日本人の无常観

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要旨
日本の伝統社会は、その奥深くに仏教の物の考え方が流れている。

仏教の中で日本人が最も重大視して受け入れたものは「無常観」である。

この無常観というのは何も仏教だけがもたらしたのではなく、日本の自然そのものが教えてくれたものでもある。

桜は日本の象徴である。

桜好きな心は、満開の桜の花だけでなく、風にはらはらと散りゆく桜の花びらも、はかなさを感じる日本人の無常観と繊細な感受性となって独特の日本文化を創ってきた。

もう一つの日本的世界観とは無常観と考えるかもしれない。

この無常観は社会や生活にどのように反映しているのであろうか。

その意義が何であるか。

本稿では、上述した無常観の内容について考察する。

きーワード:仏教;無常観;桜;日本文化;日本的世界観
摘要
日本传统社会深奥的佛教事物思维方式渊源流长。

日本人最重视吸收的是佛教中的无常观。

所谓的无常观不仅来自于佛教,也得益于日本自然本身。

樱花是日本的象征。

这份喜欢的心情不只是对于满开的樱花,随风簌簌散落的樱花花瓣给人一种虚无感,形成了日本的无常观及细腻的感觉,创造了独特的日本文化。

无常观可以被认为是另一日本式的世界观。

它在社会、生活中反映如何?意义何在?本文将就上述无常观的内容进行考察。

关键词:佛教;无常观;樱花;日本文化;日本式世界观
日本人の無常観
はじめに
日本は、大陸から離れていて、海に囲まれていた孤島として、統一国家が形成されて以来、外族の侵入がほとんど無く、自ら外来文化を吸収しながら、独自に発展してきた。

このような自然環境のもとで、日本的無常観を人々の心に植え付けた「無常」は、日本人の文化心理や社会生活にいろいろ影響を与えた。

1.無常観の由来及び内包
1.1無常観の形成
6世紀に中国、朝鮮を経て日本に伝えられた仏教は、12世紀ごろまでの間、貴族のための宗教であった。

13世紀から庶民の間でも非常に盛んになり、同時に武士のなかでは「禅」が普及され、これらは現在まで引き続いて日本人の宗教の中心になっている。

仏教は「自ら真理に目覚めることによってえられる悟り」を究極の境地とする。

また、「あらゆるものが無常であるのに恒常のものと考え、すべてのものは実体を持たないのに実体あるものと考える執着を絶つこと」を眼目とする。

日本は、火山、地震、台風、豪雪、津波、雪崩などの自然災害が多発する国である。

自然からの恐怖だけでなく、島国の閉鎖と開国の体験として、資源の欠乏などそれぞれの危機を抱いて、とくに競争心の強い日本人はつねに危機感を感じるのが島国根性からだといわれる。

一方、極めて悪い生存環境は人々を個人だけに頼って単独で生存させにくい。

以上の特徴によって、日本人は個人が敏感に疑い深いが、集団意識の極めて強い進取の開削準備工事型民族の性格を育成した。

日本人の心には仏教の教えに相当する二つの心理がある。

一つは生命の絶えず変わる観である。

二つはその質素な集団の生存する観念を謹直で礼儀を守る民族の性格に変わった。

ですから、仏教が日本に入ってきた後に急速に日本人に受け入れられて、絶えず変わる観念は日本人の心の中に根を下ろした。

1.2無常の思想
「無常」は、中国古典と仏経の中に出た言葉である。

一つは、万物は流転して、常住なるものはないとする「諸行無常」の思想。

もう一つは、万物の流転することを認識し判断する主体そのものが無常であるとする「五蘊無常」の思想。

三つめは、無常も有常もない、有無の対立とか差別とかを超越した涅槃に到達した時に、はじめて真の無常観即ち空観が成立するとする思想。

無常観というのはもともと、インドのお释迦様が言ったことで仏教からのものである。

お释迦様の言う無常は哲学である。

万物は流転する、永遠に不変
なものは存在しない、どんどん変わってしまう。

いまあなたがいる建物も必ず朽ち果てる。

あなたの周りの人間も百年後には誰もいない、何もかも永遠に同じ形を保つことは出来ない、という当たり前ともいえる哲学である。

2.無常観のさまざまな表現と意義
2.1無常と日本文学、文化
2.1.1無常と日本文学
無常の思想のうち、日本文学に関わりをもち続け、またある程度まで日本の民衆の精神生活に浸透していたものは、もちろん、万物流転の無常感である。

つまり、世間すべての物が生滅、変化して常住でない事を言っている仏教的な意味で使われている一方、また人生のはかないと言う日常的な意味で使われている。

無常観と称するよりは無常感と呼ぶのが相応しい感情内容である。

無常感は人々によって違う、強さと弱さの差別がある。

日本では、「無常」と言う言葉は、文学作品の中によく使われた。

日本人の無常観を詠った有名な歌に「いろは歌」がある。

この歌は世の移り変わりが極めて早く、美しい花のような人生の短さと幻さを嘆き、歳月は人を待たないという仏教的な無常の思想を表した。

「平家物語」は平安一門の栄華と衰退を物語にしているものである。

さらには、自分の地位や家を捨てて、あえて落ちぶれていこうとする「出家遁世」という生き方が出てくる。

その中にも、共通してこの時代の人々をつき動かしていた感覚があった。

それが無常観である。

もともと仏教に、この世の中はすべて有為転変するはかないものだという考え方があったのであるが、日本人は和歌や物語を通して、それを美意識にまでしていく。

鴨長明が「方丈記」に書いているように、この世のすべてのことは水の流れのように「久しくとどまりたるためしなし」、そのような無常観は吉田兹好にいたっては、ただの無常観ではなくなっている。

兹好法師は「徒然草」を通じて、当時の人々に「末世であっても、楽しもうよ」と声をかけたのである。

そのような無常観の文学の中での発展から、日本人の矛盾のある美意識をちょっぴり覗くことができるだろう。

日本人は美しいものに対して、楽しみながら悲しみ、悲しみながら楽しんでいるのである。

さらに、日本人が美しく思ったものには必ず矛盾する美が含まれなければならないようだ。

たとえば、日本人にとって満月は無論美しく思われているけれども、俳句の中でより多く歌われているのはやはり雲でちょっと覆われた月や、雤の日に想像された月のことである。

日本の人には、完璧な美しさよりは、少しだけ残念な気持ちを与える不完全な美しさのほうがより理想的な美なのである。

2.1.2無常と日本文化
北インドから中国を通って日本に来た無常観も変質を遂げた日本人の無常観は、「すべては変わりゆく」というドライな達観から派生して、弱者へのいたわりとか敗者への涙という情緒を生み出した。

ドライな達観が、儚く悲しい宿命を共有する人間同士の連帯、そして不運なものへの共感へと変質していったのだろう。

「平家物語」の中に、武士道の典型として敵の平家の武将を捕まえて、殺そうと思って顔を見ると、まだ若い。

このような敗者、弱者への共感の涙、これが日本の無常観にはある。

こういう無常観、武士道でいう惻隠に近いものが今でも日本人の心の中に流れていて、心を揺さぶられるからであろう。

この無常観はさらに抽象化されて、「もののあわれ」という情緒になった。

日本の中世文学の多くが、これに貫かれている。

「源氏物語」には男女の関係がいろいろ描かれているのであるが、その根底には「もののあわれ」がある。

すなわち人間の儚さや、悠久の自然の中で移ろいゆくものに美を発見してしまう感性である。

これは大変に独特な感性である。


常観を日本独自の「もののあわれ」という情緒まで育て上げた。

お茶を飲む、花を生ける、字を書くという当たり前の事を<茶道、花道、書道>という芸術に昇華する能力を持っている。

日本人の感性のすばらしさである。

たとえば、日本のお茶人はテイーパーティを行う時、皆一期一会の心理状態を持っている。

毎回お茶が仕える会、本当は一生一度の会である。

このような一期一会の観念は実際に仏教の無常観の体現である。

仏教の無常観が人々を促して一分一秒重視して、真剣に具体的な時間と事柄に対応する。

お茶の事が開催する時、主要な客は皆極めて重視して、互いに一生一回の信念を持っている。

体得は人生がお茶の泡のように世の中で瞬く間にすぐ死去して、そしてここから共鳴を生む。

そこで会議参加者は互いにしっかりと相連なることと感じて、一種のお互いに依存する感じと生命の充実させる感じを生む。

これはテイーパーティの外の場所で身をもって経験することができない一種の感じである。

2.2無常と日本的世界観
2.2.1無常の仕事観
無常観というとむなしさの感覚であり、常に変化をしているという世界観である。

日本人の美的感覚の中には、変化をしている存在自体を美とする感覚がある。

散りゆく桜や色づく木の葉は、桜や木の葉そのものの美しさもあるが、これは「散りゆく」「色づく」という変化そのものからの感覚のである。

我々の生活を取り巻く環境はその移ろいが非常にわかりやすく、その変化に合わせる形で我々の行動を変化させ、生活も変化をさせていく。

日常生活やそれを伸延した歴史や人間、生に対する見方に変化こそが常態という世界観があると思う。

日本人の仕事観は、常に「未完」である。

すべての仕事は進化するものという考えが濃く、改善の余地は常に何かあるはずだという考えが強い。

この変化、進化していることこそが常態という考えが日本人の仕事観である。

また人材に対してはさらに強く「変化をするもの」としてとらえている。

日本企業における人材の見方は、仕事を分解することによって固定的に定められる人材像では決してなく、仕事と人材が相互に成長するようなダイナミズムが前提になっている。

この前提を基に教育制度や配置など様々な制度が構築されている。

仕事や人への無常観は常に仕事や人を進化させることが常態となり、人材に
背伸びをさせ、カイゼンを全社的に展開した。

そして人材は育ち、役割遂行の幅はさらに広がっていたのである。

日本的組織は極めて高い遂行力を発揮した。

サラリーマンたちが会社をウチ化させながら全体を意識して役割を果たした。

2.2.2無常の死生観
日本人は、死を美しくする意識が強い。

その原因は、日本では「死によって生かす」、自殺それ自体が潔い行為と見られ、罪悪視されることはないからである。

自殺の行為は何度も現われた。

そして、切腹が自殺法の一種として残された。

これには仏教の無常の厭世思想が果たした影響が大きく、自殺をタブーとするキリスト教文化圏の思想とは大変異なっている。

キリスト教の文化の中で、自殺は一種の罪で、気の弱い、責任を負わない態度である。

でも、日本の伝統文化の中で、自殺するのは失敗に対して責任感がある行為で、一種の謝罪する形式である。

日本の古代と現代の文学中、死亡することに関した寂しい美しい描写がたくさんある。

多くの日本の文人は更に自殺で自分の人生の最後の一章を書いた。

その中はノーベル文学賞の獲得者の川端康成と有名な作家の三島由紀夫を含む。

昔から今まで、日本人は桜の芳ばしい瞬間の寂で短く入り乱れがいっそうきらきらと輝かしいことを賞賛している。

人の生命はまたこのようである。

日本の文化と歴史の核心で、自ら壊滅して自ら昇華するのを追跡する伝統が存在している。

日本人がこれまでずっと崇め尊ぶ武士道精神は既にこれと密接に関係することである。

仏教の「無常」思想は日本人の死生観に最も大きな影響を与えた。

2.2.3無常の人生観
日本人の無常観とニヒリズムを峻厳に区別することはできないが、ニヒリズムは無常のすべての内包ではなく、克服しなくてはならない課題がニヒリズムにはある。

一般に逃避的な傾向と反抗的な傾向がニヒリズムにあるからだ。

ニヒリズムに徹する生き方は絶望の淵に沈みやすいものである。

純粋なニヒリズムに徹した人生とは難しいものなのかもしれないが、でも、絶望に徹することも現実的には長く続かない。

時間が経つにつれ、その絶望した時間すらも、長い人生にとって意味あるもの、懐かしいものとして意味づけられ、ニヒリズム
とは異種の境地に達することができる。

人生の無意味さに耐えて、結局は人生の意味を見出すのが無常観の奥深い哲理だと言える。

日本の自然は、四季にうつろい、変化に富んで、慈母のごとく人間を包み込んでくれる慈愛あふれる側面があるけれども、自然が暴れ出すとどうにも手の付けようがない。

人間に対して物すごい暴力を加える、破滅を与える、そういう恐ろしい自然である。

そういう自然と千年、二千年つき合ってきて、自然が怒り出したときには人間はなすすべを知らない。

絶望するんじゃないけれども、その自然に従順に添って生きる生き方、そういう知恵を蓄積してきた。

自然とともに生きる、自然の前にこうべを垂れて自然には絶対反逆しないという心構えで生きて、その精神態度の底に無常観が流れているのである。

物すごい大災害があっても、翌日からまた生きていく、そういうしたたかな現実主義みたいなものが、生きるための無常観である。

日本人は心の奥深くしまいこんでいた無常観をみせるところ、無常の出来事に自分の身を重ねて暮らしてきた。

日本人というのは昔から、自然の中に神を感じ、人を感じてきたところがある。

人の声を聞き、神の声を聞いてきた、これが共生感覚の基本にあるわけである。

バブル以降の経済的不況の中で、日本経済はどう生き残るかとか、世界のレベルで、地球環境がどんどん悪化していく中で人類はどう生き延びるかとか、文化圏で議論されている。

世界の発展がなければ日本も発展できなく、日本の前進は世界と一致した歩調を取らなければならない。

生きるための無常観に支えられた人生観というのは、「生きるときはみんな一緒に生かしよう」という感覚である。

「共生」の思想ということになるのである。

それでは、日本も全世界も引き続き進んでいく。

おわりに
日本語を勉強してから、桜は日本人が最も好んでいる、最も賛美している花だということを知った。

初めて桜の散るのを見た時、何と美しい情景だろうと思ったが、それとともになぜか悲しい感じを味わった。

薄いピンク色の花びらが風の流れの中で踊っているように見えた。

美しいものに対して、中国の人は
たぶんそれを賛美し、単純に楽しむのが普通である。

中国人とちがって、ほとんどの日本人はそれを楽しみながら、それが常ではない、長く続かないと思っているのであろう。

一言で言えば、日本人の美意識には日本人がいつでも持っている無常観がある。

無常の世界は日本人に危機感を与えた。

日本人は、宿命的な「無常」のもと、自然に順応しながら、資源の乏しい島国でせっせと働いている。

日本は常に、危機感の中で自己否定を通して、世界に習い、自身の発展を求めている。

いい意識が正しい行動を指導できる。

これから、日本と日本人の各方面に無常観の影響が絶えて存在してそれらの発展を進めていく。

そして、日本的無常観が深く発展を得ることができる。

自分の能力などの制限で詳しく深く分析できないが、これから、機会があれば、日本人の無常観について探究し続けて行きたいと思う。

参考文献
1.大森和夫『日本』大連出版社1997年
2.苑崇利『日本概観』外文出版社2001年
3.韩立红『日本文化概論』南开大学出版社2003年
4.本田義憲『日本人の無常観』日本放送出版社1979年
5.小林秀雄『现代日本文学大系』筑摩書房1979年
6.唐木顺三『無常』筑摩書房1985年
7.長崎浩『日本人のニヒリズム』作品社1992年
8.目崎徳衛『数寄と無常』吉川弘文館1988年
9.九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫1981年
10.目崎徳衛『出家遁世、超俗と俗の相克』中公新書1988年
11.大久保喬樹『日本文化論の系譜「武士道」から「甘え」の構造』中公新書2003年12.刘利国『日本文学』北京大学出版社 1996年。

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