长屋王

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寺崎保広教授

18.長屋王と遣唐使

(「奈良文化・観光クオータリー」59、2010年)

「長屋王と遣唐使についての話を」という依頼を受けた。大学教員も本務校以外でお話

をさせていただく機会は多いから、日程の都合さえつけば引き受けもするし、落語家と

同じで、先方からテーマの希望が示されれば、それにあわせた話もする。しかし「長屋

王と遣唐使って関係あるの?」という問題である。

奈良時代初期に政府の首班となった長屋王であるが、その時期は、藤原不比等が亡くなった七二〇年八月から、長屋王の変で自害をとげる七二九年二月までの足かけ十年と

なる。この頃の遣唐使をあげてみると、七〇二年出発の大宝の遣唐使(粟田真人)、七

一七年出発の養老の遣唐使(多治比県守)、七三三年出発の天平の遣唐使(多治比広成)の順で、ちょうど長屋王首班時代には派遣されていない。

近年の研究では、古代の外交に関して、君主と君主の間で取り交わされる国書のやりとりとは別に、政権を担当する大臣による外交も考慮すべきだ、という議論がある(佐

藤信「古代の大臣外交についての一考察」『境界の日本史』)。藤原鎌足が新羅の大臣

であった金?信に船を贈ったり、聖武天皇が新羅の宰相あてに書状を送ったりしているのは、そうした事例である。これらは君主の外交権に抵触するものではなく、むしろそれ

を補佐するものであって、君主と大臣が一体となって外交を担っていた、とされる。

長屋王も大臣として外交に関与したことは十分に考えられる。七五一年に成立した最古の漢詩集『懐風藻』の中には、長屋王宅において歌われた漢詩が一九篇も収録されて

いるが、その中に「長王宅に於いて新羅客を宴す」と題したものが含まれている。つまり、新羅からの使者が朝廷で天皇に謁見した公務とは別に、大臣である長屋王宅で、使

者を慰労する宴会を開き、もてなしているわけであり、それも仕事のひとつだったので

あろう。しかし、唐からの使者は、長屋王首班の期間に来日した例がない。

そうなると、表題にわずかに関わるのは、七五四年に唐から来日した高僧、鑑真の次の言葉であろう(『唐大和上東征伝』)。

「聞くならく、日本国の長屋王、仏法を崇敬し、千の袈裟を造り来りてこの国の大徳衆

僧に施す。その袈裟の縁の上に四句を繍着していわく『山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁』と。此をもって思量するに、誠にこれ仏法興隆し有縁の国なり。…」日本の要請を受けた鑑真が来日を決断する場面である。日本が仏教の盛んな国であることの証拠として、鑑真はかつて長屋王が千枚の袈裟を作って中国の高僧に贈ったこと

に思いをいたした、というのである。そこに刺繍された漢詩は『全唐詩』にも掲載され

ており、このエピソードは当時、中国によく知られていたことであった。

長屋王は、自身が仏教の信仰に厚く、大般若経の書写事業を二度にわたって行ったり、

盛んに造寺造仏につとめていた。興福寺北円堂や薬師寺東院堂も長屋王の建立と伝える。そうした彼が、中国高僧に袈裟を贈ったという話もおそらく事実と見てよかろう。そう

すると、どのようにして袈裟を贈ったかということになるが、遣唐使に荷を託して送っ

たのであろう。したがって、先に挙げた例の中では、七一七年の養老の遣唐使が該当する可能性が高いと考える。

長屋王は七二九年に謀反の疑いをかけられ自害をとげるが、生前の功徳が鑑真来日という大きな成果に結実した、ということになろう。幾多の困難にあい、盲目となって日本にたどりついた鑑真を、日本政府は盛大に迎え入れ、聖武天皇自身が鑑真から受戒をうけることにもなるが、鑑真が難波に到着した時に、都から難波まで派遣された官人の中に、長屋王の子、安宿王も含まれていた。迎えの使者と鑑真が対面したとき、

「この方が長屋王のご子息です」

「おお、あの長屋王の…」

ーといったやりとりがあったと思うのだが…もう想像はこれくらいに。

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