现代日本语(第三册)

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第十四课 原子力発電
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げんしりょくはつでんのぜひをめぐって、さまざまなぎろんがたたかわされている。「スリーマイルしまやチエルノブイリのようなだいじこがまたおこりはしないか」、「げんはつはほんとうにせきゆのだいたいエネルギーなのか」、「げんはつがないとでんりょくはじゅうぶんにきょうきゅうされないのか」、「げんはつとせきゆかりょくはつでんとでは、かんきょうおせんという点ではどちらがましなのか」とうとう。
これらは、いずれもじゅうようなろんてんだが、ここでは、げんはつがもたらすほうしゃせいはいきぶつのもんだいについてかんがえてみよう。
ほうしゃせいはいきぶつとは、げんしりょくはつでんをおこなうときにしょうじる、ほうしゃのうをおびたゴミのことである。ほうしゃのうおせんしたいふく、ぬの、きぐなどのていれべるのほうしゃせいはいきぶつをみっぺいしたどらむかんがまいねんすうまんほんずつたまっていく。これらのどらむかんは、ほうしゃのうがもれるおそれがあるので、うみにすてるわけにはいかない。ほうしゃのうがじゅうぶんよわくなるまで、かんりしつづけねばならないのだ。そのうえに、30~50年と言われるたいようねんすうがきてはいろとなったげんはつそのものが、きょだいなほうしゃせいはいきぶつとなる。
さらにやっかいなのは、ねんりょうであるウランをもやしたけっかしょうじるプルトニウム239などのじんこうてきなげんそである。プルトニウム239は、わずか1gで4000万のけんこうをがいするおそれがある、と言われている。このそうぞうをぜっするほどのどくせいをもったげんそが100万キロワットげんしりょくはつでんしょからねんかん250kgもせいせいされるのだ。しかも、プルトニウム239のほうしゃのうはんげんきは23400年、じんたいにとってきけんでなくなるには100万年もかかる。
30~50年のかん、げんはつからでんきエネルギーをうるだいしょうとして、われわれは、もうどくのほうしゃのうをしそんに100まんねんかんもかんりさせようとしている。ひたすら、より多くせいさんし、よりかいてきにしょうひしようとしている、われわれの社会は、ほんの目先のことしか考えていないように思える。子供たちの時代の社会がどうなっていくのかということにさえ、われわれはそうぞうりょくをはたらかしていないのではないか。
それん、フランスとならんで

「さんだいげんはつすいしんこく」と言われている日本では、とうめんのことしか見ようとしない「きんし」のげんはつが、1990年げんざい、39き(3054万キロワット)かどうしている。



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第十五课 よろしく
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日本人はいたるところで「よろしく」を連発する。年賀状にはきまって、「本年もどうぞよろしく」と書き、知人になにか頼むときにも、「よろしく」といって頼む。慣用語、あるいはあいさつ語だといって聞き流せばそれまでだが、そう言われて誠実に相手の頼みにこたえようとすると、「よろしく」の意味がわからなくなる。「よろしく」というのは、「よろしく心を配ってほしい」ということであろう。頼み事をするほうは、具体的な要求をはっきり示して頼むと相手が迷惑するだろうから、めいわくがかからないように、相手のできる範囲内で力を貸してほしいと、その範囲を相手に任せているわけである。したがって、「よろしく」という言葉の意味は、「お志だけで結構です」ということにちがいない。しかし、そう言われると、頼まれた相手は具体的な要求を出されるよりも、もっと迷惑するのである。
「よろしく」とは、前記のように、一切の判断を相手にゆだねた依頼の言葉である。だが、もしもその相手が自分とまったく異なる情報環境の住人—習慣やものの考え方を異にする世界の人間であったならば、こんなふうに相手の判断に任せるわけにはゆくまい。どのような処置をされるか見当がつかないからである。だから「よろしく」は外国人に対して使えない。いや、同じ日本人同士であっても、相手が異国にいるような場合には、神通力を失ってしまうのだ。げんに私は「よろしく」と頼まれて大いにとまどい、思いなやんだ経験がある。
パリに半年ほど滞在していたときのことだ。「僕の知人のA氏がパリへ行く。よろしく」という手紙を友人から受け取ったのである。私の友人は気軽にそう書いてよこしたのだが、いったい「よろしく」とは何を要求しているのか、こちらにはさっぱり見当がつかない。空港まで出迎えてほしい、というのか、一度ぐらい食事を共にしてもらえまいか、というのか。私はさんざん思いなやんだすえ、具体的に頼まれない限り、何もしないことにした。そのような判断までこちらにさせるというのは--冗談ではない、あまりにもあまえすぎであり、虫がよすぎる、と思ったからだ


「よろしく」という言葉は一見、相手の意志や判断を尊重する言い方のように思える。しかし、よく考えてみると、それは責任を相手にかぶせることによって、自分の責任を逃れようとする呪文ではないか。どのようなことであれ、判断をくだすということは、それなりに努力を必要とする。あれこれ考えることは、たいへんめんどうなことなのである。そのめんどうな思案を投げ出して相手に押し付けることは、ときには無礼にもなりかねない。日本の敬語法においては明確な言い方を避け、間接的で断定しない表現がとられるというが、それはしばしば相手を尊敬するというより、相手におんぶするいんぎん無礼、すなわち、表向きは丁寧で、実はこの上ないあつかましさに通じているのだ。「よろしく」とは、言いかえれば、「よきにはからえ」ということである。「よきにはからえ」などというのは殿様が家来に対して命じる言葉であり、横柄な要求以外の何者でもないのである。

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