日语作文
日语作文至今最难忘的事
今迄で一番忘がたい事私のアルバムの中には、友達と撮った写真がある。
今こうしてこの写真を見る時何だか胸がジ―ン熱くなる。
昨年の夏休み、友達が「一緒に海水浴に行かない」と聞かれた。
私はすごく迷ってしまったのだ。
というのは、私は泳ぐことが全然出来なかった。
でも、友達に「いいよ。
私うまいから教えてあげるよ」と言われた、私も何だか心強く思ってつい受けてしまった。
でも、まさか私が死ぬような思いをすることになるとは思いもよらなかった。
目的地に着いてから、最初の一時間友達に教えてもらった。
でも、彼女は私のために自分も楽しく遊ぶことができないので、私は何だが申し訳ない気持ちだった。
だから、彼女に「遊びに行っていいよ、私一人で練習するから。
」と言った。
しばらくして私はもう一人で救命道具を着て、うまく遊びだから、一回だけ道具を抜いて泳いでみたら大丈夫だと思って, 平泳ぎをしてみた。
平泳ぎをする前に足が着いていたのに足が急に着かなくなった。
川の中へ足が引っ張られるように奥へ奥へと泳いで行った。
「あっ、足が着かない‘」私は急に怖くなった。
もがいてもがいているうちに何だか手のようなものがあったので、それを死に物狂いでしがみついたのだ。
後のことはよく分からなかったのだ。
目を開けてみると、友達だったのだ。
彼女は私を見てにっこり笑って「もう、大丈夫なのよ、心配するじゃないの」と言ってくれた。
私は思わず嬉しくて泣いてしまった。
夕日が西に沈む前に、私は海を背景に写真を撮った。
この写真は私に大事にされている。
今こうしてこの写真を見る時にその忘れ難いことを思い出した。
私もこれから困っている人を見て友達のように進んで助けてあげるような素晴らしい人間になりたいと思っておる。
日语作文30篇
私の梦かつて、ナポレオンが「将军になる考えがない兵士はいい兵士じゃない」と言いました。
そのとおり、梦がない人生は人生ではありません。
子供の时から、亲や先生や友达などいろいろな人が「あなたの梦はなんですが」と闻きました。
理の当然で、人々がさめざまの梦想を持っています。
私も梦がたくさんあります。
小学生制になった时、クラス担任はとても优しくて、若い女性でした。
みんなだいすきでした。
彼女は数学を教えてくださったので、私は一生悬命顽张りました。
长い时间を使って、ひとつの难问に回答した後の気持ちはとても高扬していました。
心から数学の教师にならたいと思いました。
両亲も喜んで応援してくれました。
12歳、中学校に入りました。
その顷田舎の家の近くで伝统的な芝居がはやっていました.祖母も好きで、周末一绪に见に行きました。
そして、私はだんだん、その芝居に梦中になりました。
时々、真似たり、一人で歌ったりしました。
何时でも。
何処でも、音楽が闻こえると、特别な感铭がありました。
いつの间にか、俳优になりたいという考えが出てきました。
私は音痴ですから、両亲に知らせると、「白昼梦を见るじゃないよ」と言われました。
今思えば、当时は思春期だったからなのか、悲しいことに自分の考えに固执しました。
时间がはやくたちました。
瞬く间にもう大学生になりました。
今、専门が日本语の私はまた一つの梦があります。
その梦とは外资企业に勤めることです。
通訳でも翻訳でもいい出です。
そうすると「将来はなにをする?数学を教える?それに俳优になる?あゆいわ日本语に関して仕事をやる?」といろいろな问题が思い出されました。
あれこれと思いを巡らすと、难しいですね。
答えはなかなか出てきませんでした。
ところが、そんな梦がたくさんあるので、生活が面白い、目标に向かってまい进する力が强いです。
梦は多ければ多いほど実现する机会も増えると思います。
一つの梦が破れても、また别の梦を追うチャンスがあるからです。
日语作文18篇(范文)
「私が住んでいる部屋」日本は土地の値段が非常に高い。
そのため、家を建てるにも部屋を借りるにも、かなり費用がかかる。
私がいま住んでいる部屋も、私の国と比べると、かなり高い。
6畳の部屋に2畳くらいの台所トイレが付いて3万円である。
風呂付きの部屋がほしかったが、高すぎて借りることができなかった。
今でも少し残念に思っているが、しかたがない。
風呂は近くの銭湯で我慢している。
だが、私の部屋は二階の南向きで日当たりがよく、また、向かいは公園なので、環境はとてもいい。
地下鉄の駅は歩いて10分位である。
学校にも40分位で行けるので、だいたい満足している。
「私の国の季節」日本では1年は3か月ずつ四つの季節に分かれています。
1年を通じて気候は温暖で暑さ寒さもあまりきびしくありません。
山脈【さんみゃく】が本州を縦【じゅう】に走っているので太平洋側(表日本)と日本海側(裏日本)では気候の差が大きいです。
表日本では、夏はむし暑く、冬は湿気が少なくて晴天が多いです。
裏日本では冬は雪がたくさん降ります。
いわゆる雪国では雪が4~5メートルもつもることがあるそうです。
北海道を除く各地は6月上旬【じょうじゅん】から7月中旬【ちゅうじゅん】にかけて高温.多湿のシーズンになります。
8月から10月にかけては日本列島【れっとう】の南西部は台風の影響を受けることが少なくありません。
京都のような盆地【ぼんち】では降雨量は少ないですが、気温の上下【うえした】差が大きく、夏は暑く冬は寒いです。
日本の大部分の地方で最もよい季節は春と秋です。
桜の美しい4月や緑の美しい5月は海外の観光客も多く、また10月頃の紅葉も魅力的【みりょくてき】です。
「アルバイト」「アルバイト」はもともとドイツ語で「仕事」という意味であるが、日本では40年ほど前から、学生の副業の意味として使われるようになった。
現在、日本の大学生の90%以上がアルバイトを経験しているという。
そしてアルバイトのために学校を休む学生も多いそうである。
日本语作文教室_15 今までで一番がんばったこと
15今までで一番がんばったこと私が一番がんばったのは、小学校二年生のときから高校の二年のときまで、ずっと続けた新聞配達だ。
10年間、僕は一日も休まなかった。
僕の家はお父さんがいなくて貧しかったので、お母さんを助けるために新聞配達をした。
朝刊はいいのだが、夕刊配達のときは学校の友達と会うので、それがとても恥ずかしかった。
でも、そんなことにもだんだん慣れてきた。
新聞配達で一番嫌なのは雨の日だ。
新聞を濡らしてはいけないので、大変だ。
一番辛いのは冬の寒い日だ。
自転車のハンドルを握っている手が、まるで氷のように冷たくなり、動かなくなる。
一番うれしかったのは、中学三年生のとき、新聞少年として市長に表彰されたことだ。
今振り返ってみると、新聞配達をした10年間が、僕の自身になっているのだと思う。
少しぐらいことがあっても、負けない強さを作ってくれたと思う。
時間の流れは早い。
日本に来て、もう2年になった。
思えば、今までの人生で一番がんばったのが、この二年間だったように思う。
ずっと両親の下で育ってきた僕は、日本に来てはじめて一人暮らしを始めた。
炊事洗濯や掃除も、全部自分でしなかればならない。
アルバイトもしなければならない。
しかし、これは僕だけでなく、他の留学生も同じ境遇だ。
僕の初めてアルバイトは洗い場だった。
腰は痛くなるし、店長にうるさく言われるし、何度もやめようと思った。
だが、周りの留学生もがんばっているじゃないか。
僕は「負けないぞ」と自分に言い聞かせた。
アパートに帰って、疲れた身体に鞭打って机に向かった。
しかし、気がつくと、いつも寝てしまっている。
大学受験が近づくに連れて、焦りの気持ちも強くなった。
幸い大学に合格できた。
未来がどんな風景なのかわからないが、「一歩歩けば、一歩先が見える」(魯迅)と言う言葉を胸に、これからもがんばっていこうと思う。
(留学生Yのスピーチ原稿より)1.~てはいけない◆焦ってはいけません。
日语作文范例16篇
作文范例16篇問題1あなたは、外国の人があなたの国の母語で語りかけてきたとき、文法や言葉遣いが間違っていたら直してあげますか。
それとも失礼になると考えて言わないでおきますか。
解答直してあげる私は間違っていたら直してあげる。
なぜなら、言葉の誤用の中には、相手の誤解を生んだり心を傷つけるような言い回しがあり、その不用意な一言のせいでコミュニケーションに障害が生じるとしたら、本人にとっても不幸だと思うからだ。
例えば、日本語の「あなた」という言葉は目上の人に使うと失礼になるが、欧米の人たちは誰彼の区別なく「あなた」を使う。
それが初心者ならまだ許せるが、ぺらぺらしゃべる外国の人に「あなた」と言われたら、日本人は間違いなくむかっとするだろう。
それは母語と関係しているのであり、何の悪意もないのだが、言われた日本人はいい気持ちがしない。
こうした誤用は誰かが指摘してあげなければ、いつまでも直らない。
従って、異なる言語や文化を持った者同士のコミュニケーションが大切な時代には、自分が間違っていたら指摘してもらうし、相手が間違っていたら指摘してあげるといった率直さが美徳となると思う。
問題2ある外国の人は「日本人は『はい/いいえ』がはっきりしないから、理解しにくい。
日本人はもっとはっきり意思表示をするべきだ」と言います、あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。
解答賛成する私はこの意見に賛成である。
確かに日本人は「はい/いいえ」をはっきり言わない傾向がある。
それは相手の気持ちを傷つけないとする「和」の文化と言われるものだろうが、私たち外国人には賛成なのか反対なのか、好きなのか嫌いなのか、とても判断しにくい。
例えば、以心伝心とか、言葉を使わずに察しあう習慣は、日本社会のような同質性の高い同一民族社会では可能かもしれないが、私の国中国のように文化が異なり、言語が異なる多民族が暮らす社会ではほとんど不可能だと思う。
きちんと意思表示しなければ、コミュニケーションが成立しないのである。
日语作文
1私の悩み悩み(なやみ)は誰でもあることである。
同時に時代によって悩みが違っている。
例えば高校時代にどのように努力して大学入れるか;大学に入ってから将来どのようにいい仕事を探すことができるかなどは私の以前の悩みであった。
私の今の悩みはどのようにもっと学歴(がくれき)を高くするのかということである。
それは、社会の発展、時代の進むにつれて、いろいろな分野(ぶんや)で人材への要求がだんだん高くなってくるからである。
つまり、もとの学歴はもう時代についていけなくなるのである。
だから、仕事をしながら知識を更新して、もっと学歴を高くすることは、私にとって目前のなやみである。
そのため、どのようにしてこの悩みを解消(かいしょう)できるか、私はいろいろ考えたあと、研究生の試験を受けることにした。
これは私にとって唯一(ゆいいつ)の道だと思っている。
それで、今研究生の予備班に入ってその試験に合格できるように頑張っているのである。
2私の夢人間は誰でも夢がある。
けれども、夢はいつまでも変わらないのではなく、時代によって変わるのだ。
私の父と二番目の兄は高校の先生なので、小さい時から私の夢は優れた先生になることだ。
この夢を持って、私は小学校、中学校、高校、大学で一生懸命勉強してきた。
最後にやっと先生になっている。
今、私は本当に優れた先生かどうかは分らないが、ずっとその夢のために頑張っている。
ところで、社会がコンピューター時代に入っているにつれて、国のいろいろ分野で優れた人材を希望するようになる。
したがって、もとの知識はもう時代の進歩についていけなくなっている。
つまり、優(すぐ)れた先生になるにはもっと多くの知識を身につけなければならないのだ。
それで、もっと優れた先生になるのは私の今の夢になっている。
しかし、この夢を本当に順調(じゅんちょう)に実現できるかどうか、私の努力次第だと分っている。
だから、今年の研究生試験を受けようと思って、一生懸命専門知識をはじめ、日本語と政治を勉強している。
日语作文细い点は胜ちを得ます(细节决定成败)
細かい点で勝利を得る今日、細かい点は成功と失敗を決めることは人々の共通認識です。
生活の中の多くの実例、この点を証明しました。
経済変化の中から細かい点を発見する。
大慶油田は1番早く採掘された時、中央指導者と現場の労働者を除いて、大慶の情報に関して知っている人がいませんでした。
しかし頭が良い日本人は知っていました、彼らは公開の報道の中から筋道を見出して、その中から利益を得ました。
《人民日報》の上で“鉄人”王進喜は大きい綿入れの上着を着いて、背景は雪片の写真を掲載しました。
日本人は大慶は中国東北にあるを推定しました。
だから、その時、ただ東北が雪が降っています。
その後、日本人は原油の列車の上でほこりの厚さによって、油田と北京の距離を測り出して、ハルビンとチチハルの間で油田を認定しました。
《人民日報》は王進喜が马家窑にきいた、“とても大きい油田を叫びますのことを報道して、日本人は、马家窑か大慶中心の部位を推定しました。
《人民日報》は大慶人が“苦しみを恐れないして、死も恐れない”の革命の精神を発揚して、各種の設備を肩で担ぐのことを報道しました。
日本人はここから推定して、大慶の近くは鉄道、道路があります、さもなくと、人は長距離で何千斤の重い設備を担ぐの可能性はありません。
そこで、彼らは、大慶は安達駅の近くになるを推定しました。
1966年、王進喜は人民代表として全国人民代表大会に参加しました。
日本人は推定して、大慶は油を産出しました。
《人民日報》は1枚の石油ボーリング・タワーの写真を掲載した、日本人が見た後に、油井の直径を推計してきた、そしてこの油井の生産量を推計しました。
《政府活動報告》は大慶のすこし資料を公表して、日本人は大慶油田生産規模と生産量を推計しだしました。
すぐ、日本人は大慶油田に合うの石油設備を設計しました。
中国がちょうど国際上で石油の設備を買うことを公表します時、その他の国家はまだ設計しません、日本人は図面を中国にあげました。
日语小作文
アルバイトの艱苦私はもう22歳で、家のためにお金が欲しいで、何時までも両親のお金を使わない気がしない。
私のこの夏休みより子供の頃ように家で寝るしてゲームをするのは違っていた。
今学生なので、アルバイトを探すのは大変になかった。
たとえこんな状况でも、とうとう努力の末にスーパーのアルバイトを见つけた。
最終、私はスーパーでレジ係りを担任した。
毎日に朝八時から午後五時まで、八時間でずっと立った。
とても疲れたと思う。
アルバイトが始めたばかり、なかなか慣れないだ。
しかし、給料をもらうことができると、強靱になった。
店員のみんなも私にとても気にかけてくれ、それからだんだん慣れた。
初めてのアルバイトによって、私は4000元をもらった。
それはとても嬉しいと思っていた。
同時に仕事をするのは楽ではないと分かった。
この先、節約が必要だ。
アルバイトの艱苦私はもう22歳で、家のためにお金が欲しいで、何時までも両親のお金を使わない気がしない。
私のこの夏休みより子供の頃ように家で寝るしてゲームをするのは違います。
今学生なので、アルバイトを探すのは大変になかった。
たとえこんな状况でも、とうとう努力の末にスーパーのアルバイトを见つけました。
最終、私はスーパーでレジ係りを担任しました。
毎日に朝八時から午後五時まで、八時間でずっと立きました。
とても疲れたと思います。
アルバイトが始めたばかり、なかなか慣れないです。
しかし、給料をもらうことができると、強靱になりました。
店員のみんなも私にとても気にかけてくれ、それからだんだん慣れました。
初めてのアルバイトによって、私は4000元をもらいました。
それはとても嬉しいと思っています。
同時に仕事をするのは楽ではないと分かります。
この先、節約が必要です。
アルバイトの艱苦私はもう22歳で、家のためにお金が欲しいで、何時までも両親のお金を使わない気がしない。
私のこの夏休みより子供の頃ように家で寝るしてゲームをするのは違っていた。
日语作文
我叫xx,今年20岁,是一个大学生。
私、xxともします。
今年は20歳の大学生です。
我喜欢蓝色。
我性格活泼开朗。
青色が好きで、性格が明るいと思います。
平时喜欢听音乐,唱歌。
在空余的时候也会看小说。
普通、音楽を聴き、歌を歌って、暇のとき、小说を読むこともあるんです。
我学习日语1年了。
もう一年日本语を勉强しているんです。
我很喜欢日语也很喜欢日本漫画。
日本语が大好きで、日本の漫画にも趣味をもっています。
希望有一天我能看懂日语的漫画。
我会继续努力学习日语的。
ある日漫画を読めるため、それからもしっかり日本语を勉强していくつもりなんです。
//日本语の漫画が読める日を望んでいます。
続いて日本语の勉强にがんばるつもりでいます。
我的家人有4个人,爸爸、妈妈、弟弟和我。
爸爸是一名建筑工程师,每天工作回家都要我做料理给他吃。
妈妈温柔善良,做的料理非常好吃,但是因为身体不好所以没有去工作。
我弟弟高中生,他非常顽皮,常常和我玩。
我爱我的家人,希望我的家人每天都健康快乐!はたすのかぞくはよにんです。
ささとははとおとぅどいとはたすです。
ささはけんさくかです。
はははやさしいです。
ははのつくるりょりぃはおいしいです。
からだがわるいのでしごどしていません。
おとぅどいはこごぅせんです。
はたすとおとぅどいいっしょにあそびます。
はたすはかぞくがだすきです。
はたすのながいははたすのかぞくがまいにさでぃることです。
(我的家庭)如许多上海家庭一样,我的家是个幸福的三口之家,爸爸、妈妈和可爱的我。
爸爸看上去有点严厉,其实在平时的生活中,时不时会做点让人发笑的傻事出来,妈妈平时会很唠叨,但却是我和爸爸在这个家中不可缺少的因素,我有一个美满的家庭,在未来里,父母将是对我来说我最重要的人,我爱我的父母。
私の家族(我的家庭) 私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。
父、母とかわいい私です。
父は见るのがちょっと厳しいですが実は日常の生活中に时々人に笑われることをします。
日语作文
我的梦想わたしのゆめはしょうらいきょうしになることです。
なぜなら、ちいさいころからきょうしへあこがれたから。
いつかじぶんもきょうしになって、みんなにちしきをおしえ、ひとなりのこともじしんのこうどうでみちびるとおもっています。
いまはどりょくし、まずじぶじしんののうりょくをあげで、ゆめにいっぽずつちかついてとねがっています。
たまらずにがんばっていれば、いつかきっとたどりつくでしょう。
我的老师小さいころから今まで、私はたくさんの先生だ。
このうち、一番印象的だったのは私の中学校の数学の先生です。
彼女は学生に対する関心が高くてもよかったし、生徒の生活、私たちに何か问题が访れる。
彼女が大好きなので、私のことが好きになった数学,数学も学のはとても良いです。
现在に至るまで、私たちの関系はすべてとても良いです。
闲な时には私も彼女を见た。
我的朋友わたしは友达がたくさんできた、そして、彼らは私に优しい。
その中、最もすきなのは高校のクラスメートである。
彼成绩が一般であるが、彼は本物の男である。
私と一绪にバスケとボールをし、食べ物を分け、祸福を共にする兄弟である。
以前、ランリングを参加した。
うちのクラスの人は速く走られない。
だ他、私と彼比较的に上手である。
劣势にいる私たちは良く発挥した。
胜利を手にした。
それから、彼との友谊が结んできた。
大学に入った、同じではない大学ではないが、われわれの友谊万歳!!我的一天毎日六时半に起きます。
颜を洗って、朝ごはんを食べて、自転车で教室へ行きます。
三十分ぐらいかかります。
学校は八时から三时までです。
授业の后、友达と一绪に図书馆へ勉强に行きます。
夕方六时ごろ食堂で晩御饭を食べます。
それから、谁もいない场所で日本语の発音を练习します。
九时ごろ寮へ帰ります。
夜10时に寝ます。
毎日忙しいですが、とても楽しいです。
大学の生活は私にとって、本当に理想的な生活だと思います。
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1.私の好きな所
私の好きな所は中学校だ。
そこには私のいろいろな思い出がある。
特に、私と深く付き合った友達の物語だ。
私は内気的な性格ので、あまり他人に話し掛けなかった。
外向的な彼女に会った後、私の人生が変わったと言える。
人生態度も積極的になる。
気立てが明るい彼女はいつもにこにこしていた。
それに対して、私はいつも気持ちがふさいで、誰も私のことなど気に掛けてくれないだろうと思っていた。
しかし、彼女は私を仲のよい友達として気に掛けてくれた。
彼女は私がいつも一人でぼやぼやしているのに気をつけた。
「周さん、どうして自分だけいて?一緒に遊ぼうよ。
」と彼女はいった。
彼女と付き合っているうちに、私たちは親しくなった。
私たちはよく自分の秘密とか考え事とかを互いにかわち会った、学習の上で私たちも互いに教え合った。
同時に、高校に入った。
私は彼女から友情というものがわかる。
人間に欠点はつき物だ。
完全無欠の友人を探しても、決して理想どおりにはいかない。
われわれは自分の欠点は棚にあげて自分を愛しているのだから、友人も自分同じに愛すべきだ。
でも、月日がすぎるのは早い、もう昔に戻れないから、昔をしのぶだけだ。
そんな清らかな友情はいまはもう求められない。
もし、もう一度チャンスがあたえられるなら、私は時間を後戻りさせたいと思う。
2.どれがいいですか
結婚するならどんな人がいいか?私はやさしくて人柄もよい人が一番いいと思っている。
結婚するのは家庭を作るということだ。
夫婦の間では互いに尊重することが重要なのだから、相手は優しい方がいいと思う。
私は結婚するなら、主婦になりたくなく、夫に理解してくれたいので、道理をわきまえない人にあうなら、結果が大変だ。
人が生きている事で辛いことは、仕事が辛い事でも生活が苦しい事でもない。
大切な人の気持ちを理解できない事だ。
結婚した後の生活と独身の生活は全然違う。
自分の生活だけでなく、両方の両親を養うべきだ。
家庭の支えとして夫が向上心と能力があることが最も大切なのだ。
そして、男女の家柄がつりあうことだ。
でも、貧しいにしても、豊かにしても、努力が何よりだと思う。
それに、私はきれいな人が好きだから、将来の夫がハンサムほしいだ。
それなら、自分の子供もきれいだろうと思う。
それ以上は私の理想の相手だが、将来にどんな人に出会うのは知らない。
でも、人間の夢がいろいろだが、そんな人に会うのも私の一つ夢だ。
夢をつかむために、私も自分の能力が向上したいと思う。
とにかく、性格も人柄もいい人と結婚した方がいいと思う。
3私の趣味
私には大切な日記達がある。
子供両親にさまさまな絵本を読んでもらったことは、私は読書好きへとつながっている気がする。
幼稚園に入る頃から、私は読むことにかえて書くことにも興味を持った。
それが、私の日記のはじまるだ。
そのときあまり字が書けないから、絵日記だけ毎日書いている。
毎日の出来事を両親に話しながら、真っ白な自由帳をうめていく事がただ楽しい。
学校に入ると、読む本にはだんだんと字が増えてきた。
読書の時間が一人の時間になり、日記を書くことも一人で楽しむようになった。
親に甘えない自分というのは少しさびしいのと同時に、大人になったような心地良さも感じていた。
昔の日記を読み返していたとき、さまさまな思い出がある。
子供ごろから自分が将来に作家になりたいと思う。
今は日本語を勉強しているから、翻訳家になりたい。
時間は経った、たくさん事は全然違うの感じがある。
読むことも書くことも、真面目から向き合うのは大変だが、生きることとなったら、それはさらに難しくなる。
過去の記録や記憶としての自分でも、未来の夢として自分でも、変化が必ずしも進む続けるわけではないのだから、全ての道のりが、私の力になるはずだ。
私にとって、文字が消えても、日記と生きた大切な時間は決して消えないのだから。
4今までで忘れなかったこと
私にはとても忘れないことがある。
私は、ある人に「ありがとう」と言われたことで、親切というのはこ
んなにいいことなんだと教えられた。
私の家の近くに、もう八十歳くらいになるおじいさんが住んでいた。
そのおじいさんは、奥さんを亡くし、介護の人がたまにその家のおじいさんのところに訪れていた。
おじいさんの寝ているベッドは窓の近くにあり、おじいさんはいつも外を一人で楽しそうにいつも見ていた。
私はその家の前をよく通る。
すると、おじいさんはいつも笑顔で軽く頭を下げて、あいさつをしてく
れた。
ある日、私がいつものように家の前を通ると、おじいさんは窓の方を向いていなかった。
私はとても不思
議に思いながら、学校に行った。
私は気になってしょうがないく、帰りに寄ってみると、やっぱりおじい
さんは窓を向いていなかった。
私は、ふっと思った、前におじいさんと話していた、おじいさんは「お花が好き」と言った。
おじいさん
の寝ているベッドのすぐそばには花壇があり、そこにはいつも花が咲いていた。
しかし、今は誰も手入れ
をしていない。
雑草がたくさん生きてきてしまっていて、おじいさんの好きな花がなかなか見当たらない。
私は急いでカバンを家に置いて、花壇に行き雑草を抜き始めた。
夕方になった頃、ほぼ抜き終わり、おじ
いさんの好きな花が見つかった。
私はおじいさんの笑顔を見て安心した。
でも、次の日、私は家に帰り、おじいさんの家の前まで行った。
介護さんだけいた、おじいさんはなくな
る前に、私にこういってなったそうだ。
「あの子に、ありがとうと伝えてくれ。
」
私は涙が止まらなかった。