“琳派”绘画的始祖:尾形光琳
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“琳派”绘画的始祖:尾形光琳
编辑点评:尾形光琳是日本江户时代的画家,被誉为“琳派”之祖。
他的作品以大屏风的装饰画最为著名,其作品《红白梅图屏风》是日本的国宝之一。
直到现在,他的风格还带给日本的美术、工艺领域极大的影响。
尾形光琳は、後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家だ。
主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。
その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザインなどに与えた影響は大きい。
画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。
大画面の屏風のほか、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。
尾形光琳是以装饰性大画面为拿手戏的画派——“琳派”的代表画家。
他主要以京都富裕的町众为顾客群,一生研习王朝文化时代古典,同时也留下了许多明快的装饰作品。
他在构图设计上的非凡才能甚至产生出了“光琳模样”这个词语,一直到现代,日本的绘画、工艺、设计领域都受其深厚的影响。
光琳的画风主要以大和绘风为基调,不过晚年时也创作了一些水墨画作品。
除了大画面的屏风以外,他还留下手绘的小袖、莳绘等作品。
红白梅图屏风
尾形光琳は京都の富裕な呉服商「雁金屋」の当主、尾形宗謙の次男として生まれた。
光琳の生没年は1658(万治元年)~1716年(享保元年)。
5年遅れて、陶芸家として名高い弟、乾山が生まれている。
雁金屋は、祖父宗伯の頃には宮中御用を務めるほどで、京でも揺るぎのない富める商人であった。
物心ともに豊かな環境に生まれ育った光琳は、幼いときから父に連れられ、二条関白家をはじめ公家の屋敷にも出入りし、よく能の相手を務めたという。
豊かな情操の世界に遊んだ少年時代、後に花開く光琳の天分は、こうして蓄積
されていった。
尾形光琳出生于京都富裕的吴服商“雁金屋”,父亲是“雁金屋”的当主尾形宗谦,光琳是他的次子。
光琳的生卒年为1658年——1716年。
光琳的弟弟、以陶艺家闻名的乾山后他五年出生。
雁金屋在京都是颇有权势的富商,在祖父宗伯的时候甚至承担了宫中的事务。
光琳从小在文化浓厚、衣食无忧的环境中长大,从幼年时,他就在父亲的带领下出入二条关白家等公卿的宅邸,常常为他们表演能乐。
少年时代的光琳畅游在丰富的文化世界里,他后来绽放出的天分也就是这样积淀而成的。
光琳が30歳の時、父宗謙が死去。
光琳の兄が家督を継ぎ、光琳は二つの家屋敷と能道具一式、それに大名などへの貸付証文などを譲られ、金利生活者として一生を送ることのできる保証を得た。
しかし、彼は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を使い果たし、弟の乾山にも借金するありさまだった。
光琳が40歳になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的困窮が一因だった。
30岁时,父亲宗谦死去,光琳的哥哥接下了当主之位。
而光琳继承了两套住房和一套能道具,此外还得到了大名的借款契纸,他靠着这些利息过一生都是没问题的。
然而,光琳却每日沉溺玩乐,很快就用完了自己继承的那部分庞大财产,甚至到了向弟弟乾山借钱的地步。
光琳在40岁时开始从事绘画,经济方面的窘迫便是其中一因。
画家として立った光琳が常に思い浮かべるのは、呉服商だった生家、雁金屋の店先の華やかな打掛・小袖などの呉服の数々だった。
この「美しきもの」が、少・青年期の彼の美意識の成長に大きな影響を与え、一生の拠りどころになったであろうことは容易に想像できる。
在成为画家的光琳的脑海中,常常会浮现自己出生的吴服商家“雁金屋”店前摆放的那些打挂、小袖等各种吴服。
不难想象,在他的青少年时代,这些“美妙之物”对光琳的审美感的形成产生了重大影响,成为了他一生事业的基础。
1701年(元禄14年)、44歳の時、光琳は「法橋(ほつきょう)」に叙せられた。
ようやく画家として世に認められた光琳だったが、能や茶の湯や音曲に日々を送り、遊里に通い詰める放蕩三昧の日々が続く。
この頃には父より譲られた屋敷はすでになく、家宝を質入し借財も多かった。
彼にとって快楽の追求は美の追求であり、親の遺産を食い潰し、食い潰すことを糧とする創作生活だった。
この時代、芸術と称するものは公卿や武門の名家の貴族が育てた伝統だったことは確かだが、光琳の芸術は非常に貴族的であると同時に、その貴族を逆に眺め返している。
商人としての本当の生活的なポイントから睨み返しているという要素がある。
だから、いわゆる庶民的なバイタリティーを持つと同時に、貴族的な教養が絢爛として彼の血の中に流れているというわけだ。
1701年(元禄14年),44岁的光琳叙任“法桥”,终于作为画家得到了世间的认可。
然而,他依然每日沉浸在能乐、茶道、音乐里,又时常出入妓馆,生活放荡不羁。
此时,他已经失去了父亲传给他的房子,家中宝物拿去当掉,借款也多了起来。
对他来说,快乐的追求即是
美的追求,挥霍家产、一掷千金被视为创作生活的食粮。
在这个时代,被称为艺术的东西一般是公卿或武门名家中培养成的传统,而光琳的艺术一方面有着浓厚的贵族趣味,另一方面也从反面审视贵族的文化,具有从商人的真实生活性趣味出发进行审视的要素。
因此可以说,他既拥有庶民的蓬勃生气,血液里也流淌着贵族的丰富教养。
年号が宝永と改まった頃、光琳は江戸へ下向している。
もう50歳近い。
当時の江戸の人口は100万人。
元禄前後の50~60年間に大名貸しの貸し倒れで破産した京の商人は50を数え、光琳の生家、雁金屋も破産した。
江戸に迎えられた光琳は大名酒井雅楽頭の扶持を受けながら、制作に励む。
しかし、江戸は光琳にとって、必ずしも居心地のよい場所ではなかった。
やがて、50歳を超えた彼は京へ戻っていく。
江戸は権力の中心であって、芸術の中心ではなかったのだ。
在“元禄”年号更为“宝永”时,光琳离开京都前往江户,此时他已接近50岁。
当时江户的人口达到了100万人。
在元禄时代前后的50到60年中,由于收不回借给大名的钱款,京都的商人纷纷破产,数量达到50家,光琳的老家雁金屋也在其中。
被邀请到江户的光琳得到了大名酒井雅乐头的资助,一心埋头创作。
可是,江户对他而言,却并不是一个舒服的地方,
这里是权力的中心,却不是艺术的中心,不久,超过50岁的光琳又再次回到了京都。
彼の二大代表作「紅白梅図屏風」と「燕子図屏風」の大作が、いずれも元禄も終末を迎えた頃から、さらに宝永・正徳と時代が下る晩年の作であることを思えば、この二点の作品は、光琳の晩年を飾るにふさわしい。
光琳的两大代表作为“红白梅图屏风”和“燕子图屏风”,两个都创作于元禄时代末期到宝永正德时代,是他的晚年作品,这样看来,这两个作品正适合为光琳晚年增添一丝风采。