日本战后复兴期から高度成长期までの経済政策及び効果
日本战后经济概况
戦後の経済成長率
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図1:戦後のGDP(国内総生産)成長率(3年移動平均)の推移
拡大
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1955~73年 1974年 1973~85年 1985~90年 1990年以降 1997、98年
高度成長期・・・年率10%近い成長。 石油ショック・・戦後はじめてのマイナス成長。 輸出が好調日米貿易摩擦が激化。 バブル景気の時代。 バブルの崩壊とその後始末。 戦後2度目のマイナス成長
戦後経済概観
1.戦後の日本は「飢餓状態」であった。 2.1950年の「朝鮮戦争の特需」で何とか息をつなぐ。 3.合理化により「高度成長の基礎」を築く。 4.1960年代には「日本の奇跡」といわれるほどの経済成 長を遂げた。 5.しかし、1970年ごろには「高度成長」も終了。 6.1970年代は「ニクソン・ショック」や 「石油ショッ ク」のダメージを受ける。 7.1980年代は輸出が好調。本格的な「円高時代」が到来。 8.さらに、1980年代後半には「バブル経済」を経験。 9.そして、今日の日本は、戦後経済の総括を「バブル経 済の後始末」という格好で迫られている。
戦後の対ドル為替レートの推移
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図3:円ドル・レート 「対ドル為替レート」とは、アメリカ・ドルの円表示の値段をいう。 アメリカ経済顧問ドッジの提案により1949年に「1ドル=360円」の単一為替レート を実施。 1971年の「ニクソンショック」= ドルと金の交換停止 円高傾向が始まる。 1973年に「変動相場制」へ移行。 石油ショックの度に若干円安に振れるが、円高傾向は止まらず。 1980年代のレーガン大統領の高金利政策により円は過小評価され安定する。 1985年のG5プラザ合意で、一挙に清算 本格的円高時代へ。 バブル崩壊後も日米金利格差は縮まらず、円高傾向を維持。 1995年を境に反転する•
战后日本经济xx
二、1956—1973年日本经济的高速增长
在1956—1973年的18年间,日本的国民生产总 值年平均增长9.8%,其中,1959—1970年的12年中, 有10年的增长率都高达两位数以上(5年在12%以上, 最高的1961年和1967年分别达13.5%和13.1% ), 在此期间还出现过— 神武景气(Jimmu Boom,1954.12—57.6,31个月) 岩户景气(Iwato boom,1958.7—61.12,42个月) 奥运景气(Olympic Boom1963—64年,为期两 年) 伊奘诺景气(Izanami Boom,1965.11—70.7,57 个月)
上述三大改革涉及日本的政治、经济、社会、 文化等各领域,就经济方面而言,其中心目的是铲 除日本对外侵略扩张的经济基础。所有这些改革, 对日本克服战后初期的经济困难和以后的经济腾飞 产生了积极而深远的影响
成立“经济安定本部”,实行“倾斜式生 产方式”(Priority Production System)
一、第二次世界大战对日本经济的破坏
•战争使日本国民财富丧失了38% •战争结束时,日本工业生产能力只相当于战前 (1934—36年)的31%,农业只相当60%,因空袭 而流离失所者达900万人,从海外遣送回国的600多 万,加上因军事工业和部分重工业拆除而造成的失业 的400多万人。农业因灾歉收,致使粮食奇缺,城市 每人每天粮食定量仅为297克,且30%为白薯、大豆 或豆饼 •正是在这种背景下,日本开始了战后初期的经 济改革、恢复和重建过程-(Rising from the Ashes)
伊奘诺景气指日本经济史上自1965年到1970年 期间,连续五年的经济增长时期。1964年日本举 办东京奥运后,曾一度陷入经济不景气,政府于 是决定发行战后第一次建设国债。1966年后,经 济景气持续畅旺。 期间有不少大企业合并,而私家车和彩色电视亦 快速普及。日本国民收入水平快速提高,当时有 所谓的“新三神器”(即汽车、空调、彩色电视 机)。另一方面,当时国内生产总值若以美元汇 率换算,日本为世界第二的经济大国。
第8章 日本の経済史
第8章日本の経済史第一節戦後復興期(1)GHQ(連合国総司令部)による経済民主化政策-「軍需」から「民需」へ・財閥の解体・独占禁止法公布・労働組合設立の推奨*資本集中の排斥、自由競争の促進(2)復興インフレ(3)ドッジ勧告(ドッジライン)による「経済安定9原則」勧告(1948年12月)・緊縮財政・公務員や公企業の人員整理・1ドル360円の固定相場の設定・預金封鎖・新円切り替えなど*インフレは収束したが、逆にデフレが発生。
⇒「ドッジ不況」(4)朝鮮特需←朝鮮戦争(1950~53年)により発生した特需第二節高度経済成長期(1)神武景気(1954年12月~1957年6月)←設備投資による生産増大、戦災からの復興(インフラ整備)、労働者賃金の上昇による購買力の増大*製造業を軸に高度成長を達成*1956年版『経済白書』「もはや戦後ではない」(*経済活動が戦前の水準を超えた。
)(2)所得倍増計画(1960年)→1967年に達成(3)東京オリンピック景気・東海道新幹線開通(4)証券恐慌(昭和40年不況)(1965年)⇒戦後初の赤字国債発行(不況を乗り切る)*1968年には、西ドイツを抜きGDPベースで世界第2位となる。
<高度成長期の変化>・経済・産業構造変化:農業や軽工業(繊維など)⇒重化学工業(鉄鋼・造船・化学など)中心・完全雇用達成:雇用の拡大、失業率3%以下・消費ブーム発生:「三種の神器」、「3C」・日本のモータリゼーションが始まる:高速道路の開通、自家用自動車市場拡大・エネルギー政策転換:石炭⇒石油*炭坑の廃坑による労働争議勃発・地方と都市部の所得格差の拡大・公害の発生、環境破壊・東京一極集中による地方の過疎化・大企業と中小企業との二重構造が顕著となる第三節安定成長期(1)「固定相場制度」から「変動相場制度」へ(1971年8月)*為替差損で輸出産業が打撃を受ける。
(2)オイルショック(1973年10月)*第4次中東戦争を発端とした中東産油国の原油輸出制限→石油価格の高騰→狂乱物価勃発⇒総需要抑制政策(1974年には実質経済成長率がマイナスとなり、低成長の時代を迎える)(3)赤字国債発行(1975年~)*この年から恒常的な財政赤字が始まる<安定成長期の社会>・人口の都市部集中化、地方の過疎化の深刻化⇒「日本列島改造論」(大都市と地方の格差を埋めることと地方の雇用対策を目的とする。
日本战后经济发展的历程
日本在国际经济舞台上非常重视合作,积极参与各种自由贸易协定和区域经济合 作组织。例如,日本是亚太经合组织的重要成员之一,积极参与推动区域经济一 体化进程。
竞争
日本与其他发达国家之间也存在着激烈的竞争。例如,在高科技领域,日本与美 国、欧洲等国家和地区展开了激烈的竞争。同时,新兴市场国家如中国和印度的 崛起也对日本经济形成了挑战。
日本面对老龄化社会和经济活力问题的挑战
老龄化社会的影响
随着人口老龄化程度的加剧,日本社会面临着养老金、医疗保健和劳动力等方面 的挑战。为应对这些问题,日本政府推出了一系列改革措施,如提高退休年龄、 改革医疗制度等。
经济活力问题的解决
为提高经济活力,日本政府积极推进结构性改革,促进创新和创业,鼓励企业进 行员工培训和技能提升。此外,加大对年轻一代的支持,为他们提供更好的职业 机会和发展空间,以激发经济活力。
贸易往来
日本与亚洲其他国家的贸易往来历史悠久,是这些国家最重要的贸易伙伴之 一。日本从这些国家进口原材料和食品,同时向这些国家出口工业制成品和 高科技产品。
投资合作
日本在亚洲其他国家也积极进行投资和合作。例如,日本在亚洲的直接投资 总额中占比很大,投资领域涉及制造业、金融、服务业等。
日本在国际经济舞台上的合作与竞争
对外经济合作和贸易自由化
加入国际经济体系
日本在战后加入了国际经济体系,参加了关贸总协定等国际组织,推进了贸 易自由化和经济全球化。
对外直接投资和合作
日本企业开始对外直接投资和合作,推进了国际经济合作和区域经济一体化 ,加强了与世界其他国家的经济联系。
04
经济泡沫和破灭
房地产和股票市场的过度繁荣
经济崩溃和国际金融危机
泡沫破裂
日本工资制度原文
要約日本は、戦後焼野が原から高度成長、安定成長を経て現在の低成長の時代を迎えているが、賃金制度も時代の変遷を受け、変わってきている。
①1945年~1955年頃、生活保障を中心としての生活型的な賃金制度。
②1955年頃~1975年頃、学歴、性別、勤続年数を加味した年功的な賃金制度。
③1975年頃~1990年頃、年功人事制度を加味した職能資格型制度。
④1990年頃~現在、成果主義を中心とする新しい能力主義賃金制度。
年功序列型賃金制度の利点は、従業員の雇用と生活の長期安定が守りやすい点にある。
これに対して成果型賃金制度は、その従業員の勤続年数や地位にあまり関係なく実績に応じて給与が支払われる点にある。
一国の給与体系や給与水準は、その国の歩んできた歴史や国民性やあらゆる制约を総合的に判断して決定されるものである。
わが国は経済高速発展の時期にある。
政府機能が間接的に賃金レベルをコントロールした上で、企業はその賃金制度を健全化させなければならない。
提要战后,日本从一片废墟开始,经历了高速发展期,稳定发展期,现在迎来了经济的低成长期。
其工资制度也受时代变迁的影响,不断变化。
①1945年至1955年左右,以生活保障为中心的基本生活型工资制度。
②1955年至1975年左右,以学历,性别,工作时间长短为主的年功型工资制度。
③1975年至1990年左右,以年功人事制度为主的职能型工资制度。
④1990年左右至今,以成果主义为中心的新型能力主义工资制度。
年功序列型工资制度具有容易保障职员的长期雇佣和生活安定的优点。
与之相对应,成果型工资制度具有根据实际成绩来决定工资,而与员工的工作年限,地位无关的优点。
一个国家是根据其所经历的历史,国民性质等条件来综合判断决定其工资体系和工资水平的。
我国正处于经济高速发展的时期。
必须在政府机能间接调控工资水平的基础上,企业不断完善自己的工资制度。
.歴史と沿革第二次世界大戦以後の日本企業の賃金制度は大体1945年~1955年、1955年~1975年、1975年~1990年、90年代以後の四段階に区分出来る。
战后复兴时期的日本经济
而1950年6月,朝鲜战争的爆发给日本经济带来 的意想不到的景气。离战场最近的日本成了美军大 量军需物资的生产基地和供给基地。于是1951年 “工矿业生产指数”“实质个人收入”“民间投资” 恢复到了战前1935年的水平。1952年,“实质 国民总生产”,制造业的“实际工资”也恢复到同 等水平。至1953 年日本的实际GNP 超过1944 年的水平,而在1946 年实际GNP 只及1944 年 的56%。从1946—1955 年的10 年间,GNP 年均增长率达到9.2%。
ቤተ መጻሕፍቲ ባይዱ
美国对日扶植
战后美国政府正式公布了《投降后初期美国对日方 针》,清除了日本经济体制中的封建和半封建因素,建 立了比较完整的现代资产阶级经济体制,为日本的经济 发展奠定了基础。 1948 年日本经济逐步摆脱萎缩状态,但是大量的价 格补贴和巨额的低息贷款加剧了通货膨胀。1949年美 国对日推行“道奇路线”,基本目的是紧缩政府开支 和加强税收来削减美国的对日援助,并使日本政府能够 尽快抑制通货膨胀,稳定物价,从而摆脱经济困境。在对 外贸易方面,确定了固定的汇率。然而,推行紧缩的财 政、金融政策虽使通货膨胀趋于收敛,却又引起生产 萎缩,失业增加,导致日本经济陷入新的危机。
战后复兴时期的日本经济
1945—1955
战后经济状况
通常,人们将战后日本经济增长的过程分为【经济 复兴期】【高度成长期】【安定成长期】等几个阶 段,下面介绍战后【经济复兴期】的经济状况。 第二次世界大战结束的第二年即1946年,日本开 始走上了经济复兴之路。由于长期战争的破坏,日 本的生产力锐减,1945-1946年之间,日本的生 产率降低到了展示生产高峰期的20%,工矿业生 产仅为战前的28%。而且由于战事大量支出军费, 导致了恶性的通货膨胀,许多生活必需品供应奇缺。 同时还存在着失业人口众多、大批无家可归的流浪 者露宿街头等严重问题。可以说,战后的日本的经 济复兴之路的起点是极为困难而悲惨的。
日本经济复兴时期的金融政策
日本经济复兴时期的金融政策作者:湛璧采来源:《科学与财富》2020年第23期摘要:面对遭受战争破坏的供需极度不平衡的市场,日本的政策主体,以市场需求为导向,运营金融政策和逐步建立金融体制。
“专业化”分工的金融体系,有利于体现政府的发展战略意图,因而金融政策能够调和生产力和生产关系的矛盾,并适应经济结构的需要。
金融政策的目标既要应对暴涨的物价,又要恢复生产能力,二者既矛盾又统一。
为化解制约因素,因而有效利用各种资源,是金融政策的出发点。
在经济复兴时期,日本依然实行类似于二战期间的“统制经济”,采取“资金分配和限制融资”的结构性金融手段,使有限的资金向基础性、战略性产业倾斜。
从这些意义上讲,产品、货币市场的供需不平衡和市场机制的不完善,是日本经济复兴时期结构性金融政策工具起用的历史条件。
关键词:金融政策;政策手段;结构性货币政策工具一、日本战后初期的经济背景日本第一本《经济白皮书》中写道:“当时日本完全是赤字经济,政府的赤字财政,民间企业和家庭开支也都是赤字。
”在战时,庞大的战费由增税、发行公债负担,至战败结束的1945年年底,公债余额多达1439.7200亿日元,可谓天文数字。
战后随着通货膨胀的表面化,人们几乎提空银行中的储蓄,进行一场“拿钱不如换物”的运动。
二、日本经济复兴时期金融政策的演进(1945-1955年)1、日本银行大量发行银行券在战争结束后的三个月时间内,通过日本中央银行承购财政赤字公债,对军需公司补偿、复员军人发放生活补贴累计265亿日元,相当于日本1937年 9月至1945年 8月的全部军费开支的1/3[1]。
民需企业为恢复生产,向民间金融机构大量贷款,民间金融机构的财源是日本银行。
战争结束后的半年,日本银行券发行额已达605亿日元,是战争结束当天的一倍。
2、紧急金融措施战后工业生产、农业生产恢复进展的缓慢,导致生产、生活资料供给非常奇缺。
另外,一部分货币没有流入生产环节,成为了屯积物资的资本,从而助长物价的上涨势头。
国际化と戦後の日本経済について
日语专业毕业论文国際化と戦後の日本経済について国際化と戦後の日本経済について——国際化の中で日本経済と復興をめぐって国际化与日本战后的经济——日本经济的复兴与国际化作者:蒲翠英指導教官:林嘯軒学士号を取得するために外国語学院に提出する山東科技大学2008年6月目次要旨(日本語)...................................................................ii要旨(中国語). (Ⅴ)はじめに (1)第1章戦後の復興期(1945戦後—1950年前半) (3)1.1戦後の日本 (3)1.2朝鮮戦争の影響 (5)1.3テレビ時代の到来 (5)第2章高度成長期と安定成長期(1950年前半―80年代前半)..52.1ガットの加盟.................................................. ............. . (5)2.2 高度成長期.......... ............ (7)2.3石油ショック.............................................. . (9)第3章日本のバブル経済の生成と崩壊と長期景気低迷(1980年代半―98年) (11)3.1バブル経済.......... ........... ........... ........... .......... .......... (11)3.290年代経済の状況........... .... ........... . (14)3.3経済とグローバル化........... ........... .. (17)おわりに (19)参考文献 (20)要旨本論文は敗戦後の経済の復興と発展をめぐって、日本が再び安定経済時期に達し、国際経済のグローバル化の中で変遷、改革と進める日本経済と国際化について探求している。
战后日本经济高度成长的原因
战后日本经济高度成长的原因1954年前后,日本完成了战后重建和经济复兴,国民经济中除了进出口以外,已经达到或者超过战前乃至战后的最高指标,它的经济发展已经站在了新的起跑线上。
但是,这个时候的日本家底尚薄,与欧美主要经济国家的差距还很明显。
1955年,人均国民产值日本:269美元法国:1131美元美国:2402美元联邦德国:882美元英国:1057美元但是度过1955年到1970年的经济高度成长期,日本的经济面貌大为改观,1968年,日本的国民生产总值首次跃居资本主义世界第二位,1970年,日本的主要经济指标及其在主要资本主义国家中的位置:国民生产总值:世界第二位出口额:世界第三位粗钢产量:世界第二位钢铁出口量:世界第一位船舶年下水量:世界第一位汽车产量:世界第三位发电量:世界第二位到1970年,日本已经成为公认的第二经济大国。
高度成长的内外条件:战后有利的国际环境:1953年7月,朝鲜战争签署停战协议,在那之后国际政治形势发生了很大的变化,冷战后剑拔弩张的东西方关系走向缓和,在东亚地区,在朝鲜停战以后,迎来了10年左右的安定时期,这对日本的成长是有利的。
1965年2月,美国为了保护其盟友越南政权,遏制共产主义的发展,对越南发动了近十年的战争,耗资巨大。
1973年1月27日,美越两国在巴黎签署和平协议,美军撤出越南。
对日本经济来说,无论是安定的东亚环境,还是在东亚地区发生局部战争,都是一种正相关的影响。
1952年4月,《旧金山对日和约》通过以后日本恢复了独立,同时通过日美《安保条约》在政治上成为美国的盟友和西方世界的一员,1952年5月,日本加入国际货币基金组织和世界银行,1955年9月加入关税和贸易总协定,从而实现了与西方经济的体制性对接。
1956年10月,与苏联关系正常化,12月,日本加入联合国。
在这样一个国际环境中,美国和日本结成同盟关系是非常重要的因素。
这样一个同盟关系,使日美双方获益,但是搭便车的日本是收益更大的一方,这是因为美国提供的安全庇护,使日本可以专心从事经济建设,美国提供的经济优惠,使日本可以大量的引进吸收美国的先进技术和设备,从而迅速的实现产业的结构升级。
第二章経済の高度成长期
輸出額
●重化学工業の新製品が続々誕生
●日本の製造業の国際競争力がアップ
第二節
経済構造の変化
2.3 労働市場の変化
●1955年から1965年まで労
働力人口の雇用比率は
完全失業率:働く意志は持っているが、所得が伴わない状態の求職者を 完全失業者、その完全失業者と就業者の合計を労働力人口といい、労働
頑張れ!
第一節
経済高度成長の展開
1.1もはや戦後ではない
●1952年のGNPは戦前を超えた。 ●一人当たりの実質GNPは1955年に戦前水準を超えた。 ●1955年の世界主要国の一人あたりの実質GNP 日本 269ドル フランス 1131ドル アメリカ 2402ドル 西ドイツ 882ドル イギリス 1057ドル ●輸出構造全体が国際競争力が欠けていた。
日本経済入門
江西財経大学外国語学院 厳新平 作成
第二章:
経済の高度成長期
第一節 経済高度成長期の展開
第二節 経済構造の変化
第三節 高度経済成長をもた らした要因
頑張れ!
経済の高度成長期(1955~1973) 背景: 1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書(副題日本経後の日本の復興が終 了したことを指して、「もはや戦後ではない」と記述され、流行
頑張れ!
第三節 朝鮮戦争特需
3.2 特需による経済の拡大
▼朝鮮戦争の特需ブームはドッジ不況下での国内滞貨をたちまち一 掃し、国民の生産水準をぐんぐん上昇させた。 ①1949年→1951年 外貨保有量 2億ドル→9.4200億円↑ ②1949年→1951年 綿紡績業の自己資本利益率 26%→156%↑ ③1949年→1951年 化学繊維業 32%→194%↑
日本战后经济发展及其特征
日本战后经济发展及其特征【摘要】二战后日本经济在战争的废墟上得到了迅速的恢复和发展,在相当长的一段时间内实现了经济的高速增长,人民生活水平大为提高,一跃成为世界第二经济强国,被称为“日本经济奇迹”。
然而在二十世纪八十年代末日本“泡沫经济”破裂以来,日本经济持续低迷至今。
本文从日本战后经济发展轨迹谈起,浅析高速发展的原因及其政府主导型的市场经济模式,进而分析日本经济模式在目前存在的问题,解决的对策及其走势,最后阐述过去无论运作多么良好的经济体制,如果不能随着国内外经济环境的变化而变化,最终会转化为经济发展的桎梏。
基于此,本文将对其进行分析。
【关键词】日本经济;日本政府主导的市场经济模式;经济问题;展望目录一、战后日本经济发展阶段和经济特征 (3)(一)经济复兴阶段(1945-1955) (4)(二) 经济高速增长时期(1955-1973年) (4)(三) 经济稳定增长时期(1974-1990年) (4)(四) 经济衰退期(1991-2000年) (5)1.企业生产能力过剩 (5)2.科技创新的后劲不足 (5)3.产业结构调整滞后 (5)4.经济体制调整失误 (6)5.金融机构存在巨额不良债权 (6)6.财政危机严重,削弱了政府干预经济的能力 (6)二、日本市场经济模式 (6)(一) 日本的产业政策 (6)(二) 日本的宏现经济政策。
(7)1.财政方面日本大部分财权由中央所掌握 (7)2.金融方面 (7)3.企业特点 (7)三、日本当前经济存在的问题 (7)(一)公司治理结构机能的衰退 (7)(二)长期雇佣体制阻碍了企业的改革与重组 (8)(三)主银行制导致企业经营效率的下降 (8)四、日本经济发展展望 (8)二战后日本经济在战争的废墟上得到了迅速的恢复和发展,本文从日本战后经济发展轨迹谈起,浅析高速发展的原因及其政府主导型的市场经济模式,进而分析日本经济模式在目前存在的问题,解决的对策及其走势,最后总述过去无论运作多么良好的经济体制,如果不能随着国内外经济环境的变化而变化,最终会转化为经济发展的桎梏。
日本戦後経済について
日本戦後経済について日本人は団結心を持っていることです、即ち日本人の集団意識です。
日本人は自分がある集団に属しているという意識、つまり集団志向が強いです。
集団意識が日本人のもっとも独特な国民性といえます。
「出る釘は打たれる」と言う諺は日本人の生き方を端的に表しているし、集団に異を唱えたり、背を向けた者には「村八分」と言う処罰があります。
第二次世界大戦後、わずかの数十年の間、日本は著しく発展して、今では、世界経済第二位に登ります。
その原因を究明すれば、勤勉に働くほか、集団意識も大きな役割を占めています。
日本人の根気の一つとしての集団意識は、大勢の人を合わせて、ひとつの目標を目指して、あまり広くない島国日本を世界経済に脚光を浴びさせます。
それでは、日本人の集団意識はどのように生まれたか。
日本社会にどんな影響を与えたか。
私たちはこの意識について何を習うべきか。
以上の問題を検討します。
日本の面積は約三十八万平方キロメートル、アメリカのカリフォルニア州とほぼ同じであるが、人口は一億二千万人であり、アメリカの約半分です。
そのほか全国土の4分の3が森林に覆われた山地であるので、人口は主に交通、産業の発達した表日本の海外沿いの平野に分部して、本州の南関東から北本州にかけて集中しています。
人口の密度が大きいです。
そのほかに、日本列島は地殻変動帯の属しているため、火山と地震が著しく多いです。
大きな平野がないので、日本の河川は短く急流を成しているので、真水の蓄えさえ十分ではないのです。
別に、国土が狭いので、石炭、石油と鉱産物資源の蓄えも不足です。
ある日本人は「日本は一つの大加工工場ですから、誰かが首を絞めないかと心配するのです。
」といっています。
このような感じは日本人の共通認識になっているのだと思います。
要すると、日本人が強い不安感と危機意識をもっています。
この意識をもっている日本人は、個体の力の弱さと集団の強さを認識するし、集まらないとできないと言う気持ちを持っているらしい。
日本战后高速增长时期“共同富裕式经济增长”对中国的启示
日本战后高速增长时期“共同富裕式经济增长”对中国的启示目录一、内容描述 (2)二、日本战后高速增长时期背景分析 (3)1. 战后日本经济现状及挑战 (4)2. 日本政府政策与措施 (6)3. 高速增长时期特点与成就 (8)三、“共同富裕式经济增长”理念解读 (9)1. “共同富裕”概念及其内涵 (10)2. 日本“共同富裕式经济增长”表现 (11)3. 经济增长与共同富裕关系分析 (12)四、日本战后经济增长对中国启示 (14)1. 重视经济发展战略规划 (15)2. 坚持创新驱动发展 (17)3. 优化产业结构与布局 (18)4. 重视民生改善与社会保障体系建设 (19)五、中国在实现共同富裕中的实践与探索 (20)1. 中国经济发展现状及挑战 (22)2. 中国实现共同富裕政策措施 (24)3. 地方实践案例与经验总结 (25)六、中日对比下的中国策略优化建议 (26)1. 进一步完善社会保障体系 (27)2. 加强区域协调发展机制建设 (29)3. 深化改革开放,优化营商环境 (30)4. 倡导勤劳创新,弘扬共同富裕价值观 (31)七、结论与展望 (32)一、内容描述日本战后高速增长时期,被称为“共同富裕式经济增长”,这一时期对中国经济的发展具有重要的启示作用。
在20世纪50年代至80年代,日本经济实现了快速增长,成为世界第二大经济体。
在这一过程中,日本政府采取了一系列政策和措施,推动了国民经济的快速发展,实现了全民共享经济增长的成果。
这一发展模式对当今中国经济发展具有一定的借鉴意义。
日本战后高速增长时期的成功经验表明,政府在经济发展中发挥着关键作用。
日本政府通过制定合理的产业政策、实施有效的财政政策和货币政策,以及推动科技创新等手段,为经济发展创造了有利条件。
政府同样需要发挥引导和调控作用,以实现经济的可持续发展。
日本战后高速增长时期的成功经验还表明,要注重提高劳动生产率和资源利用效率。
日本経済の戦後史
日本経済の戦後史①経済の復興日本の戦後復興は世界的にも驚異だと言われている②民主主义③重工业化④全国总和开展计划自1868年明治维新起,日本的经济发展史,是一部以发达国家为目标的追赶史。
1956-1973年,日本工业生产年平均增长率达13.6%,国民生产总值占资本主义世界的比重、在资本主义世界的地位从第6位跃升到第2位,成为仅次于美国的第二经济大国,因此被西方学者认为创造了资本主义经济发展史上的“奇迹”。
但进入70年代中期以后,从1974年开始至今,日本经济进入低速、稳定发展时期。
这一时期,由于同内外经济形势的变化,使日本的经济危机、生态危机和能源危机交织迸发,因此不得不在经济政策和产业结构上进行适当调整。
这一时期日本的经济增长率下降到5%左右,并一度(1993年)山现负增长,但其经济总量却一直处于美国一国之下,在发达国家中居于第二。
七八十年代,两次经济危机”和“一次石油危机、日本经济发展的速度急剧下降。
八九十年代,由于受全球经济形势不景气以及亚洲金融危机的影响,日本经济继续下滑,并引起日本内阁的频繁变更。
出现所谓的泡沫经济。
1868年以来、明治維新、日本の経済史以来、先進国せんしんこくの歴史に追いつくためにターゲットです。
1956年から1973年には、日本の工業生産の年間平均成長率はGDPの13、6%。
資本主義世界しほんしゅぎせかいの割合を占めて達し、資本主義世界の状況じょうきょうは、6位から2位に跳ね上がった米国に次ぐ二番の経済大国。
そして、欧米の学者は資本主義経済の発展と歴史を信じるに作成されだ“奇跡”。
しかし、70年代中葉に入った後、1974年から今日まで、日本経済はゆっくりと、着実な開発に入った。
その期間中、内部と外部の経済状況の変化から、日本の経済危機、生態危機とエネルギー危機が一緒に行う。
そのために、経済政策と産業構造に適切な調整を行うざるを得ない。
この期間中の日本の成長率は5%程度に低下し、一回マウンテンマイナス成長が、その経済は、先進国の第二の生活の下、米国べいこくだけにあった。
二战后,日本经济发展历程
二战后,日本经济发展历程从战败废墟中重建1945 年8 月15 日,日本的侵略战争吃了败仗,在这一天无条件投降。
日本国内由于空袭的破坏,满目疮痍,遍地废墟。
死亡人数有668315 人,其中99.5%是空袭的被害者。
建筑物的毁坏,以当时币值计算,竞达4967000亿日元,占日本国家财富总额的42%。
工业部门的灾害更加严重,日本56种产业的生产设备,仅存水力发电等五种尚具生产能力外,其他产业全部破坏无遗。
由于旧殖民地的丧失,不但生产所需的原材料无法取得,国民的粮食也告断炊。
因此,工人没工做,国民没饭吃,简直是一幅惨不忍睹的战败地狱图。
国民生活首当其冲的是通货膨胀,日银券的发行量,半年之间,由303亿日元,增至615 亿日元,增发了两倍。
物价也就随着涨了两倍以上,万物齐腾。
其最大原因是临时军事费的支出,特别是高级将官以下,军人与军属的退职金占去839 亿日元。
此外,兵工厂和海空军火厂等军需厂的应付帐款,也占去266 亿日元。
为了补偿这些支出,日银才增发了两亿货币发行量。
由于临军费及旧军需厂的支付金过于庞大,造成了战后通货膨胀的金融危机。
遂于1946 年由联军总司令部发布了“金融紧急措施令”,通过这个措施令,企图阻止通货膨胀的蔓延。
为了把战后的日本财政经济重建起来,另外又制定了法人战时营利所得税、个人财产增加税和财产税等三种新税,从财政增收上,限制通货流通量的迅速增大。
另外,防止通货膨胀的有效政策,尚有粮食政策的主要食粮的强制收用,及防止黑市、生鲜食品的再统制规定等措施。
并拟出物价对策要纲,规定煤炭等基础物资的统一价格,建立基准的特价体系。
其他有关国民生活用品的统制令、紧急就职对策要纲等,具体地作出了通货膨胀的种种对策。
当时,吉田内阁的当务之急,便是把防止通货膨胀与物价优先作为最紧要的对策。
其次,便是把生产活动恢复起来,解决超休生产,以挽救工人失业为第一要义。
因此,战后第二年的政府一般会计预算总额,增加到1190亿日元,岁出增加4.1 倍的292 亿日元。
战后日本经济高度成长的原因
战后日本经济高度成长的原因1954年前后,日本完成了战后重建和经济复兴,国民经济中除了进出口以外,已经达到或者超过战前乃至战后的最高指标,它的经济发展已经站在了新的起跑线上。
但是,这个时候的日本家底尚薄,与欧美主要经济国家的差距还很明显。
1955年,人均国民产值日本:269美元法国:1131美元美国:2402美元联邦德国:882美元英国:1057美元但是度过1955年到1970年的经济高度成长期,日本的经济面貌大为改观,1968年,日本的国民生产总值首次跃居资本主义世界第二位,1970年,日本的主要经济指标及其在主要资本主义国家中的位置:国民生产总值:世界第二位出口额:世界第三位粗钢产量:世界第二位钢铁出口量:世界第一位船舶年下水量:世界第一位汽车产量:世界第三位发电量:世界第二位到1970年,日本已经成为公认的第二经济大国。
高度成长的内外条件:战后有利的国际环境:1953年7月,朝鲜战争签署停战协议,在那之后国际政治形势发生了很大的变化,冷战后剑拔弩张的东西方关系走向缓和,在东亚地区,在朝鲜停战以后,迎来了10年左右的安定时期,这对日本的成长是有利的。
1965年2月,美国为了保护其盟友越南政权,遏制共产主义的发展,对越南发动了近十年的战争,耗资巨大。
1973年1月27日,美越两国在巴黎签署和平协议,美军撤出越南。
对日本经济来说,无论是安定的东亚环境,还是在东亚地区发生局部战争,都是一种正相关的影响。
1952年4月,《旧金山对日和约》通过以后日本恢复了独立,同时通过日美《安保条约》在政治上成为美国的盟友和西方世界的一员,1952年5月,日本加入国际货币基金组织和世界银行,1955年9月加入关税和贸易总协定,从而实现了与西方经济的体制性对接。
1956年10月,与苏联关系正常化,12月,日本加入联合国。
在这样一个国际环境中,美国和日本结成同盟关系是非常重要的因素。
这样一个同盟关系,使日美双方获益,但是搭便车的日本是收益更大的一方,这是因为美国提供的安全庇护,使日本可以专心从事经济建设,美国提供的经济优惠,使日本可以大量的引进吸收美国的先进技术和设备,从而迅速的实现产业的结构升级。
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日本战后复兴期から高度成长期までの経済政策及び効果
一.戦後の経済改革
1945年~52年の占領軍の厳格な指令と統制のもとに、日本の民主化を目的とする一連の経済改革が実行された。
これらの改革は厳密な意味では日本の産業政策とは呼べないが、これらの改革こそが戦後日本の競争的枠組みを形成する上で決定的な役割を果たしたのである。
一連の改革のうちで主要なものは、「財閥解体」、「農地改革」および「労働民主化」であった。
二.復興期
日本経済が疲弊しきったこの状況下で政府が採用したのが、1946年~48年の「傾斜生産式」であった。
この生産体制は、限られた輸入原料と政府資金を重要戦略産業に配分することによって、戦後経済の俊敏な再建を図ろうとするものであった。
この傾斜生産方式によって石炭の他産業への割り当てが可能となり、経済再建の過程への速やかな移行が可能となったことは否定できない。
しかし、傾斜生産方式による資源配分は、必ずしも経済効率性を保証するものではなかった。
実際、石炭および鉄鋼の生産拡大は、きわめて高い費用の下にようやく可能となったのであって、政府は高い生産費と低い公定価格のギャップを埋めるため、巨額の「価格差補給金」を供与せざるを得なかった。
それに加えて、復興金融公庫は日銀引き受けによる復金債券発行という方法で資金を得ていた。
傾斜生産方式のこのような金融的メカニズムが深刻なインフレ圧力を生むことは自明であった。
当時は円の過大評価と考えられていた固定為替レートと国内の基礎物資の高い生産費を前提として、資源のより効率的な利用と新規産業の育成を図るためには、なんらかの包括的な措置が必要であった。
この要請に応えて、49年12月に合理化推政策に関する合意を政府,民間企業,労働者間で形成する目的をもって「産業合理化審議会」が通商産業省によって設立されたのである。
これにより、主要な産業政策の策定に先だって民間と政府官僚との間で意見交換が行われることになり、民間主体が非公式な形で政策形成に事前に参加する道が開かれたのである。
さらに、「外貨法」が制定され、これらの法律によって政府は、外貨,輸入割り当て,資本流出入の管理等の直接的統制権限を手に入れた。
こうして確立された規制の枠組みの中で、産業合理化のための様々な試みがなされた。
重要戦略産業の指定を受けた産業内の企業を無差別的に優遇した傾斜生産方式とは対照的に、この時期の産業政策の重点は、対象とされた産業内で技術的優位にある企業を選別的に優遇することにおかれた。
この合理化政策によって生産性は確かに向上したが、デフレーションとそれに伴う非効率的企業の大量倒産、失業率の上昇といった大きな犠牲を払わねばならなかった。
ところが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって、これらの問題は一掃され、繊維、化学、鉄鋼、機械、非金属、木材、の各産業において、輸出、生産、利潤、雇用のすべてが急速に拡大し特需による外貨収入は、国際収支の天井を押し上げた。
長期的な観点からいってさらに重要なことは、この戦争が設備投資と技術革新とを促進する効果を伴ったことである。
特需に応ずるための重化学工業部門の拡大と米軍からの技術供与が、多くの産業に外国技術の導入と生産能力の拡脹;更新の動機づけを与えた。
こうした事情を背景として、戦後日本の産業政策の原型が明確となってくる。
以上のような流れから戦後の廃墟と化した日本経済から力強い離陸を遂げ、高度成長期へとはばたいていったのである。
三.高度成長期
1960年代を通じて、民間設備は投資技術的に刺激されつつ急速な成長を持続した。
この時期はいわゆる「高度成長期」であり、また日本の産業政策の「全盛期」だったともいわれている。
60年代の平均実質成長率は、11.6%であり、わが国の産業構造は第一次産業から第二次産業へ、軽工業から重化学工業へと革命的な変貌を遂げた。
また、高度な技術をもつ大企業からなる先進工業部門と、農業や中小企業からなる後進部門との格差はいっそう広がった。
こうした不均斉な発展を補正するため、政府は農業および中小企業の近代化政策にも着手した。
通産省はまた、民間設備投資、生産分野の調整や企業合弁;事業共同化を推進しようとした。
規
模の経済性を活かしつつ秩序ある競争を作り出すために、各企業には生産分野の調整を行い、生産設備を「合理化」するために公的援助が与えられ、過当競争をさけるための合弁や事業の共同化も推進された。
ここで認識しておくべきことは、貿易と資本の自由化に伴って、通産省が民間企業に対する強力な統制力のほとんどすべてを失いつつあったことである。
事実、輸入数量割り当て、個々の特許;技術導入契約の許認可、日本企業と外国企業との合弁に対する審査;許可など、かつて通産省の行政指導や政策介入の強力な推進手段であった様々な許認可権限が消えつつあった。
こうして貿易と資本の自由化の過程で通産省が多くの統制手段を失うことによって、民間企業の優位性の傾向は次第に強まっていき、直接統制的な態度から助言的,誘導的な態度へと産業政策の新時代へと近づいたのである。
高度成長期の産業政策は明瞭に戦略的産業政策を指向するものであって、それを支えたのは前述の外部効果によるメカニズムであったと考えられる。
この時期の終わりには、通産省も民間企業に対する直接的介入をあきらめ、産業政策の力点は日本経済の望ましい将来像を示して民間企業の協調を促進するために公的補助を与える方向へと移されていった。
この新たな政策の典型は、中期的に日本経済が進むべき整合的で望ましい道程を示そうとした「通産ビジョン」や「計画」の作成である。
これらのビジョンや計画の作成にあたっては、政府の審議会や調査会で様々な分野を代表し委員によって意見が表明され、また計画の整合性がチェックされた。
審議会や調査会のこの仕組みは、産業間の協調と情報交換を促進する制度的枠組みとして有効に機能したと指摘されており、日本における産業政策の最大の貢献をこの制度的枠組みの公的供給に求める見解すら表明されている。
参考文献
《これならわかる日本経済》東洋経済新報社山田伸二2000/4
《日本経済の200年》日本評論社西川俊作他1996/1
《戦後日本経済の50年》日本評論社小浜裕久・渡辺真知子1996/9。