日本教育史
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日本教育史
目次
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• 1 変遷
o 1.1 奈良時代から平安時代まで
o 1.2 鎌倉時代から室町時代まで
o 1.3 江戸時代初期・中期
▪ 1.3.1 元禄文化
▪ 1.3.2 儒学
▪ 1.3.3 諸学問の発達
▪ 1.3.4 享保・寛政・天保
o 1.4 江戸時代後期(幕末期)
▪ 1.4.1 主な藩校・私塾・郷学
▪ 1.4.2 国学・蘭学
o 1.5 明治
▪ 1.5.1 教育制度の確立
▪ 1.5.2 主な郷学校
▪ 1.5.3 学問の発展
o 1.6 第二次世界大戦後
• 2 年表
• 3 脚注
• 4 参考文献
• 5 関連項目
• 6 外部リンク
奈良時代から平安時代まで[編集]
古代日本の教育について、多く知られているとはいえない。
しかし、山上憶良の「貧窮問答歌」などにも見られるように、親が子を思い、そのために何かをしてやりたいという気持ちは時代が違っていても変わることはなかったようで、資料の残っている以前から、親や大人たちが子どもや若者が1人前になっていく上で、何かの手助けや指導をしていたことは想像に難くない。
諸学問の発達[編集]
『大和本草』(国立科学博物館の展示)
儒学の影響により、現実的で合理的な思考が発達し、歴史学をはじめとする実証的な学問が芽生えた。
また、国文学にも目が向けられ、古典の研究がさかんになった。
歴史学の分野では、1657年に徳川光圀が大義名分論に基づく紀伝体の『大日本史』編纂を開始し、1906年(明治39年)に完成した。
中国歴代の正史の体裁を採用した史書で幕末の尊王論に大きな影響を与えた。
国文学では、真言宗の僧であった契沖が下河辺長流の影響をうけ、万葉集を初めとする古典の研究に専念し、国学の基礎を築いた。
天文学の分野では、幕府の碁方であった暦学・天文学者の渋川春海(安井算哲)は平安時代以来使われていた宣明歴の誤差を、元の授時暦と天体観測によって修正した貞享暦を1684年(貞享元年)に幕府に建言して採用され、初の天文方に任命された。
貞享暦にかな書きされた注は人々が生活するうえでも参考になった。
数学(和算)の分野では、関孝和が筆算を創始し、円周率の研究などに業績を挙げた関流和算を完成させた。
算額は、各地の和算家たちが神社に奉納した自作問題の絵馬を飾り、回答を絵馬にして答えたりした。
和算の入門書とも言える『塵劫記』は吉田光由が完成させ、1627年に刊行された。
平易な例題で実生活における数量計算や解法を示した。
本草学の分野では、和漢洋の1362種類の動物・植物・鉱物を分類、解説した書である『大和本草』を貝原益軒が記し、1709年に刊行された。
観察や経験を重視した益軒は日本の博物学発展の先駆けとなり、実用書としての価値も高かった。
享保・寛政・天保[編集]
第8代将軍徳川吉宗は享保の改革を行い、実学奨励にて漢訳洋書の輸入制限の緩和(1720年)と天文台の設置(1744年)を行った。
幕府直轄の昌平坂学問所は、昌平坂に面していたので昌平坂学問所、または昌平黌(こう)とよばれた。
1790年(寛政2年)老中松平定信は、寛政の改革の一環として、柴野栗山・岡田寒泉を湯島聖堂付きの儒者に登用し、湯島聖堂あずかりの林家に対し朱子学擁護を命じた。
この「寛政異学の禁」の後、学舎が増設され、旗本・御家人だけでなく、藩士・郷士・浪人らも聴講ができるようになった。
1793年に林述斎が林家をつい
で大学頭となると、それまで林家の家塾だった「湯島聖堂」が、正式に幕府直轄の学問所となった。
学問所では、毎月の定日に経書の講義や会読、小試・大試などの試験もおこなわれた。
また、初学者のための学問所直轄の教授所が深川・麻布・麹町にあった。
さらに、『寛政重修諸家譜』『新編相模国風土記稿』など、幕府の編纂事業も学問所がおこなっていた。
そして、このような学問所は藩校のモデルとなり、江戸時代後期には、藩校の教官養成の機能も果たしていた[2]。