである。
3.2欲望の求め
現代社会はストレス社会であり、多くの人が心的悩みと共に暮らしていると言っても大げさではない。
それは九零年代のバブル(6)崩壊後、ますます加速度を増している。
人間には欲が存在し、あれも欲しい、これも欲しいというのが当り前の人間の欲望である。
バブル崩壊によってその欲に制限がかかったのだから、ストレスがたまるのも当り前である。
周りにうまく言えないことが増え、なかなか思い通りにいかない。
それはストレスという心的悩みとなり、人々の中に積み重ねられる。
例えば、前述べた恋愛と生き甲斐の悩み、数多くの若者はそういう悩みがあるはずのである。
孤独感と喪失感も同じ、皆同じ問題があるならば、その問題に直面する勇気がある。
そのような人々が人の心を理解しようと、心理学に興味を持ち、現代の「心理学ブーム」を作り上げた。
日本はまだ、欧米のようにカウンセリングが実生活で普及していない。
今だに、カウンセリングに行くということには躊躇する人々が多いし、誰でもが悩んでいることでそういうところに行くのも大げさな気がして行く気になれないというのが人々の気持ちであろう。
また、そのようなことで悩むのは当たり前すぎて、自分で悩みと認識していないということも考えられる。
そうした中で、人々
は身近なもので心をリラックスさせようとし、それが「癒し」へとつながる。
3.3まとめ
村上春樹の小説も、そうした人々がその精神性に共感を求めて、その共感から得られる癒しを求めて、対象となっているのに違いない。
彼の存在は、「癒し」への需用が増大した90年代にはすでに、共感しやすい「ノルウェーの森」で認識されていた、というのも対象となった要因の一つとして考えられる。
村上春樹の小説は九0年代前後の読者の「癒してくれるもの」という需用にうまく答え、多くの人の共感を呼んだのである。
それは、彼の小説が精神性を持ったものであり、「カウンセリング小説」とも呼べるものであったからである。
即ち、読者は、村上春樹の小説に描かれている現代人の悩みを通して、「悩んでいるのは僕一人じゃない」という共鳴を持ち、それによって癒しの効果が生まれてくる。
村上春樹小説は現代社会の癒しブームに応じて、現代都市を舞台とし、現代人の様々な心理問題を描き、現代人に共感を持たせているから、現代人に幅広くしかも長く受けられていると思われる。
終わりに
本論文は、村上春樹の小説が現代人に受けられる理由について論じてきた。
村上小説は、現代都市を舞台とし、現代人の様々の心理問題を描き、現代人に癒しを与えている。
物質の豊富な現代社会で、コミュニケーション能力の低下した現代の人々が深い人間因係を作り出せないことから感じている喪失感、孤独感といった悩みや心の闇を深く理解した村上氏は、主人公「僕」に現代人の代表として同じ悩みを持たせ、都会を鼻白に七転八倒させ、何かを掴む物語を書き続けている。
村上の現代社会に対する洞察の深さが作品にリアリティを持たせ、読み応えのある作品を作りあげているのだと思った。
このような村上春樹の作品は、これからも多くの支持を受け続けていくだろう。
注釈
(1)川本三郎(1979)「村上春樹対議」「カイエ」。
(2)斎藤郁男(1998)「探訪村上春樹の世界」若草書房(東京)。
(3)明治中期以降,「個」としての自己を内面において支える近代的自我の思想が移入されるようになり、また、明治20年代にはいり、国家主義的傾向が強くなってくると、それへの反発として、近代的自我の確立を目指して自己を内面的に掘り下げていこうとする傾向が出てくる。
(4)小森陽一(2006)『村上春樹論―「海辺のカフカ」を精読する』。
(5)癒しブームは、日本で1999年後半から現れた言葉で、元々はテレビに出演する女性芸能人において、和み・癒し・安らぎを感じさせるような人物およびそのふるまいを指す。
1999年以前は「癒し系」という言葉はなく、「ジョージア」のCMでも「安らぎ系」と言われていたが(その証拠に安らぎパーカーというものが当たる企画もあった)、大きなきっかけとして、1999年にミュージシャンの坂本龍一が発表した楽曲「ウラBTTB」が癒し音楽として大ヒットして、癒しブームになり、それ以降は人物などに対しても、癒し系と評されることが増えていった。
(6)バブル景気(バブルけいき)とは、日本の経済史上で、1980年代後半~1990年代初頭にかけてみられた好景気である。
参考文献
[1].川本三郎(1979)「村上春樹対議」「カイエ」
[2].川本三郎(1985)「物語のための冒険」「文字馬」
[3].川本三郎(1985)「村上書樹は猫を飼っている」「中央公論」
[4].村上春樹(1991)「ノルウェイの森」上、下講談社文庫
[5].村上春樹(1991)「ダンス・ダンス・ダンス」上、下講談社文庫
[6].黒古一夫(1993)「村上春樹一ザ・ロスト・ワールド』策三書館
[7].東山(1994)紘久「箱庭療法の世界」誠信書房
[8].Sigmund Freud(1997)「精神分析入門」上、下新潮文庫
[9].斎藤郁男(1998)「探訪村上春樹の世界」若草書房。