日本の近代文学作家ガイド
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【作家
ガイド】
◎日本の近代文学作家ガイド
はじめに。
日本の近代文学を代表する作家たちに付けられていたコピーを紹介します。
(※引用したコピーは、「昭和文学作家史」(毎日新聞社・1977年刊)による)
たった数文字で、作家の魅力や特質をズバッと言い切るのは至難のワザ。
でも、意外に核心をついてるように思えたりもして、なかなか面白いものがあります。
そうした表面的なイメージの流通に抵抗するのが「文学」の営みではありますが、
作家たちがこんなイメージで理解されていたという一つの資料です。
ついでに文学史のなかでの位置づけや、作家たちがお互いをどう評価していたかとか、他の文献からの引用もつけ加えておきます。
たら何(ど)うかといふ。で、仰(おお)せの侭(まま)にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄(まで)もなく東京辯(べん)だ。即(すなわ)ち東京辯(べん)の作物が一つ出來た譯(わけ)だ。早速(さっそく)、先生の許(もと)へ持って行くと、篤(とく)と目を通して居られたが、忽(たちま)ち礑(はた)と膝(ひざ)を打って、これでいゝ、その侭(まま)でいゝ、生(なま)じっか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おっしゃ)る。
坪内(つぼうち)先生というのは、明治18年に『小説神髄』(しょうせつしんずい)を著わして、江戸時代の勧善懲悪(かんぜんちょうあく)を脱する新しい小説論を提唱した坪内逍遥(しょうよう)のこと。英語の“ノベル”にあたる「小説」という概念を日本で初めて使った人です。
ちなみに、坪内逍遥は大学の先生でしたが“言文一致”の『浮雲』が刊行された当時、四迷は23歳、逍遥は28歳でした。明治の言文一致運動の始まりは、若者の手によるものだったんですね。ちなみに、この坪内先生は後々、後輩となる文学者たちに笑われています。
●津野海太郎『滑稽な巨人』
まず二葉亭四迷は、『小説神髄』に多大の感銘を受けたくせに、ロシア小説を愛読した批評眼によって、逍遙の小説を面と向って批判した。森鴎外は没理想論争で逍遙を凹ました。夏目漱石は逍遙訳による文藝協会の『ハムレット』を観て「無理な日本語」と批判した。志賀直哉は同じ公演を観て、主役のハムレットより敵役のクローディアスに共感を寄せ、『クローディアスの日記』を書いた。太宰治は『新ハムレット』で逍遙訳の古めかしさを笑いものにした。
◎武者小路実篤
仲よきことは美しき哉
明治の終わりごろ、文壇の主流であった自然主義派から距離をおいた仲良しグループに「白樺派」がいました。上流階級の子弟が通う学習院出身の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らがともに創刊した雑誌『白樺』がその名の由来です。“白樺”の名を強く押したのは、ロシア小説に傾倒していた実篤だったとか。「トルストイは僕の最初の恩師であり、最大の恩師であった」と語っています。そういえば、若き日の竹中直人が、「さねあつッ!」と叫んで武者小路実篤のモノマネをしていました。
◎志賀直哉
“小説の神様”と言われて
その無駄のない簡潔な文体は、大正から昭和にかけての多くの文学者から賞賛され、“小説の神様”と呼ばれました。芥川龍之介は「志賀直哉氏は、僕等のうちでも最も純粋な作家」と書き、師である夏目漱石に「志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」と聞くと、漱石も「俺もああいうのは書けない」と言ったそうです。長編小説の『暗夜行路』は、近代日本文学の代表作の一
◎芥川龍之介
大正文学の鬼才
“芥川賞”にその名を残す作家です。大学在学中に発表した『鼻』が夏目漱石から激賞されて文壇デビュー。古典作品を題材にとるなど、多様なスタイルを使い分けて数多くの短編小説を残しました。晩年に「小説は“筋”の面白さや奇抜さが作品の質(芸術的価値)を決めるわけではない」と主張し、物語性を重視する谷崎潤一郎との間で論争を行いました。「ぼんやりした不安」と遺書に書き残して自殺。その死は、大正文学の終焉(しゅうえん)と重なっています。
●日本幻想文学集成『芥川龍之介』解説・橋本治
芥川龍之介は「美」の人であろうと、私は思う。『羅生門』の理屈はつまらないが、しかし羅生門に降る雨は美しい。…芥川龍之介が自死に追いやられて行く時代は、私小説と言う文学のファシズムが擡頭(たいとう)して来る時代である。誰も人がそんなことを言わなくても、私はそう思うのでそのように言う。芥川龍之介は、私小説というエゴイズムに殺された作家である。芥川龍之介を殺して昭和は始まり、芥川龍之介を排除して始まった昭和の文学は衰退によってそのピリオドを打った。
◎江戸川乱歩
極彩色の白昼夢
筆名は、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーをもじったもの。子供から大人まで幅広い読者層から支持され、日本に推理小説(ミステリ)を広めた第一人者です。
明智小五郎や怪人二十面相の生みの親として知られていますが、大人には猟奇と幻想、倒錯的なエロスの世界がない交ぜになった作品で高く評価されています。(ちなみに「猟奇」という言葉はもともと佐藤春夫が探偵小説を論じたときに、Curiosity Huntingという英語を「猟奇耽異(りょうきたんい)」と訳したことが始まりだとか。)
また、乱歩は多くの新人を発掘し、筒井康隆や大薮春彦なども乱歩によって才能を認められて作家になったとか。乱歩はサインの色紙にいつも「うつし世はゆめよるの夢こそまこと」と書き添えたそうです。
●「江戸川乱歩氏に対する私の感想」夢野久作
乱歩氏はズット前に、私が生れて初めて書いた懸賞探偵小説を闇から闇に葬るべく、思う存分にコキ下(おろ)されました。又、一昨年、私が或る老婦人の手記を中心にした創作(※引用者註『押絵の奇蹟』)を書いた時には口を極めて賞讃されました。…縁もゆかりもない一素人の投稿作品を、あんなにまで徹底的に読んであんなにまで真剣に批判して下すった同氏の、芸術家としての譬(たと)えようのない、清い高い「熱」によって、私がどんなにまで鞭撻(べんたつ)され、勇気付けられ、指導されたか……という事は、私自身にも想像が及ばないでいるのです。