山口百恵《苍茫的时刻》

二人の部屋山口百恵作青い時
ある朝、「あお」を感じた。

春の終わるある夜、なぜだか眠れず一人部屋でただ時が過ぎていくことだけを感じながら座っていた。

こんな夜は静かに自分のすべてを時の流れの中に投げ出していたい。

何気なく見上げた窓がほんの少しだけ夜よりも明るい色に変っていった。

見つめていると、窓ガラスを一枚隔てた外の色がどんどん変化していった。

小鳥たちの囀りが聞こえた。

目覚めたのだろう。

聴覚から視覚へ意識を戻したとき、窓全体があおかった。

その「あお」は私にとっては「青」ではない、「蒼」という字のそれだった。

その色は、またわずかな間に次の朝の色に変っていった。

ほんの一瞬といってもいいほど蒼い時、一日の出来事の終点であり、また新たなる一日の始まりの時である。

正に今、私の時である。

今この時を私はどう過ごしていけばいいのだろうか。

この時までの私が本当に確実に生きていたという証はあるのだろうか。

恐らくこれは人々が私について残してくれたものではなく、自分の中に一つ自分を認めておきたいという気持ちなのだろう。

今この時に、私は私の歩んだ２１年の日々、そして芸能界というある意味では特殊な世界に生きた約８年の日々を自分の手、自分の言葉で書き記しておきたかったのである。

横須賀、誰かがこの名前をつぶやいただけで、胸を締め付けられるような懐かしさを覚える。

横須賀を離れて８年。

私はあの町で生まれたわけではない。

小学校２年の終わりから中学２年の終わりまで、６年間を過ごしただけなのに、この思いは一体何なんだろう。

恋い焦がれる人を思う気持ちとは違う、かといって、人が故郷を思う気持ちとも違う。

都心からさほどの時間もかからず、辿り着けるあの町へ私は今訪れることはない。

心が遠のいてしまったわけでも、あの町を忘れているのでもないのに、なぜだかあの町がだんだん遠くなっていく。

あの町は私を覚えているのだろうか。

夕暮れ時、塾の帰り道、家に向かう急な坂道で出会った豆腐屋の辛そうな顔。

理科の時間、先生から分けてもらった蚕にやる桑の葉を摘みに行った夏の日の早朝。

通学路として利用していた山道、道端の露草、華やいだ歓声と水しぶきの匂いを振りまく市営プール、まだ作りかけだった市営グランド。

張ってあるばら線に足を刺した友達、知らせるために学校へ走り戻った放課後、日曜ごとに通っていた市営図書館。

雨上がり傘を折り畳みながら見ていた海。

あの町を去る前日の中央公園、「さようなら」と決して言わなかった友達、「いつでも帰ってこい」と言った友達、それなのに遠くなってしまった町。

私の中の横須賀は海がすべてではない、山に囲まれた木造校舎や中学校の前にあった荒井ベーカリーの揚げソーセージや中央公園、猿島。

いつも何気なく歩いていた横須賀なのだ。

あの町は私に優しかった。

雨も、海からの潮風も、日差しも、緑も、何もかもがさりげなく私を包んでくれた。

あの町で生まれ、３０年以上あの町を見てきた男に出会った。

男は「あの町が嫌いだ」と言った。

「小さい時から、あの町から逃げ出したくて仕方がなかった」と言った。

男は「あの町の女が嫌いだ」と呟いた。

太いパーマを巻いた髪に派手なスカ―フをかぶり、厚化粧で買い物かごを下げて、サンダルで歩いている女があまりに悲しく映ったと、まるであの町の象徴であるかのような人々の姿、毒々しい色のネオンサインや街の明かりが、同時まだ少年だった男の胸に焼きついた。

「いまだに横須賀を好きになれない、帰りたくはない」と男は話した。

ある日、私の元に手紙を添えて一冊の写真集が届けられた。

「絶唱、横須賀スト―リー」と題されたその写真はすべて私の知らない表情をした横須賀だった。

あの町にこれほどのあざとさと潜んでいたのだろうか。

これほどの哀れさがにおっていたのだろうか。

恐ろしいまでの暗さ、私があの町の中で光だと思っていたものまでもがすべて反転してしまって
いた。

坂道も草原もどぶいた横町も、米軍に入り込まれたことによって、仕方なく変わらざるえなかったあの町の独特の雰囲気がその写真の中では影となって表わされていた。

悲しかった。

恐怖さえ抱いた。

同じ町が見る側の意識一つでこんなにも違う。

私の知っている横須賀はこれほどまでに凄まじくはなかった。

今にも血を吐き出しそうな写真に向かって、私は呟いた。

この町のこんな表情を知らずに育ってこられたことに、わずかな安心感を抱いていた。

私は今あの町へ帰りたい。

今でなくとも、いつかあの町で過ごしたい。

何より、あの町で暮らしていた６年間の私が一番好きだった。

自由だった。

正直だった。

無理に突っ張ろうともせず、突っ張れもしなかった。

必要がなかっかのかもしれない。

それなのに、今の私は何かにつけて突っ張ろうとする、突っ張ろうとすれば、あまり容易に突っ張ってしまえる私が今は存在している。

自分の意識の中での私自身はあの町にいる。

あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。

私の原点はあの町――横須賀。

仕事をし始めての１年間、私は下宿生活をしていた。

高校へ入る頃になって、母たちも横須賀から東京へ出てこられることになった。

私たちは目黒にあるマンションの一室を借りた。

ようやくうちの中のことや学校のことが落ち着いた頃、夏に入る少し前だった。

夜半、隣室で鳴り響いている電話の音で目が覚めた。

耳を澄ましている私に聞こえくる声は言葉にしては聞き取りにくかった。

暗い部屋のふすまが開かれ、隣室の蛍光灯の異様なほどの明るさが目に飛び込んできた。

「父が危篤。

」突然の知らせに戸惑っている私を背に、母はてきぱきと身支度をすませ、「制服を着て待っていなさい」と言い残して出かけていった。

母が出かけて１時間半ぐらいが過ぎ、私と妹は電話で呼ばれ、言われたとおり、制服を着て、眠い目を擦りながら、足利の病院へ向かった。

病室は物々しかった。

窓際のベッドにあの人が横たわっていた。

脳溢血で倒れた人の殆どがその症状を見せるという、鼾とも唸り声ともつかないような異様な音を発している。

入れ替わり、立ち替わり、出入りする看護婦、あの人の左側で座ったままの医者。

そして、あの人を心配そうに見つめる母の白い表情。

血の底から響いてくるようなあの人の鼾を聞きながら、私は「あ、この人は死なないな」と直感していた。

ここへ来るまでの道すがら、私は死に直面しているあの人を見たら、取り乱すに違いない。

娘として、父親の死を見届けなければならない立場に立たされたら、泣き叫び「死なないで」と、哀願してしまうのではないだろうかと思っていた。

しかし、病室に一歩踏み込んだ私の頬には一滴の涙も流れなかった。

「死なないで」と願うことすら忘れていた。

ただ、私の後に立っていた妹に、この人のこの醜い姿を見せたくないと、ただそれだけを考えていた。

駆け寄るわけでもなく、立ちつくしている私を見て、同行した会社の人が言った。

「お前は冷たいなあ」。

その人も人の親である。

息子二人の父である。

だから、我が身とあの人をいつしかオーバーラップさせてしまったのだろう。

けれど私は「冷たい」と言われたその当然すぎる一言に傷つき、それから、しばらくの間、自分の中の冷たさを分析しては悩んでいた。

いつだったか、彼にあの人に関する一切を話したことがあった。

「それじゃ、もし極端な言い方をすれば、お父さんが亡くなったら。

」私は少しだけ言いよどんだ後で、ためらいを吹っ切るように言った。

「生きているうちは、絶対に会いたくない。

たぶん、お葬式にも出ないと思う。

そのうち何年か経って、私も親という立場になって、心が静かになった時は、お墓参りぐらいはするかもしれないけど」。

その気持ちに変化はない。

今は本
当に会いたくない。

ついこの間、喫茶店で席を立つ瞬間、テーブルの上のティーカップを見て、私は愕然とした。

ティーカップの底に紅茶がほんの一口残っていた。

これはあの人の癖だった。

「お父さんはいつも最後の一飲みを残すのね、全部飲んでしまえばいいのに」詰りながらも、どこか華やいだ母の声が聞こえ来るような気がした。

考えてみれば、ここのところ、立て続けに数回、私は同じことをし、その度にそのことが気になっていた。

些細なことかもしれない。

しかしその瞬間、私はやっぱりあの人の娘なのだと認めないわけにはいかなかった。

カップの底に残された一滴の液体があの人と私の間を流れる縁の薄い血のような気がして、私は慌てて視線をそらせ、勢いよく立ちあがった。