日语综合教程第六册第二课 自然との出会い

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日语综合教程第六册第二課
自然との出会い
ブナ林の四季
雪国の春はブナ林の芽吹きから始まると言ってよい。

もちろん細かく見ればブナの緑に先駆けてマルバマンサクが咲き、タムシバ(ニオイコブシ)が咲く。

しかし人の心にしみじみと春の喜びを感じさせてくれるのは、このブナの芽吹きであろう。

まだ風も冷たく、根雪が林地に残っているうちに、ブナの新緑はうっすらと稜線を染める。

あるかなきかのこの新緑に、長く厳しい冬に耐えてきた雪国の人は心のときめきを抑えることができない。

しかし、まだはっきりと春が訪れたわけではないから、このときめきをあからさまにするのはもう少し待とう、そういった心境だと言えばいいだろうか。

この時こそが雪国に暮らす人々にとって最高に幸せな時なのである。

やがて、誰の目にも明らかに新緑は稜線を染めながら登り、全山を緑で覆っていく。

そのころには林内の根雪もほとんど消えて、つつじ類をはじめ、低木類が林床を飾るのである。

しかし、いつもながらの春の訪れとは言いながら、どうしてこうも順序を間違えず、次から次へと植物たちは動き出すのであろうか。

その移り変りは、恰も生き物たちの成長していくように、森林全体もまた時節とともに変化を遂げていく。

天の摂理とは、まさにこのようなことを言うのではなかろうか。

夏から秋にかけては実りと収穫の時節である。

最も収穫というのは人間をはじめ動物側のことだから、植物にとって最も生命感にあぶれる時期こそが夏のだといったもうがいいかもしれない。

林業にとってはやっかいな真夏の下刈りという作業も、雑草や小低木かれ見れば、とんでもない迷惑なことである。

ここには人それぞれの自然がある。

自然保護と林業振興との、いずれの立場が優れているというのでもない。

ひとはそれぞれの立場で自然に接するのだということを、我々は心の底で認め合いながら生きでいるのである。

いかなる存在にも凋落の時が来ることを、自然はその長い年月の移ろいの中でも、また一年という短い間にも示してくる。

やがてブナの葉は落ち着くし、樹木全体が冬に備えた厳しい表情に変っていく。

その厳かなたたずまいといい、また風雪に耐えるけなげな姿といい、ブナ林が真の迫力を見せるのに、冬に勝る季節はないであろう。

或る人はその姿をおそろしいというまもしれない。

またある人はそれこそ美の極致と評価するかもしれない。

評価はどうあれ、黒々と静まり返った冬のブナ林の中では、もう既に何かが動き始めている。

巡り来る春に、再び山をおおいつくす葉が、早くも必要な枚数だ冬芽の中に準備されているのである。

ここでもまた、わたしたちは自然の偉大さに驚かずにはいられない。

自然の中に身を置いてみて、人間は初めて自然の大きさにふれることができるのである。

同時に、大自然の一員ちして、その中に包み込まれた自分をも認識できるであろう。

ブナ林という自然界の片隅のしかもその移り変りの一断面をのぞいてみただけでも、自然は、いかに多彩で奥行きが深いものであるかを知ることができる。

その奥深さが実感できるのは、そこに人間がかかわっているからにほかならない。

確かに日本人は自然に極めて強い愛着を抱いている。

また自然に対して研ぎ澄まされた感性を持っているの事実である。

それは日本文化のさまざまな領域にも反映されていよう。

しかし、それはあくまでも抽象的な、観念的な自然でしかないのではなかろうか。

自然を人間から切り離して眺めるのではなく、むしろ自然を友とし、自然のこころに迫ることが大切なのである。

これまで日本では、植物の名前一つにしても、もしろヨーロッパの文学作品から多くを学んだような気がすてならない。

実際にみたこともない植物なのに、スグリとカアラセイトウという名前はよく目にしたものである。

しかもそれらの植物は、物語の背景としてかなり大切な役割を果たしていた。

それに比べれば、詩や歌はともかくとして、日本の物語に登場する森の植物は、その種類も数もしれたものである。

ブナなども、今でこそ、名前を知らない人たちは少ないが、ほとんど日本の物語の中に現れていない。

こういう、ちょっとした例からみても、日本人がどちらかといえば、感情という側面ばかりで自然と付き合
ってきたことを、改めて思わずにはいられないにである。

これから必要なのは、実際に大自然の中に身を置き、そこに新たな楽しみを見出していくことであろう。

何はおいても、まず山を散策し、自然界の生の鼓動に耳を傾けよう。

こうした自然との触れ合いの中で、自分自身の心も再び息づいてくるに違いない。

与自然的邂逅(日译中)
雪国的春天应该说是从山毛榉树林初绽新芽开始的。

当然,如仔细看的话,在山毛榉泛绿之前,圆叶金缕花已经开放,柳叶木兰也已经开放。

不过使人内心深刻地感受到春天的喜悦之情的,还是这山毛榉的新芽吧。

当北风尚寒,林地中残雪犹存之际,山毛榉的新绿已悄悄披上了山脊。

正是这似有似无的新绿,使长期忍受着严冬的雪国人的心中,有一种按捺不住的喜悦。

但是,由于还没有清楚的春天来到的迹象,想要直率地表达这种喜悦,恐怕还尚待时日,应该说是这样一种心情为好吧。

正是在这个时候,对生活在雪国的人们来说,才是最幸福的时刻。

用不了多久,谁都可以清楚地看到,新绿一边将山脊浸染,一边向上攀升,终于让满山都披上了绿装。

这个时候林子里的残雪也几乎化尽,由映山红打头阵,低矮的灌木将林子的植被装点起来。

虽说是永恒不变的春天到来,为什么植物们会按照永远不变的顺序,一批又一批地轮番出动呢?这样的变化,恰如生物本身的生长状态,从幼年到少年,再到青年,渐渐成长起来那样,森林中的全体成员也与季节一起完成了这种变化。

所谓天意如此,说的不正是这样的事情吗?
夏去秋来,是收获果实的时候。

不过所谓收获是以人类为首的动物方面的事情,对于植物来说,最为生机勃勃的时期也许是夏天了。

对林业来说,麻烦的是盛夏的除草工作,如果从杂草和低矮灌木方面的立场来看,是出乎意料的麻烦事。

在这里有人们各自认可的自然。

自然保护和振兴林业,从各自的立场来说并不都是
好的。

在我们的内心深处,对于人们站在各自的立场上接触自然这件事,我们一边对此加以认可,一边生存着。

任何事物都有凋零的时候,自然在这漫长岁月的迁移中,还以一年的短暂期间向我们展示。

没过多久,山毛榉的叶子有了归宿,林子里的全体成员都在为准备过冬的严重情况转变。

说是庄重的样子也好,说是经受风雪的坚强姿态也好,显示山毛榉扣人心弦的力量,则再也没有比冬季更好的季节了。

也许有人会说这种样子很可怕,也许有人会评论说唯有这才是美的极致。

不管如何评价,在漆黑的重新变得寂静的冬天的山毛榉林中,已经有某种东西在开始萌动。

而在循环而至的春天,再次覆盖山峦的山毛榉的叶子,早就按照需要的叶片数在冬芽中作好准备了。

在此我们还是要情不自禁地感叹自然的伟大。

将自己置身于自然之中来观察,人类才能开始感触到自然之博大,同时作为大自然的一员,方才能够认识到包含在其中的自己吧?
只要略微看一下山毛榉林这个自然界的角落,看一下它变迁中的一个横断面,我们就可以知道自然是多么丰富多彩,博大精深。

对其深奥的内涵能够切身感受,无非是因为它与人类切切相关。

确实,日本人对自然抱着极强的爱恋,还对自然持有变得尖锐起来的感性认识,正如日本文化的各个领域所反映的那样。

但是,说到底那也不过是抽象的,观念的自然而已,我们必须找回更加现实的与自然的一体感,不是将自然与人类世界分割开来观察,而是将自然作为朋友,接近自然的精神,这才是最重要的。

日本直到现在,即使是一个植物名称,也给人以一种大多是从欧洲的文学作品中学来的感觉。

虽然是实际上未见过的植物,但是醋栗,洋紫罗兰等名称却经常见到。

而且这些植物作为故事背景,果然起着相当重要的作用。

与此相比,暂且不论诗与歌,在日本故事中出现的森林植物,其种类和数量都十分有限。

山毛榉也是如此,如今不知道它的名称的人很少,但它却几乎从未在日本的故事中出现过。

从这些微不足道的例子看来,人们不得不作这样的考虑,即日本人无论从哪一方面来说,只有情感这个侧面能与自然交往。

今后要做的,就是将自己置身于实际的大自然中,从那里也许能发现新的乐趣吧。

将任何事情都放下,先去山中走一走,在森林中散散步,听一听自然界的生命的搏动。

在这样与自然的互相接触中,一定能让自己的身心再次得到喘息。

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