日本佛教世俗化话(2)

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从戒律演变看日本佛教的世俗化

从戒律演变看日本佛教的世俗化

从戒律演变看⽇本佛教的世俗化佛教从中国传到韩国,再经韩国传⼊⽇本,最初戒律混乱。

因此,才有⽇本邀请中国的鉴真⼤师东渡⽇本传授佛法和戒法。

鉴真本⼈正是中国律宗传⼈。

鉴真和尚传来律宗以后,在⽇本全国设有三处戒坛,当时⽇本僧⼈必须在这三处戒坛受戒后⽅可出家。

然⽽,由于⽇本天台宗开祖的最澄⼤师在⽐睿⼭开设了⼤乘戒坛,就形成了⽇本僧⼈在⽐睿⼭仅受菩萨戒也可出家的情形,从⽽开始出现不持⽐丘戒但持菩萨戒的僧⼈。

从此,开辟出⼀条“⽆戒律之佛教”的道路。

到了13世纪鎌仓时代,以在⽐睿⼭出家或参学过的⽇本僧⼈为中⼼。

到了明治时代,1872年政府公布了“从今往后,僧侣⾷⾁、娶妻、蓄发等悉听尊便”的“太政官令”,取消了⼀切政治制约,实⾏宗教⾃由化政策。

这样⼀来,⽇本各宗僧侣竟相效仿净⼟真宗,⾷⾁娶妻成为普遍、正常的事情、也成为了主流。

当时,曹洞宗内部虽然有过把清净僧和世俗僧加以区分的争议,但是1902年在制定《曹洞宗宗制》时,把禁⽌娶妻的条⽂删除掉,致使现在主持的家族、妻⼦、弟⼦作为“寺族”,⼀般居住在寺院⾥与主持共同⽣活。

现在⽇本佛教⼀般被认为是“没有戒律的佛教”,除了中国鉴真⼤师东渡⽇本所建⽴的唐招提寺、临济宗禅堂的师家等极少数僧⼈外,⼏乎所有⽇本僧⼈都不持⽐丘戒⽽⾷⾁娶妻。

寺院主持,⼀般都是在寺院⾥与家⼈共同⽣活,⽽主持的孩⼦就是寺院的继承⼈。

这种寺院的家庭化、寺院主持的世袭制是⽇本佛教的普遍现象。

这些⾷⾁娶妻的⽇本僧⼈有点⾮僧⾮俗,实质上与在家居⼠性质⽆异,但他们却是以出家僧相来主持佛教。

在⽇本接触的僧⼈都是有家室的,很多都携带夫⼈来参加活动,⼀个⽇本僧⼈还拿出⼿机⾥作为背景的⼥⼉着和服的照⽚给我看,以她美丽的⼥⼉为骄傲。

⽇本⼥性也喜欢嫁给和尚。

和尚有社会地位,经济条件较好,⽣活环境优美,还可以学习佛教和某种程度的修⾏,这种情况现在正越来越成为⼀种时尚。

僧⼈有家室在中国似乎是难以被接受的,⼀般中国信徒看来,僧⼈携带家室不受戒律,似乎缺少了出家⼈的神圣性和清静感,与俗⼈⽆异。

佛教在日本的传播

佛教在日本的传播
在漫长的本土化历程中,佛教作为日本社会的主流 意识形态,不仅与国家政治生活有着密切的联系,更 对当时及后世的社会和文化产生r广泛深远的影响。
这一时期的佛教呵以说是在本质上与民族宗 教并无区别的巫术仪式,可以称之为“巫术宗 教”
(在这一时期,极少人能如圣德太子般正确理解佛教 教义,佛教在当时的日本与其说是作为解脱的说教, 毋宁说被视为一种外来的、与本土的“国神”相异的 “他神”“蕃神”,是“以消灾祈福的巫术而传播 的”。)
二、佛教的持续发展
在此背景下,从中国刚刚传人的两个重视教义理论和修行实践 的佛教宗派——天台宗和真言宗受到朝廷的重视,并迅速崛起。
由于受本土文化的影响,日本天台宗、真言宗都带带有咒术、 祈祷的特征,并且有许多事相与民族传统信仰的神道教仪式暗合, 因此,具有浓郁的神道教色彩,进一步加快了佛教的本土化进程。
四、民族佛教的形成
• 一、佛教东渐及早期的传播
• 学术界就佛教传入日本的具体时间、具体方 式说法不一。但总起来叮以分为“公传”和 “私传”两种。
• “公传”,是指佛教通过朝廷传人,关于“公 传”,虽然具体说法略有不同,但总体来说 可以认为:佛教在钦明天皇时期,即6世纪中 叶传人日本;传人方式为百济圣明王派使者 将佛像、佛经传入日本。
(二)“神佛调和”的特性 初传时期,佛教曾遭遇到本土信仰神道教的短暂
排斥,但随着佛教的广泛传播和日益发展,两者之间开 始友好相处、相互调和。
(三)教义、教理及修行方式的简化 “与印度、中国的佛教相比,日本佛教的哲理和
思辨程度不发达,重内心的信念、修行方法简单便 成为日本佛教的特点”凹。这一特点始终贯穿在日 本民族佛教的形成阶段。
(四)世俗化倾向 大化革新后,佛教获得了“国教”的地位,僧

おくのほそ道

おくのほそ道

月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。

舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。

古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。

よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず。

ももひきの破(やぶ)れをつづり、笠(かさ)の緒(お)付(つ)けかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移(うつ)るに、草の戸も住替(すみかわる)る代(よ)ぞひなの家面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱(はしら)にかけ置(お)く。

弥生(やよい)も末(すえ)の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士(ふじ)の嶺(みね)かすかに見えて、上野(うえの)・谷中(やなか)の花の梢(こずえ)、またいつかはと心ぼそし。

むつましきかぎりは宵(よい)よりつどひて、舟に乗(の)りて送る。

千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途(せんど)三千里(さんぜんり)の思い胸(むね)にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別(りべつ)の泪(なみだ)をそそぐ。

行(ゆ)く春や鳥啼(なき)魚(うお)の目は泪(なみだ)これを矢立(やたて)の初(はじめ)として、行(ゆ)く道なを進まず。

人々は途中(みちなか)に立(た)ちならびて、後(うし)ろかげの見ゆるまではと見送(みおく)るなるべし。

日本宗教

日本宗教

日本宗教概论
日本人在除夕夜时,会前往佛寺听108下钟声,在钟声完毕之后,大 家又会前往神社进行新年的初拜。
PART
日本佛教
日本佛教简介 日本佛教北传佛教之一,从西域三十 六国传入唐朝,再经唐朝传入日本,已有 1400余年的历史。 日本在统计上约约7万5000座寺院、 30万尊以上的佛像。世界最古老的木造寺 院法隆寺,以及最古老的佛典古文书都保 留在日本。 现在日本佛教的概略,根据文化厅编 纂的“宗教年鉴”等统计,现在日本的佛 教徒大半属于镰仓佛教。净土宗系的宗派 和日莲宗系的宗派占绝大比例,以大乘佛 教占大多数。
日本佛教历史
佛教进入日本后的早期传播并非一帆风顺。 日本本土宗教———神道教以及朝廷内部利益 对立的政治集团的斗争都给佛教的传播设置了 层层障碍。 与注重现世生活的享乐、具有咒术性质的 泛神信仰——— 神道教不同, 佛教的根本义蕴 “在于它的人生观, 在于它对人生的独特价值判 断, 即以为人生的意义是苦 , 人生的理想在于断 除现实生活所带来的种种痛苦”。 佛教所宣传的消极厌世思想, 世事皆“空”、 放弃今生以求来世的主张, 都使得它在传播之初 难以得到日本社会的认同。
日本宗教
目录
01
日本佛教
日本宗教概论
02 03
神道教
总结与分析
04
PART
日本宗教概论
日本宗教概论
日本的主要宗教为佛教和神道教 ,大多数日本人声称自己 为无神论者,在公共场合和人际交往中鲜有人表现出对宗教的 强烈信仰,但日本人一般怀有一种朴素的对先祖的崇拜感,因 此佛教和神道教中的许多礼仪和活动也已经融入大多数日本人 的日常生活中,例如除夕夜的佛寺敲钟活动和元旦当日去神社 初拜。 自日本在二战中战败后,来自西方的基督教中的许多活动 也逐渐在日本本土盛兴开来,现在有许多年轻人在结婚时都喜 欢西式婚礼。

日语中的雅语、俗语

日语中的雅语、俗语

俗語 対 原意 でっかい → 大きい (促音化) みみっちい → けちくさい (促音化) ぞっこん → しんそこ (促音化) うっちゃる → なげすてる (拗音化) ひゃっこい → つめたい (拗音化) 撥音化:とんちんかん、あんぽんたん、ちゃんばら、 ちんぷんかんぷん 擬音・擬態化: でれでれ → だらしない でんと → どっしり ちょくちょく 时常,往往 因此,俗语具有特有的表现力以及卓越的表现效果。
二、当在隐语中使用时,通过语形的转 换和省略形的使用,增强语言的卑俗性;
でか (「角袖」的倒语省略)日本刑警(便衣) ねた (「たね」的倒语)新闻报道的材料 どや (「やど」的倒语)简易旅馆 ぶんや 新闻记者
三、俗语以接头词、结尾词来表达 率直的感情 接头词: くそまじめ ふんだくる ぶんなぐる べたつく おっかける 结尾词: ふるくさい 油っこい あまったるい
俗语与雅语、普通语在语性上有很大的 差异,特别是俗语在语形上有显著的特征, 分别为以下三点: 一、通过语形、声音的变化,使语言世俗化; 俗語 対 原意 あにい → 兄 (語形のくずれ) かれし → ボーイフレンド (語形のく ずれ) てめえ → あなた (音なまり) うるっせい → うるさい (音なまり)
上述通过语形的变化,使俗语更具表现效 果。一般来说,俗语常在一些比较粗俗、 污秽的语言中出现,甚至出现的谩骂的 语言中。 但是,俗语也有其特殊的魅力,在一定的 场合中,能够体现说话者爱憎分明的感 情,给人以痛快的感觉,也可以体现出 与同伴之间的亲近感与亲爱感。
雅语从很久以前开始就被认为是一 种优雅的、格调较高的语言。在和 歌之中被广泛使用。
在和歌及连歌中所使用的一种富含 分。
同时,雅语还具有书面语的特性, 常被使用于正式场合。

ある时、人生の师と仰ぐ方から伺った言叶を今も鲜やかに

ある时、人生の师と仰ぐ方から伺った言叶を今も鲜やかに

「地域を活かす情報」Opinionグローカルな時代の情報と市民国際企業文化研究所所長大脇準一郎e-mail; junowaki2002@ybb,ne.jp http://studyup.jp/~h12123/mirai Tel&Fax;0422-71-1160 Consultants Oct.2002,‘02No.217, JCCA(社)建設コンサルタンツ協会1.本物の生きる力をつける教育ある時、人生の師と仰ぐ方から伺ったこの言葉を今も鮮やかに思い起こす。

「人の心を知・情・意と言うだろう。

“情”は心が青いと書くように、いつも瑞々しい新鮮な刺激を受けながら喜んで生きることが大切。

だが、ただ喜んで生きているだけでは発展が無い。

“知”は、口に矢と書くように現地点から目標である的に向けてどのようにそこへ辿りつくか、論理的筋道をつけるのが知であるが、あれが良い、これが良いと考えているだけでもだめだ。

“意”と書くように思いを心に留め、目標に向かって決心して行くことだ。

人生とは簡単だよ!要するに、喜びをもって(情)、いろいろ考えながら(知)理想を目指して、行く(意)ことだよ!」景気が低迷を続ける中、最近、日本の経営能力の国際評価が,がた落ちし、話題となっている。

この時期、経営面における日本の国際競争力を底上げするべく、今秋、立ち上げるナレッジMBAコースのプロジェクトに私も携わっているが、企画段階で最大の焦点となったのは、新しい知の概念確立であった。

日本の将来に本物の生きる力をつける教育が無いことを憂えた故草柳大蔵氏は、遺稿「教育論」で述懐している。

『これからは学歴なき学力、学習能力が世間を渡っていく標準となる。

学力とは自分の力、自分をどう創り、どう売り出して行くかであり、人にはそれを教えてくれる環境が必要である。

その第1番は家庭だが、日本にはそれがあるか?「いかなる国家も、善良なる家庭生活を有する間は崩壊せず」私はこの言葉が日本教育最高の、最後の選択になるような気がしてならない。

日本の庭园(にほんのていえん)

日本の庭园(にほんのていえん)

日本庭園日本庭園(にほんていえん)とは、日本の伝統的な庭園である。

和風庭園(わふうていえん)ともいう。

目次∙ 1 特徴∙ 2 庭園史o 2.1 平安期以前o 2.2 平安期以後o 2.3 中世o 2.4 近世o 2.5 近現代∙ 3 日本三名園∙ 4 著名庭園o 4.1 中世o 4.2 近世o 4.3 明治・大正期o 4.4 昭和期∙ 5 日本国外への影響∙ 6 関連項目∙7 参考文献∙8 出典∙9 外部リンク特徴日本庭園は寺院にあるものや、大名屋敷の庭園(庭園跡)などがあり、そのほかでは近代日本の政治家・実業家の邸宅(邸宅跡)の他に、公共施設やホテルの敷地に造られたものもある。

構成としては池を中心にして、土地の起伏を生かすか、築山を築いて、庭石や草木を配し、四季折々に鑑賞できる景色を造るのが一般的である。

滝を模し水が深山から流れ出し、大きな流れになってゆく様子を表現する手法や、石を立て、また石を組合せることによる石組表現、宗教的な意味を持たせた蓬莱山や蓬莱島、鶴島、亀島などに見立てる手法が多く用いられる。

庭園内には灯籠、東屋(あずまや)、茶室なども配置される。

また枯山水と称される、水を用いずに、石、砂、植栽などで水流を表現する形式の庭園も作られた。

白砂で水の流れを象徴するところに特徴があるが、これは庭園には水が不可欠のものであるという考えがひそむ。

庭園のことを山水といったのもそのためである。

室町時代以降には枯山水は禅宗の思想と結びつき、禅寺などで多く作られていく。

江戸期以降になると庭園内のみならず庭園外の景色を利用する借景という手法も広く用いられる。

日本の庭園様式の変遷をひもとけば、建築様式の変化や大陸からの宗教や思想の影響が庭を変化させている。

磯崎新は日本の庭園が特に海などをメタフゔーにすることにつきるように思われるのは「見立て」というメタフゔー発生装置を作り上げたためだと述べている。

作庭記の記述も池泉やそれらを表現するための石組みなどでもうみなど、自然をメタフゔーとして表現し、見立てによって縮景を行う作庭手法を伝聞する。

日本型グリーン·ツーリズムの特质と地域的展开

日本型グリーン·ツーリズムの特质と地域的展开

問題の所在本稿の目的は,長野県旧四賀村1)におけるクラインガルテン(滞在型市民農園)事業を事例として,日本型グリーン・ツーリズムが展開される過程と要因を明らかにすることである。

グリーン・ツーリズムとは農林水産省の定義によれば,「『緑豊かな農山漁村地域において,その自然,文化,人々との交流を楽しむ滞在型の余暇活動』,ひとことでいえば,『農山漁村で楽しむゆとりある休暇』」(青木1995:16)ということになり,農業政策や地域開発政策の文脈において国家政策として推進されてきた2)。

しかしその一方で,これまでのグリーン・ツーリズム研究は,グリーン・ツーリズムを農山村の内発的発展を試みるものとして捉え,都市農村交流の意義について論じてきたところにその特質を見出すことができる。

そこで本稿では,地域開発政策の延長線上に位置する国家政策としての農山村政策でありながら,地域内の諸主体による主体的な参加と連携をその内部に包摂しながら展開されるというグリーン・ツーリズムの特質に着目し,これを日本型グリーン・ツーリズムの特質と地域的展開(宮下聖史)109『立命館産業社会論集』第42巻第3号2006年12月日本におけるグリーン・ツーリズムは主に1990年代以降,農山村政策として政策的に推進されてきたが,一方で農山村における主体的で都市住民との対等な立場での事業展開が求められるという特質を持っている。

本稿の目的は,長野県四賀村で実施されているクラインガルテン(滞在型市民農園)事業を事例として,日本型グリーン・ツーリズムが展開される過程と要因を明らかにすることである。

四賀村では,荒廃農地対策や有機農産物の産直を通じて生じた都市住民との交流を契機として,クラインガルテン事業を導入した。

四賀村のクラインガルテン事業が展開される要因として,第1に,村長の強力なリーダーシップにもとづく村行政の役割があったこと,しかし第2に「田舎の親戚」制度の創設や各種イベントの開催によって,都市農村交流の回路が用意されていたこと,第3に,都市農村交流によってガルテナー(都市住民)というよそ者の視点,価値観が影響を及ぼしたことがあげられる。

浅析日本佛教与中国佛教的区别与联系

浅析日本佛教与中国佛教的区别与联系

浅析日本佛教与中国佛教的区别与联系作者:严雨薇来源:《新生代·上半月》2019年第04期【摘要】:我国在古代历史上,文化及科技等各方面一直属于较为发达和先进的国家,尤其是文化对周边的国家有着深刻的影响,在汉代文化影响力较强,被日本民族吸取相关知识和文化精髓。

尤其是佛教是在汉朝时期传入中国的,至今已有两千多年历史。

日本佛教受中国佛教重大影响,发源于中国,属于北傳佛教,但却表现出一些不同特点。

佛教与日本当地的文化相结合,形成了较为有本土特色的佛教文化传承。

【关键词】:日本佛教中国联系区别文化所谓佛教,因是佛陀所说之教而称为佛教,因讲说佛的本质法而称为佛法,又因讲说成佛之道而称为佛道。

佛教是佛法,是佛道。

三者合一,是为佛教。

在这中间,全部有情众生都能成佛(觉醒之人,觉悟者)的教诲,是最重要的。

中国和日本的佛教联系较为紧密,这是有复杂的历史渊源的。

538年或552年(有两种说法)一尊佛像被人从朝鲜半岛的百济带入日本朝廷,成为佛教正式传入日本的标志。

但是,日本佛教宗派是在中国佛教宗派的影响下形成发展的。

日本和中国的佛教发展,可谓“如影随形”。

中国佛教是日本佛教的母体。

日本佛教与中国佛教在信仰这个点上是一样的,而在实际存在方式上却表现出种种不同。

日本和韩国的佛教,均发源于中国佛教;约从唐代开始,陆陆续续传入东亚及周边诸国的。

从两国的佛教文化共同性上看,宗派和规章制度基本是一样的。

思想理论也是统一的。

唯一一个很大的区别,在于日本有一个自己的佛教门派,净土真宗。

净土真宗是日本战国时期兴起流行的佛教门派。

他信仰一个称为他力本愿的宗旨。

就是说自己修炼为本愿,他力指的就是佛祖的恩典。

但正如佛教在我国得到“本土化”的发展一样,传入日韩等国的佛教流派也随着其本土文化及历史的差异而发生着演变。

比如在佛经的解读和戒律的传承上,甚至于有大相径庭之感。

佛教与日本传统文化及其传统宗教习俗进行融合以全新的姿态出现在日本社会中,并逐步深入到日本社会各个阶层。

日本世俗化的“道”——茶道、花道

日本世俗化的“道”——茶道、花道

日本世俗化的“道”——茶道、花道“道”在儒教文化里是指天地间的至理,所以中国人总是抱着一种神圣崇拜的心情论道,却极少有人敢声称自己已经“得道”,以至于连圣人孔子都感叹:“朝闻道,夕死可矣”。

和中国人相比,日本人得“道”似乎要容易得多,这是因为他们将“道”世俗化了,将其看作自己创造的生活艺术和精神体系。

当今日本传统文化中拥有花道、茶道、剑道、书道、拳道等众多道术。

其中茶道和花道堪称日本文化的“双壁”,不仅成为日本文化的骄傲,而且受到外国人的青睐。

茶道按照史学界公认的说法已有500年的历史。

但如果追究日本茶道的渊源却远远不止500年。

以茶飨客本是中国的古老习俗,自古有待客“无茶不成敬意”之说。

隋唐时饮茶之俗传入日本,公元729年,日本圣武天皇曾举行“引茶”仪式,向僧侣赐茶。

日本人逐渐得到茶树种植和茶叶的炮制技术,饮茶逐渐成为上层社会乃至有闲阶层的日常享受。

到了宋代,日本人把从中国引入的“斗茶”风俗改造成“和式赌戏”。

在专设的茶室里,窗明几净,茶具考究,众人正襟危坐,从上座开始右手取茶入碗,左手持壶冲茶,依此而行,个人饮后报出茶的种类、产地、颜色等,说中者为胜。

此后,僧人将此斗茶游戏与日常饮茶礼义相结合,制定出固定的茶仪,成为武士家族的礼法。

这种茶仪便成为日本茶道的雏形。

到15世纪,日本僧人珠田村光苦修30年,致力于茶室、茶具以及饮茶礼仪的日本化,并把佛教、儒教文化融入品茶过程,强调饮茶时人的精神感悟,茶道由此创立。

公元16世纪,千利休对茶道文化进行了丰富发展,使之逐渐风行日本。

现在,日本茶道已发展为“表千家”、“里千家”多个宗派。

其中,最富盛名的“里千家”茶道至今已传世15代,其茶室“今日庵”还被政府列为“重要文化财产”予以保护。

实施茶道以要有专用的煮茶工具,而要有精致的陶质茶碗,三要有品茶的茶室。

煮茶工具主要有木炭火炉、小水釜(圆肚铁罐)。

这些工具正好和“五行”相对应:撮茶的铜勺为金,舀水小桶是木,陶制的茶盅是土,再加上炭火煮水,所谓五行具备缺一不可。

第二讲 日本的儒教和佛教

第二讲  日本的儒教和佛教
———恩格斯: 反杜林论》 ———恩格斯:《反杜林论》 恩格斯
宗教为何迄今不衰反盛? 宗教为何迄今不衰反盛? 古代宗教兴盛的基础: 古代宗教兴盛的基础: 贫、病、争 当代宗教兴盛的原因: 当代宗教兴盛的原因: “宗教的共同本质是希望。”“哪里有希望, 宗教的共同本质是希望。”“哪里有希望, 哪里有希望 哪里就有宗教。 哪里就有宗教。”
——鲁斯·本尼迪克特:《菊花与刀》 ——鲁斯·本尼迪克特: 菊花与刀》 鲁斯
“人们的特殊主义牢固地与人们的集体相联系, 人们的特殊主义牢固地与人们的集体相联系, 是由对其首领的忠诚为象征的。在日本, 是由对其首领的忠诚为象征的。在日本,忠诚的巨 大重要性就是我们所设定为占首要位置的价值的具 体表现。重要的是, 体表现。重要的是,这种忠诚是对自己集体的首领 的忠诚,而不管首领人物是谁。 的忠诚,而不管首领人物是谁。这与其说是对人物 本身的忠诚,不如说是对任务地位的忠诚。 本身的忠诚,不如说是对任务地位的忠诚。
一 儒教 1. 原始儒教的核心思想 “儒者,濡也。” 儒者,濡也。
——郑玄: 三礼目录》 ——郑玄:《三礼目录》 郑玄
“仁,亲也,从人二。” 亲也,从人二。
——许慎: 说文解字》 ——许慎:《说文解字》 许慎
日本儒教
“今天,几乎没有一个人认为自己是孔教徒,但 今天,几乎没有一个人认为自己是孔教徒, 在某种意义上说,几乎所有的日本人都是孔教徒。 在某种意义上说,几乎所有的日本人都是孔教徒。”
2. 儒教在日本的嬗变 日本著名学者森岛通夫在《日本为什么“成功” 日本著名学者森岛通夫在《日本为什么“成功”?》 一书中,将儒教在日本的嬗变称作为“宗教改革” 一书中,将儒教在日本的嬗变称作为“宗教改革”。 概括而言,这项“改革”使儒教在日本主要发 概括而言,这项“改革” 生了两个根本性变化。 生了两个根本性变化。

佛教日本化与发展

佛教日本化与发展

佛教日本化与发展一·鎌仓佛教源赖朝统一了平安时代末期的混乱,于后鸟羽天皇建久三年(一一九二),在鎌仓设置将军幕府,拉开武家政治的端绪。

直到后醍醐天皇元弘三年(一三三三),北条高时灭亡为止,这段以鎌仓为政治中心的时代,称为鎌仓时代。

鎌仓时代约有一百五十年的历史,日本佛教经过飞鸟时代的定位、奈良时代的兼修、平安时代的融和,到了这一个时代,形成了一个转变的时期。

原先贵族的跋扈、教界的衰微,此时开始了反省、革新,于是产生旧有宗派的复兴与新兴宗派的兴起。

新宗派的祖师们都是出身比叡山天台宗,他们的新主张被视为异端,旧佛教自认为南都诸宗真言与天台才是佛教的正统派。

由于时代的动荡,新旧佛教相互之间产生了多元化的影响。

今依时间先后次序,分三期介绍。

第一期:代表人物是法然与荣西法然与净土宗法然(一一三三至一二一二)是净土宗的开祖,以平安的东山吉水为据点,弘布念佛法门。

他主张在末法时代,世人应放下深奥难懂的圣道门,转信简易的净土门。

他反复强调“往生之道,念佛为先”,大力提倡口称念佛。

由于战乱频仍,人心动摇,法然提倡的称名念佛,简单易行,于是迅速扩展普及。

法然圆寂之后,净土教团的弟子们各执法然其中一部分的教说为正统,另立流派,宣扬念佛法门。

荣西与临济禅荣西(一一四一至一二一五)被尊为日本禅的开祖。

仁安三年(一一六八)入宋,至天台山求法,得天台章疏三十余部;归国后,呈天台座主明云。

文治三年(一一八七),再次来华,登天台山,师事临济宗黄龙派虚庵怀敞禅师。

建久二年(一一九一)返日,始行禅规,道俗满堂,遂于筑前博多建立圣福寺,这是日本禅寺的创始。

他主张坐禅是万人之道,虽大钝少智之类,若能专心坐禅,必能得道;同时他也告诫弟子们,禅与天台、真言都是禅者应学之教。

荣西认为佛法与王法不可分离,兴禅可以护国,因而受到鎌仓幕府的信任,建立寿福寺,亦于京都开创建仁寺,作为台、密、禅三宗兼学的道场,并融和三宗而形成日本的临济宗。

荣西之后,临济禅师辈出,加上宋朝诸位禅师的热心传布,形成一股蓬勃的禅风,得到幕府及武家的信奉与护持。

日本早期社会主义运动与佛教——以“大逆事件”为中心

日本早期社会主义运动与佛教——以“大逆事件”为中心

和平,因此,对幸德秋水在 《平民新闻》上所宣传
手,一起教化国民;三是下决心一洗江户时代以来
的旧弊
[
1]
561
。佛教希望政府可以看到自己在抵制
认为 《平民新闻》所宣扬的互助平等的社会主义社
会与其理想中的禅堂生活相一致,峰尾节堂更是坦
“邪教”、教化国民等方面的价值,这一策略获得了
言其接触社会主义的起因正是被社会主义者之间互
另一 方 面,1872 年 4 月 25 日, 新 政 府 颁 布
述,无论在社会体系还是佛教体系中,两极分化的
“自由食肉、娶妻、蓄 发, 法 事 之 外 可 穿 着 一 般 服
端,相比前者对平等的向往,后者在经济与地位上
内容为: “僧 侣 可 自 由 食 肉、娶 妻、蓄 发 等, 自 今
力,而仅是在佛教内部进行改革,以更好地适应既
系。与此同时,佛教各 宗 开 始 向 海 外 派 遣 留 学 僧。
彦等人有着密切而友好的交流。他们对彼此的认同
当时英法等国兴起了搜集研究梵文、巴利文典籍的
同样是建立在两种 思 想 具 有 某 种 一 致 性 的 基 础 上,
风潮,日本各宗纷纷派遣人员前去学习。后来引领
但双方自始至终保持在两个阵营,原因在于:一方
义者构成了当时社会主义阵营的主要力量,安部矶
尤其在甲午战争后,日本工业化发展突飞猛进,社
雄、木下尚江等基督教社会主义者的言说在当时也
会矛盾进一 步 加 剧。 劳 资 对 立 加 深, 贫 富 两 极 分
具有相当大的影响力。
DOI:10
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14156/
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.2021
.02
.008

禅と日本文化

禅と日本文化
在的,它意味着脱离一切
利己的困扰,把“爱”惠施于万物。在佛
教中,爱一切施及非生物界。因为佛教相
信,一切存在只是现存状态的延续,不论
采取哪一种形态,只要把爱渗透其中,最
终定会成佛。
刘怡杨
• 般若受到无明和业的密云遮蔽,沉睡于我们心中。禅的目
的,就是要唤醒般若。无明和业起因于对理智的无条件屈 服,禅则要反抗这种状态。理智作用表现为逻辑和语言, 但当禅被要求表达自己的时候,它却蔑视逻辑而保持无言 的状态。理智的价值只有在把握住事物的真髓之后才能意
義空が来日して檀林寺で禅の講義が行われたものの、当時の日本にお ける禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録が 残っている。 • 鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(禅宗寺
院・禅林)が建てられるようになった。また、五山文学や水墨画のよ
うに禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。
但有一点根本不同的是佛教在有印度向中亚中国的发展过程中由于礼仪教典以及种族心理等因素的影响在众多的佛教大师及教派周围逐渐附加上了种种肤浅的观念
禅と日本文化
刘怡杨
日本の禅の歴史
• 日本には、公式には13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされている。
だが、9世紀(平安時代前期)に皇太后橘嘉智子に招かれて唐の禅僧・
创造直接表现人类灵魂的艺术或者真正获得生活 的艺术,
理论就不适合了。实际上,与创造的本义相关的任何事物, 都是“只可意会,不可言传”,都要超越推论式的理解,禅 的格言就是“不立文字”。
刘怡杨
知識の種類
书本知识,通常所说知识的绝大部分就属 于这种。人们把这些知识记忆下来,当做 一生中最珍贵的物品。 科学,它是观察、实验、分析和推理的结 果。由于它在某种程度上带有体验的色彩, 就比前者有着更坚实的基础。 靠直觉的方法领悟到的。

日本佛教——精选推荐

日本佛教——精选推荐

⽇本佛教,北传佛教之⼀。

佛教传⼊⽇本,已有1400余年的历史。

初传时期⼀般以⽇本钦明天皇13年(552)百济的圣明王进献佛像、经论、幡盖和上表劝信佛法,为佛教传⽇之始。

⼀说是继体天皇16年(522),南梁司马达等来到⼤和,建⽴草堂,安置佛像礼拜,为⽇本有佛教之始。

不过,当时世⼈不知佛像为何物,视为异域之神崇奉。

百济的佛像传⼊⽇本以后,在朝廷贵族之间,引起激烈的争论。

天皇乃依请求将佛像交给⼤⾂苏我宿祢稻⽬试⾏礼拜。

稻⽬舍出向原的住宅安置佛像。

后疫病流⾏,屡有死亡,⼤⾂物部舆认为是国神的谴责,奏将佛像投于难波(今⼤阪)的堀江,并烧毁供佛的殿堂。

苏我⽒和物部⽒之间的信仰之争,实际上反映了皇室和苏我⽒为代表的主张接受⼤陆政治制度和宗教⽂化,与以物部⽒和⼤伴⽒为代表的贵族反对接受⼤陆政治⽂化的政治之争。

佛教在⽇本流传后40年,为⽇本飞鸟时代的开始。

圣德太⼦摄政,下诏传播佛教,贵族⼤⾂竞造佛寺,从此佛教⼴传⼲⽇本。

推古3年(594),⾼丽僧慧慈、百济僧慧聪来到⽇本,说法于法兴寺。

圣德太⼦奉慧慈为师,学习佛教。

12年,圣德太⼦制定宪法17条,其第2条就是"笃敬三宝".由于圣德太⼦的弘扬,⽇本佛教很快得到流传。

圣德太⼦死后25年,⽇本发⽣了"⼤化改新",即模仿中国唐代⽂物制度,进⾏政治、⽂化、经济等⽅⾯的改⾰,建⽴了中央集权制度,完成了国家的统⼀。

由于促进这个⾰新运动的中⼼⼈物,如被任命为国博⼠的⾼向⽞理、僧曼等,都是⼊唐留学僧,故使佛教进⼊⼀个新时期。

奈良时代(710~784)圣武天皇治世的天平年间,奈良佛教极盛,有五⼤寺。

天平13年(741),⼜敕建东⼤寺,并于诸国建国分寺,以东⼤寺众总国分寺,统辖国分寺。

东太寺是圣武天皇发愿,良辨僧都奠基,⾏基菩萨劝化,天竺婆罗门僧菩提仙那导师完成的。

他们被称为东⼤寺的四圣。

中国唐代鉴真受请赴⽇传戒,天平宝字3年(759)于奈良建⽴唐招提寺。

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政治的催化
许多国家的当权者都知道宗教的潜在力量。据说为了协助各宗教发 展及促进宗教谅解,他们不时邀请各宗教活跃要分子参与各种活动, 使到各宗教领导及信徒不得不花费大量的时间与资源在政治主导的 活动。这不仅弄到宗教领导的角色变异,资源分化,也搞到宗教活 跃要分子的面孔也变了-变得越来越像政治人物了。由于经常与政治 人物往来周旋,他们的作风、言谈、举止乃至思想都变得跟政治人 物没两样。
ご清聴ありがとうございました
僧人的变异化,可分为角色的变异化及生 活的变异化。僧人的本来角色是修行者、 弘法者,法务主持者。世俗化的僧人,不 再扮演上述角色(或把上述角色边沿化), 而改变为CEO,财务管理者,活动策划者 (Event Manager),行政管理者,甚至公 关。
今天许多佛教徒把各种仪式当作解脱之道,即使是不究 竟的解脱道。许多佛教徒期望通过仪式来洗清自己的恶 业,增加自己的福报,或通过仪式来换取功名、权势、 金钱、健康、文凭,爱情等各种世俗的要求。再者,佛 教徒把仪式这门功课交给法师们承包,自己只须掏腰包, 连参与也省下来。这和波罗门教的仪式由何分别?所以, 佛教的仪式功利化,也可称为仪式波罗门化
私钱太多 佛学教育的变化
今日佛教世俗化的根源何在, 值得在此探讨。首先必须提到 全球化的影响。经济全球化, 把人类内心本有的“贪”挖掘 出来“发扬光大”,把它“无 疆界化”、“快速化”、“体 制化”的推广到世界各地去。 这股“贪球化”无孔不入的横 扫世界各地,人人为满足内心 的“贪”而疯狂。金钱、物资、 消费、感官享受、名利等成了 现代人的“终极关怀”。学佛 的人,不管是僧人还是在家人, 都难以抗拒这大趋势。学佛者 在“贪”的世界里打滚,耳喧 目染之下,入鲍鱼之室而不知 其臭,同流而合污。
镰仓 (1 1 9 2 一1 333 )的新佛教宗派中, 有的已有明显的世俗化 倾向, 如净土真宗的创始人亲莺认为对僧侣信徒不必规定特别的戒 律, 只要遵从一般社会道德习俗即可。他本人过着非僧非俗的生活, 娶妻并有四男三女, 也不禁止食肉。这种世俗化做法对其他宗派也 有影响。这种世俗化倾向至江户时期更有发展。
佛团寺庙办活动,越来越讲究气派排 场。办一个开幕仪式,花几万块来搞 花样也不眨眼。世俗重视钱,现在一 些有钱的佛团也大显财气,办起活动 来财气逼人,从国外请来法师,坐商 务机场,住五星级酒店,出入用大房 车,吃到“朱门酒肉臭”的杯盘狼藉, 最后还要奉上每人数千大元的红包纪 念品等
为何世俗化
“贪球化”的影响 政治的催化
私钱太多 。。。。。。
佛学教育的变化
一是佛教僧侣的参政, 如天台宗的反海、
临济宗的崇传, 曾参与幕府的军政机要。
二是江户时期幕府为禁止天主教的传播, 让佛寺掌管宗门户籍, 对居民施行监督, 形成严 格的寺、檀(施主) 关系。僧人衣食有余, 日益
腐ห้องสมุดไป่ตู้。
三是更多僧人还俗研究治国平天下的道理, 成 为儒学大师, 如藤原惺窝、林罗山和山崎阁斋等, 开朱子学之先河。 四是各宗对佛教世俗化理论的宣传
战后的日本由于城市寺院在战火中受到很多破坏, 农村寺 院在农地改革中失去旧有的土地和租佃关系, 再加上农村 人口犬量集中到城市, 传统佛教无论在势力上还是在影响 上, 都曾出现急剧下降的趋势。在这种情况下, 大量僧侣还 俗从事教育文化和国家公务员工作, 也有的虽仍从事佛教 事务, 但也兼职其他工作。此外, 不少佛教团体、寺院积极 兴办托儿所、幼稚园,旅馆学校和各种观光事业。随着5 0 年代日本经济的恢复, 传统佛教的势力才开始回升
江户时期(1 6 0 3 一1 8 6 7), 开始进入佛教世俗 化的时期。幕府为禁止天主教的传播, 让佛寺掌 管宗门户籍, 对居民施行监督, 形成严格的寺、 檀(施主) 关系。僧人衣食有余,日益腐败。 在这个时期,佛教内部的世俗化倾向有了进一步 发展。有不少僧人鼓吹诸教合流,主张吸收世俗 伦理道德,肯定现实封建秩序,提倡生活日用即 为佛道的思想
世俗化现象
• 道场金钱化
• 僧人变异化 • 仪式功利化 • 活动庸俗化
道场金钱化,是今日佛教世俗化最具体的写照。 今天世界各地,有许多道场,不顾道业,只顾商 业。这些道场金光闪闪,财气逼人。道场里没有 道风,只有商业气息,臭铜味掩盖了香味。
金钱为重,佛法为轻。有了臭铜味,没了法 味。道场金钱化后,道场变得更有钱,但失 去了道风。
佛教起源
佛教起源于古天竺(印度) , 自两 汉之际起逐渐传入中国内地。日本 的佛教则是经中国(或以朝鲜为中介)
而传入的。
在中日两国佛教文化的交流过 程中, 频繁往来的中日僧人是日本
佛教的播种者, 而汉文佛典则是这
些播种者所播下的佛教文化种子。
“ 佛教世俗化” , 是从相对的意义上来说的, 指的是佛 教与世俗社会逐渐接近 的一种倾向。它主要包含两层意义: 一是佛教努力缩小 与其它传统思想文化和宗教的差别,积极吸收世俗社会 通行的道德准则; 二是佛教僧侣从事更多的世俗事物, 戒律松弛, 佛学修养下降
l、政治方面的引导。改革开放以来,我们的政治制度发生 了很大的变化。 2、经济方面的促动。来自地方政府的商业促动,也是佛教 世俗化的一个动因。 3、海外及港澳台的影响。
一、混合世俗社会的暗流 热衷名闻利养的追求 二、高举培养人才的旗帜 缺乏务实求真的态度 三、重视寺院经济的发展 忽略组织道风的建设 四、僧尼职业化趋势的泛滥 佛教信仰观念的淡泊 五、倡导佛学教育的开展 缺乏应有的宗教体验
日本经明治维新(1 8 6 8) 进入资本主义社会佛教在维新之时及其以 后, 进行了一些改革, 例如, 规定僧侣是一般职业, 只称姓氏; 解除旧 有的禁止食肉、带妻、蓄发的禁令;确定宗制、宗法, 规定各宗设管 长、宗议会; 各宗创办大中学校, 发展教育事业日本佛教注重汲收世 俗人伦道德, 将人世人性理论与出世佛性理论相结合, 形成了日本佛 教的世俗 1872年政府公布了“从今往后,僧侣食肉、娶妻、蓄发等悉听尊便” 的“太政官令”,取消了一切政治制约,实行宗教自由化政策。这 样一来,日本各宗僧侣竟相效仿净土真宗,食肉娶妻成为普遍、正 常的事情、也成为了主流性。
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