中日文化交流史 答案 最终

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中日文化交流史答案

第一部分

古代篇

第一章縄文文化と大陸文明

1、日本の一番古い文化はなんという文化ですか。

縄文文化。

2、「陸橋」とは、どんなことですか。

地殻変動や海面低下のために大陸や島がつながり、生物が移動できるようになった細長い陸地。

3、岩宿遺跡は誰によって発見されたか。

相沢忠洋と言う人に関東ローム層から発見された。

4、縄文文化の特徴は何ですか。

漁労、採集、狩猟。

5、渡来人とは、どんな人たちですか。

本来日本列島に住んでいなくて、アジア大陸、特に中国大陸より朝鮮半島を経由して日本列島にやってきた人たち。

古代篇

第二章弥生文化と大陸文明(紀元前三百年~三世紀後期)

1、弥生土器と縄文土器の区別はどこにあるか。

縄文土器は縄紋様式を特徴とする土器である。弥生式土器には甕(かめ)、壺(つぼ)、高杯(たかつき)の三種の基本形がある。

2、水稲耕作文化はどうやって日本に伝わったのか。

水稲作農耕文化は、中国大陸を中心に、朝鮮半島から、日本列島へと伝播していった。3、甍、壺、高杯はそれぞれ何に使われるのか。

甕は煮炊き用の日常用品であり、壺はモミを保存する貯蔵用であり、高杯は食べ物を盛るための供献用である。

4、渡来人とは、どうやって何を持って日本に行ったのか。

渡来人は大分中国大陸より朝鮮半島を経由して日本列島にやってきたり、そして南洋諸国と中国長江下流地域から船を乗ってきた。渡来人は青銅器や鉄器技術や、水稲耕作技術やいろの技術などを持ってきた。

5、青銅器や鉄器はいつ頃日本に伝わったのか。それぞれ何の用途があるか。

青銅器は中国の戦国時代の頃日本に伝わったのだ。青銅器や鉄器主に武器に使われて、後に、一部は農業生産にも使われるようになった。

6、徐福の東渡を述べなさい。

秦の時代に中国人の徐福が数千人を率いて日本に行ったのである。中国の江蘇省連雲港か

ら日本の和歌山県にある新宮市に到着した。その他に遼寧省の大連港からと浙江省の寧波港からの言い方もある。

1、七年後、徐福は何も成果がなくて中国に戻ってきた。秦始皇は大変怒ってしまった。徐福を処罰しようと決心したが、徐福がそれを知ってどこかに隠居してしまったそうである。上記は一種の伝説である。

2、徐福は日本に着いてから、日本朝廷から大きく歓迎されて、高い待遇を得られて、とうとう仙薬を求めることを忘れて日本での富裕な生活に満足し、仙薬がなくて国に帰って処罰されるより、むしろ、日本に残って生活しようと決心を下した。

3、徐福は国に帰って、秦始皇に海で難破したので日本に到着できなかったと、九死に一生だと訴えて、秦始皇の同情を得て、処罰を受けられなかった。しかし、秦始皇から二回目渡日を要求され、二回目に渡日した。今度は前回のように仙薬がないと嘘をついてはいけないということが分かって、また、日本朝廷の熱心に引き止められて、日本に残って生活しようと決心した。

7、弥生文化の特徴は何か。

弥生文化は渡来人により作り出した文化で大陸文明を伝え、一種の大陸文化を作ったのである。非常に中国文化に似ている「外来文化」とも言われている。

古代篇

第三章大和朝廷と中国の往来(三世紀後期~六世紀中期)

1、「楽浪」は、現在のどこですか。

今の平壤一带。

2、大和朝廷の統治者は誰か。

雄略天皇

3、三国鼎立の「三国」とは、どの三国か。

朝鮮半島の高句麗、新羅と百済三国だ。

4、渡来人の傑出代表の三氏族はどの三氏族か。

秦氏、漢氏、文氏という三氏族だ。

秦氏一族は、養蚕や機織に長じて、その技術を日本に持って行き、日本人に教え、絹織りの生産を高めた。また、秦氏一族は、農耕もし、彼らが住んでいる京都盆地では農業生産が発達していた。他には、建築や土木もお得意だった。

漢氏は5世紀初頭頃に百済から日本列島に移住したという。彼らの得意な分野は、工芸技術面であった。例えば、鉄器鋳造、皮革加工・金銀細工などの各方面で活躍していた。

文氏は、彼らは日本に来て、大和朝廷の文筆、外交、戸籍編集などの重要な職務を担当していた。

5、日本書紀はどんな書物か。また、何時、誰によって書かれたのか。

日本書紀は六国史(りつこくし)の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神

代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人(とねり)親王らの撰。日本紀。

6、倭国五王はどの五王か。その名前を言いなさい

倭国五王は讃、珍、済、興、武と五人いるのだ。

讃:履中天皇珍:反正天皇済:允恭天皇興:安康天皇武:雄略天皇

7、漢字は何時、誰によって日本に伝わったのか。

最初伝来してきた時期は、弥生文化の中期にあたったであろう。つまり、約4世紀の時渡来人たち伝わってものだ。

古代篇

第四章隋代の中日文化交流(六世紀後期~七世紀初期)

1、推古朝の実際の統治者は誰か。

聖徳太子

2、飛鳥文化の特徴は何か。

飛鳥文化の特徴は、仏教文化と大陸文化と言えよう。聖徳太子の努力で、推古朝の時、仏教は日本人にたいへん喜ばれていたからである。そして、飛鳥文化は中国からの大陸文化を吸収した。

3、聖徳太子の功績は何か。

一つは遣隋使を派遣した、

二つは「十七条憲法」、

三つは冠位十二階

4、遣隋使は前後何回続いたか。

聖徳太子が摂政の地位にあった十五年間には、それぞれ六〇〇年、六〇七年、六〇八年、六一四年、合わせて四回も遣隋使を派遣した。

5、冠位十二階と憲法十七条を述べなさい。

聖徳太子は推古十一年(603)に冠位十二階を制定した。こうして、朝廷に仕える官吏の位の上下を定め、位に応じて十二階の冠を授ける。更に、冠位十二階制定の翌年である推古十二年(604)、「十七条憲法」を制定した。十七条憲法には枚挙にいとまなしと言える。さらに、その内容を見ると、諸豪族・官吏の勢力を抑え、天皇の権威を樹立しようとする意図がはっきり見える。

6、国書事件はどんなことか述べなさい。

六〇七年の第二回目の遣隋使に、有名な「国書事件」が起きたのである。小野妹子が隋朝廷に提出した国書には、「日出づる(いづる)処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無き(つつがなき)や」という文があったことから、隋よう帝の不快を買った。これが、日本側には前の倭国五王時代の中国南朝における臣と称して爵号を乞う態度と比べると、大きな違いが見えた。つまり、中国の冊封じ体制から脱却し、隋と対等の立場で交渉を行おうとする意志を示すものと見られる。

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