日本歌舞伎和中国京剧
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日本歌舞伎与中国京剧
摘要:日本的歌舞伎和中国的京剧是人类文化的宝库,可以说集合了各种艺术的精华。歌舞伎和京剧可以集中的体现民族的文化素养,具有数百年的历史。正因为歌舞伎和京剧随着社会的经济、政治、军事、文化、道德等各个要素的变化而兴衰,所以可以说真实的记载了历史。本文通过对歌舞伎和京剧的研究,不仅可以使我们青年学生对中日两国的传统文化有更深的了解,对两国历史文化的研究也有帮助。
关键词:歌舞伎,京剧,程式性,女形,艺术,渊源
要旨:日本の歌舞伎と中国の京劇は人類文化の宝庫で、各種類の芸術の精華の集まったところと言える。歌舞伎と京劇は集中的に民族の文化素養を体現できる.数百年ほどの長い歴史を持っている。歌舞伎と京劇は社会の経済、政治、軍事、文化、道徳など諸要素の変化につれて盛衰していたからこそ、歴史のもっとも真実で生き生きとしている記載ともいえる。したがって、この論文は歌舞伎と京劇の研究を通して、我々青年学生は中日両国の伝統的な文化をもっと深く了解できるうえに、両国の歴史文化を研究することに役立てる。
キーワード:歌舞伎;京劇;程式性;女形;芸術;淵源
1.はじめに
日本の歌舞伎と中国の京劇は伝統的な東方文化から生まれ、そして、発達してきた。また、中日中日両国の友好往来の歴史は「源遠流れは長し」であって、両国戯曲も千年以上の相互交流と影響の歴史を持っている。したがって、京劇と歌舞伎の間には似ているところもあるし、違うところも存在している。本文は歌舞伎と京劇を概論的に説明して、ふたつの劇種の歴史淵源と表現形式を分析することを通して、皆さんに中日伝統的な文化の粋をもっとはっきりに了解させられるように書かれた。
2.歌舞伎と京劇について
2.1歌舞伎について
歌舞伎は日本人のとっておごりとしての伝統的な芝居である。日本の一番っ代表的な芸術の粋である。江戸時代の初期から生み出された。今まで400年の歴史を持っている。歌舞伎はいつも目新しくて、ユーニク与表現方法と達者与演技で観客を引きつける。人々に高い人気があ
る。数百年来芸術上の練磨とつづけて、丰富、完善にしたことを通して、今日、歌舞伎はもう日本の国粋になった。
東京銀座にある歌舞伎座、京都四条通にある南座などは、いつも観客でにぎわっている。数百年からの歴史を持つ日本の代表的伝統芸能は、今なおお脈脈とその生命力を保っている。歌舞伎は役者中心の演劇であり、役者の持っている魅力に支えられている。特に女形の持つ独特の雰囲気は多くの外国人も引き付ける。女歌舞伎が禁止され、やむをえず男が演じたわけだが。長い歴史の中で独自の世界を作り上げるに至った。今日、若手女形として人気のある坂東玉三郎は海外公演でも大成功を収めた。歌舞伎役者はほとんど世襲で、幼児から厳しい稽古を積み、伝統を守っている。
舞台の役者は屋号で声援される。主な屋号には、市川団十郎=成田屋、松本幸四郎=高魔屋、中村歌右衛門=哉駒屋、尾上菊五郎=音羽屋などがある。舞台下手(客席から向かって左)に観客席を貫いて作られた花道(役者の通り道)を入退場ながら役者と観客はいっそうの一体感を味わう。
脚本の種類は大きく分けて貴族や武士の世界を描いた時代物と、庶民の生活を描いた世話物とがある。
2.2京劇について
京劇はいつから始まったか。京劇史についてはいまだに混沌とした部分が多い。京劇の起源をいつに置くかについてさえ定説がない状態である。現在の主な説を紹介すると、乾隆五十五年(1790年)、高宗乾隆帝の八十歳の誕生祝いのため徽班が北京に呼ばれたこの年をもって京劇の起源と言われている。
道光八年から十二年(1828ー32年)にかけて、楚調(漢劇)の俳優王洪貴、李六らが北京に進出し、徽班に影響を与えたときをもって京劇の起源とする説である。
従来の説では、北京にはこの時はじめて湖北から「西皮」が伝わり、これが徽班の「二黄」と融合して「皮黄」すなわち京劇になったと言われていた。
道光二十年(1840年)頃から咸豊末年(1861年)にかけて、俳優の出身地や使用方言などで、徽班の「北京化」が進んだ時期をもって京劇の起源とする説である。
光緒の中葉から末葉(二十世紀初頭)とする説である。
結局、京劇の発生が何年からかを決定するのは、難しさがある。各説にはそれぞれ根拠とするところがあり、一概に退ける訳にはいかない。
確かなことは、京劇の主な源流は徽戯であり、それに漢劇(の前身)の要素が合流し、さらに崑曲はじめ幾多の地方劇の要素が逐次そそぎ込み、曲折を経て今日見られる京劇の形が出来上がった、という事である。
中国人だからといって、京劇が好きだとは限らない。これは、世代とは関係の無い好き嫌いの問題である。そもそも、京劇の歌詞や文句は、演目によって決まるが、一般的に難しく、普通の北京の人には聞き取れない。むしろ、河北[木邦]子や河南[木邦]子(豫劇)の方が耳で聞い
てわかるから好きだ、という北京っ子も少なくないほどである。
3.歌舞伎と京劇の比較
3.1歌舞伎と京劇の類似点
京劇と歌舞伎は中国と日本の各国の国粋である。
京劇と歌舞伎の数百年の歴史の間、何回かの協力交流したことがある。淵源がとても深いといわれる。この中でとくに京劇大師と言われた梅蘭芳父子は京劇芸術を日本へ伝えて、日本に歌舞伎芸術家と一緒に演出したことを代表として今まで語られている。
梅蘭芳氏は、20代で京劇の「四大名旦(旦は女形の意)」のトップを極めた世界的に有名な京劇芸術の大家である。梅蘭芳氏はその生涯に三度訪日公演を行い、中国の無形の国宝である京劇を日本国民に紹介した。
1919年4月、梅蘭芳氏は日本初公演を行い、日本の観衆は梅氏を通して初めて触れる中国の京劇にすっかり魅了されてしまう。
1924年、日本で関東大震災が発生し、梅蘭芳氏は日本の復興事業を支援するため、再度劇団を率いて日本に赴く。梅氏は歌舞伎俳優とともに舞台を踏んで15回の舞台をこなし、大阪でも5回の公演を行って、その興行収益のすべてを日本の被災地に寄付した。
1956年、62歳になった梅蘭芳氏は、中日友好を促進するため、三度目の訪日公演に赴いた。このときの訪日公演には、梅蘭芳氏が開いた流派、「梅派」の継承者である息子の梅葆玖氏も同行し、53日間に32回の公演を行って日本でセンセーションを巻き起こした。
三度の日本公演を行った梅蘭芳氏だが、その時代背景は毎回違っていた。違わなかったのは、梅蘭芳氏に対する日本側の歓迎ぶりである。東京、大阪、京都、神戸……、梅氏は行く先々で梅蘭芳ブームを巻き起こした。
2001年9月、梅蘭芳没後40周年のこの年、息子の梅葆玖氏が梅蘭芳京劇団を率いて日本を訪れ、亡き父の足跡を辿った。9月9日から15日にかけて梅蘭芳京劇団は東京国立劇場で7回の公演を行っている。
京劇と歌舞伎は共演という形で交流を重ね、梅蘭芳氏も多くの歌舞伎俳優と厚い友情を結んでいた。梅蘭芳氏は、歌舞伎を日本で最高の伝統舞台芸術と認めていた。1955年と1979年に、日本の歌舞伎芸術家が訪中公演を行い、梅葆玖氏も歌舞伎の大看板である市川猿之助氏の1955年の北京公演を観ている。また、梅蘭芳生誕110周年の2004年5月にも、日本の歌舞伎が中国の舞台で演じられた。
日本の歌舞伎芸術家、坂東玉三郎氏は自らが演じる『楊貴妃』に、梅派の演技を取り入れている。「玉三郎さんは北京に来て、私に楊貴妃を習ったことがある。有名俳優の気取りはまったくなく、とても謙虚な方であった。一方で型を習いながら、一方で独自の演技を創造されていました」と、梅葆玖氏は玉三郎氏の印象を述べ、「京劇も歌舞伎も形式こそ違いますが、同じく東洋の芝居である。ですから、その魂には相通じるものがあります」と語った。
日本の歌舞伎の中国京劇がとても多いことがあるような地方、“女装します”の役はその中